第18話 奪いし力、見抜く瞳
岩牙獣が跳んだ。
赤い瞳が暗闇を裂き、鋭い爪がユウキの喉元へ迫る。
ユウキはエルヴィンの肩を抱いたまま身体を捻り、崩れた岩の陰へ飛び込んだ。
直後、獣の爪が石壁を抉る。
砕けた破片が頬を掠め、熱い痛みが走った。
「ぐっ!」
着地した足がもつれ、ユウキは膝をつく。
身体中が痛んだ。
先ほど受けた攻撃に加え、エルヴィンを支えて逃げ続けた負担が、限界に近づいている。
「私を置いて逃げろ!」
エルヴィンが叫んだ。
「君まで死ぬ必要はない!」
その言葉に、ユウキは首を振った。
「それじゃ、あなたが死んでしまいます!」
「私は帝国の魔術師だぞ! 君を拘束し、帝都へ連れていこうとしていた人間だ!」
「わかっています!」
ユウキは荒い息を整えながら答えた。
「でも、さっき俺を助けてくれました。だから今度は、俺が助けたいんです!」
エルヴィンは言葉を失った。
その背後で、岩牙獣が低く唸る。
獣は倒れた荷車の向こうを回り込み、逃げ道を塞ごうとしていた。
ユウキは周囲を見渡した。
前方には崩れた岩の山。
左手には壁際に積まれた古い資材。
右手には、岩牙獣。
そして背後には、落盤によって生まれた大きな亀裂が口を開けている。
逃げ場は、ほとんどなかった。
だが、一つだけ気になることがある。
崩れた岩の隙間から吹いてくる、冷たい風。
どこかに空間が続いている証拠だった。
「エルヴィンさん、あの岩の向こうに通路があるかもしれません」
「何?」
「風が来ています。完全には塞がっていないはずです!」
エルヴィンは苦しそうに顔を上げ、岩の隙間を見つめた。
「たしかに……微かに空気が流れている」
彼は左手で杖を握ろうとしたが、指先が震えている。
魔力を使いすぎたのだろう。
「氷槍を一発撃てれば、岩を崩せるかもしれないが……」
その言葉が終わる前に、岩牙獣が地面を蹴った。
ユウキはエルヴィンを岩陰へ押し込む。
「ここにいてください!」
「ユウキ君!」
振り返る暇はなかった。
獣の前脚が石床を踏み、重い振動が伝わってくる。
――トン、トン!
振動感知。
ユウキは半歩だけ横へずれ、突き出された爪を紙一重で避けた。
そのまま足元の石を蹴り上げる。
石片が獣の目元へ当たり、岩牙獣が首を振った。
その隙に、ユウキは資材の山へ飛び込んだ。
置かれていたのは、古い木板と錆びた鉄鎖。
ユウキは鉄鎖の端を掴み、近くの支柱へ巻きつける。
もう一方の端を床の低い位置に引っかけた。
即席の足止めだった。
岩牙獣が振り返る。
唸り声を上げ、こちらへ突進してきた。
「来い!」
ユウキは一歩下がった。
獣が勢いよく踏み込む。
前脚が鉄鎖に引っかかり、巨体が前のめりに傾いた。
しかし、鎖はすぐに引き千切られた。
――ガシャン!
岩牙獣が体勢を立て直す。
完全には止められなかった。
それでも、数秒は稼げた。
「エルヴィンさん! 岩の隙間を!」
ユウキが叫ぶ。
エルヴィンは杖を左手で持ち上げた。
「氷槍!」
短い詠唱とともに、細い氷の槍が放たれる。
氷槍は岩山の端に突き刺さり、石の一部を砕いた。
冷たい風が、先ほどより強く吹き込んでくる。
向こうに空間がある。
ユウキは確信した。
しかし、その瞬間、獣の尾が横から襲いかかった。
避けきれない。
ユウキは咄嗟に両腕を交差させた。
――ドガッ!
強烈な衝撃が腕を貫き、身体が床を滑る。
背中が岩へぶつかり、視界が激しく揺れた。
息ができない。
指先が痺れ、手足に力が入らなかった。
魔物がゆっくりと近づいてくる。
ユウキは立ち上がろうとした。
しかし、膝が震えるばかりだった。
怖い。
このまま死んでしまうのかもしれない。
頭の中に、かつての光景が浮かんだ。
父親の怒声。
振り下ろされる手。
冷たい床に倒れた自分。
何も言い返せず、ただ謝っていた頃の記憶。
ユウキは歯を食いしばった。
もう、あの頃には戻りたくない。
怖くても、痛くても、自分で選びたい。
生きることを。
誰かを守ることを。
そのとき、背後から声が響いた。
「ユウキ君、伏せろ!」
エルヴィンだった。
魔術師は血に濡れた身体を起こし、杖を構えている。
杖の先端が青白く輝いた。
「氷槍!」
一本の氷槍が岩牙獣の肩へ突き刺さる。
獣が咆哮し、エルヴィンへ顔を向けた。
ユウキはその隙に身体を起こした。
しかし、次の瞬間。
岩牙獣がエルヴィンへ飛びかかった。
「危ない!」
ユウキは叫んだ。
エルヴィンは杖を構え直そうとしたが、もう間に合わない。
獣の爪が右肩を掠め、魔術師の身体を岩壁へ叩きつけた。
――ドンッ!
エルヴィンは短く息を吐き、その場に崩れ落ちた。
杖が手から離れ、石床を滑っていく。
「エルヴィンさん!」
ユウキは駆け寄ろうとした。
だが、岩牙獣が間に立ち塞がる。
赤い瞳が、再びユウキを捉えた。
◇◆◇
エルヴィンは動かなかった。
胸は微かに上下している。
生きている。
しかし、意識は失っているようだった。
その光景を見た瞬間、ユウキの視界に青白い文字が浮かんだ。
《固有権能「略奪」が反応しています》
《対象:エルヴィン・クロード》
《状態:負傷・意識消失》
《略奪条件:達成》
《技能を一つ選択してください》
ユウキは息を呑んだ。
目の前に、複数の技能名が浮かび上がる。
【対象が保有する技能】
・鑑定 Lv.2
・氷魔法 Lv.4
・魔力制御 Lv.3
・魔力感知 Lv.2
・剣術 Lv.4
鑑定。
エルヴィンが持つ、情報を読み取る技能。
これを手に入れれば、今まで見えなかったものが見えるようになるかもしれない。
敵の能力。
魔道具の仕組み。
そして、枷の構造。
ユウキの心が揺れた。
相手は、自分を助けてくれた人間だ。
たとえ敵の立場にいたとしても、命を救ってくれた事実は変わらない。
そんな相手から、力を奪っていいのだろうか。
しかも、略奪を使えば相手はその技能を失う。
エルヴィンが鑑定を失うことは、帝国の魔術師として生きていく上で大きな損失になるかもしれない。
それでも。
目の前では、岩牙獣が爪を立てている。
このままでは二人とも殺される。
ユウキは奥歯を噛みしめた。
選ばなければならない。
これまでのように、誰かに答えを委ねることはできない。
ユウキはエルヴィンを見た。
その顔には、苦痛の色が残っている。
「ごめんなさい」
小さく呟いた。
「あなたの力を借ります。絶対に、ここから連れ出すから」
そして、意識を一つの技能へ向けた。
《選択技能:鑑定 Lv.2》
《固有権能「略奪」を発動しますか?》
ユウキは息を吸った。
「……はい」
《固有権能「略奪」発動》
次の瞬間、胸の奥へ冷たい何かが流れ込んできた。
エルヴィンの姿が一瞬だけ揺らぐ。
同時に、見知らぬ光景が頭の中を駆け抜けた。
魔術学院の教室。
古びた書物。
誰かに褒められた日の記憶。
そして、能力を手に入れるために積み重ねてきた努力。
それらが断片的に流れ込み、すぐに消えていく。
「ぐっ……!」
ユウキは頭を押さえた。
胸の奥が焼けるように痛い。
誰かの人生を、ほんの一部だけ奪ってしまった。
その感覚が、重く残った。
《技能「鑑定 Lv.2」を獲得しました》
《対象は「鑑定 Lv.2」を喪失しました》
《魂蝕値が上昇しました》
ユウキは荒い呼吸を繰り返した。
目の前の岩牙獣が、低く唸っている。
考えている時間はない。
ユウキは新たに得た技能へ意識を向けた。
「鑑定……!」
視界に、淡い光が広がった。
【鑑定結果】
名称:岩牙獣
レベル:7
状態:負傷・興奮
ステータス 鑑定失敗
特徴:
岩のように硬い皮膚を持つ魔物。
前脚の関節部分は比較的柔らかい。
ユウキは息を呑んだ。
見える。
今まで名前すらわからなかった魔物の情報が、確かに表示されている。
しかし、同時に激しい頭痛が走った。
情報が流れ込む速度に、意識が追いつかない。
鑑定を獲得したからといって、使いこなせるわけではないのだ。
それでも、今は十分だった。
前脚の関節。
そこを狙えば、動きを鈍らせられるかもしれない。
ユウキは床に落ちていた鉄棒を拾い、岩牙獣へ向き直った。
◇◆◇
獣が吠えた。
ユウキは動かなかった。
足元へ意識を集中させる。
――トン、トン。
振動感知が踏み込みを捉えた。
岩牙獣が地面を蹴る。
ユウキは右へ跳び、突き出された爪を避けた。
すれ違いざま、鉄棒を低く振り抜く。
――ガンッ!
関節の内側へ命中する。
獣が短く鳴き、体勢を崩した。
しかし、すぐに尾を振り回してくる。
ユウキは身を沈めた。
頭上を太い尾が通り過ぎ、背後の岩へ叩きつけられる。
その衝撃で、崩れかけていた岩山が揺れた。
ユウキは目を見開いた。
岩山の向こうには、冷たい風が流れている。
そして、今の衝撃で隙間が広がっていた。
ユウキは岩牙獣を見た。
次に、岩山へ視線を移す。
正面から倒す必要はない。
ここを通り抜ければいい。
ユウキは足元に転がる小石を拾い、岩牙獣の顔へ投げつけた。
魔物が怒りの咆哮を上げる。
ユウキは岩山の前へ移動した。
その背後には、崩れた岩の隙間。
左側には、エルヴィンが倒れている。
ここで魔物を誘導すれば、岩をさらに崩せるかもしれない。
ただし、一歩間違えれば自分も巻き込まれる。
ユウキは息を整えた。
恐怖は消えない。
それでも、動くしかなかった。
「こっちだ!」
岩牙獣が突進する。
――トン、トン!
足音が迫る。
ユウキはぎりぎりまで引きつけ、横へ跳んだ。
しかし、負傷した脚が思うように動かない。
爪が脇腹を掠め、鋭い痛みが走る。
「ぐっ!」
それでも、倒れなかった。
岩牙獣は勢いを止められず、岩山へ激突した。
――ドガァン!
巨大な岩が砕け、隙間が大きく広がる。
その向こうに、暗い通路が見えた。
冷たい風が、ユウキの頬へ吹きつける。
道が開いた。
しかし、岩牙獣はまだ倒れていない。
魔物はゆっくりと振り返った。
その前脚は傷つき、動きも鈍くなっている。
ユウキは荒い息を吐いた。
今なら、逃げられる。
だが、エルヴィンは意識を失ったままだ。
ユウキは魔物へ背を向け、エルヴィンの元へ走った。
肩を掴み、必死に身体を引きずる。
重い。
自分の腕にも、ほとんど力が残っていなかった。
それでも、少しずつ動かした。
「頼む……!」
ユウキは歯を食いしばる。
「もう少しだけ、動いてくれ……!」
エルヴィンの身体を岩の隙間へ引き込んだ瞬間、背後で岩牙獣が咆哮した。
獣が再び突進する。
ユウキは咄嗟にエルヴィンを庇うように身体を伏せた。
――ドォン!
岩牙獣が隙間の入口へ激突する。
しかし、巨大な身体は狭い通路を通り抜けられなかった。
爪が岩を削り、赤い瞳が暗闇の中で光る。
ユウキは震える手でエルヴィンを引きずり、さらに奥へ進んだ。
岩牙獣の咆哮が、背後から遠ざかっていく。
ようやく、逃げ切った。
◇◆◇
通路の奥は、ひどく狭かった。
人が一人通るのがやっとの幅しかなく、天井も低い。
ユウキはエルヴィンを壁際へ寝かせ、自分もその場に座り込んだ。
肩で息をしながら、魂盤を呼び出す。
魂盤【STATUS】
名前:ユウキ・コバヤシ
年齢:17
種族:人間(異界者)
職業:無職
レベル:2
HP:2 / 36
MP:3 / 8
STR(筋力):8
VIT(耐久力):7
AGI(敏捷性):9
MAG(魔力):3
MND(精神力):12
DEX(器用さ):11
【固有権能】
略奪 Lv.1
【習得技能】
嗅覚強化 Lv.2
身体強化 Lv.2
採掘 Lv.1
振動感知 Lv.1
鑑定 Lv.2
【状態】
重傷・極度疲労
魂蝕値:上昇中
HPは、わずかに二。
あと一度でもまともに攻撃を受けていたら、死んでいたかもしれない。
ユウキは震える手を見つめた。
そして、隣に倒れているエルヴィンへ視線を向けた。
自分は、彼の技能を奪った。
生き残るためとはいえ、相手が長い時間をかけて身につけたものを、本人の意思を確かめずに奪ってしまった。
その事実は、消えない。
「ごめんなさい……」
ユウキは小さく呟いた。
答える者はいなかった。
エルヴィンは意識を失ったまま、浅い呼吸を繰り返している。
ユウキは手を伸ばし、その肩に触れた。
冷たい。
このまま放っておけば、命が危ないかもしれない。
ユウキは自分の上着の裾を裂き、エルヴィンの傷口へ押し当てた。
血を止めるために、布を強く巻きつける。
正しい処置ができているかはわからない。
それでも、何もしないよりはましだった。
しばらくして、エルヴィンの呼吸が少しだけ落ち着いた。
ユウキは安堵の息を吐いた。
だが、すぐに別の問題が頭を過ぎる。
ここは、どこなのだろう。
第三坑道から繋がる、地図にない通路。
もし第五坑道へ続いているなら、脱出の手掛かりになるかもしれない。
ユウキは壁へ手を当てた。
石の表面は冷たく、奥から微かな風が吹いてくる。
その風に混じって、土と苔の匂いがした。
さらに、遠くから水の流れる音も聞こえる。
地上へ近づいているのだろうか。
それとも、鉱山のさらに深い場所へ繋がっているのか。
答えはまだわからなかった。
ただ、道がある。
それだけは確かだった。
◇◆◇
同じ頃。
第四坑道の資材置き場では、バルドとトーマが慌ただしく動く兵士たちを見つめていた。
「第三坑道で大規模な崩落だ!」
「移送対象が行方不明になったらしい!」
兵士の声が通路に響く。
トーマの顔が青ざめた。
「ユウキが……?」
バルドは唇を噛んだ。
ユウキが危険な場所へ連れていかれたことは知っている。
しかし、今どこにいるのかまではわからなかった。
「落ち着け、トーマ」
「でも!」
「まだ死んだと決まったわけじゃない」
老人は少年の肩へ手を置いた。
そして、第三坑道の方向を見つめる。
「わしらにできることを考えるんだ」
そのとき、ドランが慌ただしく現れた。
「バルド!」
「どうした?」
「第三坑道の崩落で、古い排水路の一部が露出したらしい」
バルドの表情が変わった。
「排水路?」
「ああ。昔、第五坑道の奥へ繋がっていた通路だ」
トーマが顔を上げる。
「じゃあ、ユウキがそこにいるかもしれない?」
ドランは頷いた。
「可能性はある。ただし、確証はない」
バルドはしばらく考え込んだ。
そして、静かに言った。
「行くぞ」
トーマが驚いた。
「え?」
「今度は、わしらが助けに行く番だ」
ドランは険しい表情で頷いた。
「なら、急げ。兵士たちが崩落現場を調べ始める前に、道を確かめる」
三人は顔を見合わせた。
まだ、脱出できると決まったわけではない。
ユウキが無事かどうかも、わからない。
それでも、動かなければ何も変わらない。
バルドは拳を握りしめ、暗い坑道の奥へ歩き出した。
◇◆◇
再び、狭い通路。
ユウキは意識を失っているエルヴィンの隣で、冷たい壁へ背を預けていた。
身体は痛み、視界も時折霞む。
それでも、眠るわけにはいかなかった。
鑑定。
新しく得た技能を、もう一度使ってみる。
ユウキは目の前の石壁へ意識を向けた。
《鑑定を実行します》
【鑑定結果】
名称:古い排水路の石壁
状態:一部損傷
備考:
第五坑道へ続く旧排水設備の一部。
長期間使用されていない。
ユウキは目を見開いた。
「第五坑道……!」
思わず声が漏れた。
ここは、第五坑道へ繋がっている。
バルドが話していた、古い脱出路。
その一部へ、偶然辿り着いたのだ。
しかし、喜びはすぐに不安へ変わった。
今の自分には、ほとんど体力が残っていない。
エルヴィンも意識を失ったままだ。
この状態で移動すれば、途中で力尽きるかもしれない。
ユウキは深く息を吐いた。
それでも、ここに留まり続けることはできない。
帝国兵が追ってくる可能性もある。
そして、岩牙獣が別の道から回り込んでくるかもしれない。
ユウキはエルヴィンへ視線を向けた。
敵だった男。
しかし、今は命を預け合う相手になっている。
ユウキはゆっくりと立ち上がった。
「一緒に、生きて帰りましょう」
返事はなかった。
それでも、ユウキは男の左腕を肩へ回した。
足元へ意識を集中させる。
振動感知が、遠くを流れる水の揺れを捉えた。
道は続いている。
その先に何が待っているのかは、わからない。
しかし、ユウキはもう立ち止まらなかった。
奪ってしまった力を、今度は誰かを守るために使う。
その覚悟を胸に、少年は暗い通路の奥へ歩き出した。
――第18話 完。




