第17話 血に染まる坑道
崩れ落ちた天井から、無数の石片が降り注いだ。
ユウキは腕で頭を庇いながら、煙の中を走っていた。右手には崩れた足場、左手には岩壁が続き、その先に倒れた作業員の姿が見える。
男の右脚は太い木材の下敷きになっていた。
「聞こえますか!」
ユウキが声をかけると、男は苦しそうに顔を上げた。
「頼む、助けてくれ……!」
その背後で、天井に新たな亀裂が走る。
ユウキは駆け寄り、木材へ手をかけた。
重い。
両腕に力を込めても、ほとんど動かなかった。
「くそっ……!」
身体強化を使えば持ち上げられるかもしれない。
しかし、手首の枷に埋め込まれた魔封石が、魔力の流れを乱していた。
ユウキは歯を食いしばった。
レベルが上がったとはいえ、今の自分に大した力はない。それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。
近くに折れた鉄棒が転がっている。
ユウキはそれを拾うと、木材と床の隙間へ差し込んだ。
「少しだけ我慢してください!」
鉄棒を押し下げる。
木材がわずかに浮いた。
その隙間へ、作業員が必死に脚を引き抜く。
「もう少しです!」
ユウキが力を込めた瞬間、背後から鋭い声が響いた。
「伏せろ!」
エルヴィンだった。
ユウキが反射的に身を低くすると、頭上を青白い光が走った。
――ドォン!
魔力の衝撃が天井から落ちてきた岩を砕き、破片が周囲へ飛び散る。
エルヴィンは杖を構えたまま、苛立たしげに叫んだ。
「君は本当に無茶をする!」
「すみません! でも、この人が!」
「わかっている。早く連れてこい!」
ユウキはもう一度鉄棒を押し込んだ。
今度こそ木材が持ち上がり、作業員の脚が抜ける。
「立てますか?」
「なんとか……!」
男の腕を肩へ回し、ユウキは出口へ向かって歩き始めた。
しかし、数歩進んだところで足元が激しく揺れた。
――ゴゴゴゴッ!
奥の岩壁が崩れ、その向こうから黒い影が這い出してきた。
最初は煙だと思った。
だが、それは違った。
四本の脚。
岩を削る鋭い爪。
そして、暗闇の中で赤く輝く二つの瞳。
犬より一回り大きな魔物が、崩れた岩の上に立っていた。
「何だ、あれは……」
作業員が震える声を漏らす。
魔物は低く唸り、背中の硬い突起を逆立てた。
続いて、崩れた穴の奥から二匹目が現れる。
さらに三匹目。
ユウキは息を呑んだ。
逃げ道は背後にある。
だが、負傷した作業員を支えたままでは、走りきれない。
「エルヴィンさん!」
ユウキが叫ぶと、魔術師はすでに杖を構えていた。
「岩牙獣か。封印の影響で深部から追い出されたらしい」
エルヴィンの瞳が青く輝く。
その視線が魔物たちを捉えた。
「三匹。レベルは六から八程度……面倒だな」
ユウキの背筋が冷たくなった。
自分はレベル二。
正面から戦えば、まず勝てない相手だった。
「君はその男を連れて下がれ。ここは私が引き受ける」
エルヴィンが杖を振り上げる。
直後、床に青い魔法陣が広がった。
「氷槍!」
空中に三本の氷の槍が生まれ、先頭の岩牙獣へ一直線に飛んだ。
一本目が肩を貫き、二本目が背中に突き刺さる。
最後の一本を避けた魔物は横へ跳んだが、着地した瞬間にエルヴィンが杖を振り下ろした。
――バキン!
床から氷の柱が突き出し、魔物を岩壁へ叩きつける。
ユウキは思わず足を止めた。
圧倒的だった。
あれほど恐ろしく見えた魔物が、魔術師の攻撃に押し込まれている。
しかし、エルヴィンは余裕の表情を浮かべていなかった。
「何をしている! 早く行け!」
「はい!」
ユウキは我に返り、作業員を支え直した。
背後では二匹目の岩牙獣が氷柱を飛び越え、エルヴィンへ襲いかかっている。
魔術師は身を捻って爪を避け、杖の先端を魔物の腹へ向けた。
青い閃光が走る。
爆ぜるような音とともに、魔物が後方へ吹き飛ばされた。
だが、その隙に三匹目が側面へ回り込む。
ユウキは振り返り、叫んだ。
「右から来ます!」
エルヴィンが杖を横へ振る。
薄い氷の壁が生まれ、魔物の爪を受け止めた。
――ガキィン!
氷壁に亀裂が走る。
魔物は一度下がると、今度は壁を避けて走り出した。
その進路の先には、ユウキたちがいた。
◇◆◇
「まずい!」
ユウキは負傷した作業員を近くの岩陰へ座らせた。
「ここで動かないでください!」
返事を待つ余裕はなかった。
岩牙獣が床を蹴り、こちらへ突進してくる。
正面から受ければ、ひとたまりもない。
ユウキは周囲を見た。
右側には崩れた岩。
左側には資材の積まれた荷車。
背後には負傷した作業員。
逃げ場は限られている。
ユウキは荷車の取っ手を掴み、横へ引いた。
車輪が石床を軋ませる。
その瞬間、岩牙獣が飛びかかった。
「くっ!」
ユウキは身を低くして避けたが、魔物の爪が肩のすぐ横を掠め、背後の荷車へ深く食い込んだ。
――ガンッ!
木材が裂け、積まれていた鉄製の部品が床へ散らばる。
魔物が振り返る。
赤い瞳が、ユウキを捉えた。
逃げなければならない。
しかし、背後には作業員がいる。
ここで自分だけ逃げれば、次に狙われるのはあの男だ。
ユウキは落ちていた短い鉄棒を拾った。
握りしめた手が震える。
怖い。
息が詰まりそうだった。
それでも、今は動かなければならない。
岩牙獣が再び地面を蹴った。
ユウキは横へ跳ぶ。
しかし、足首の鎖が張り、十分に距離を取れない。
鋭い爪が脇腹へ迫る。
「ぐっ!」
鉄棒を横へ構え、どうにか爪を受け流したものの、衝撃に耐えきれず身体が吹き飛ばされた。
背中が岩壁へぶつかり、肺の空気が一気に押し出される。
視界が白く霞んだ。
魔物が迫る。
ユウキは床へ手をついた。
立ち上がれない。
今度こそ、間に合わない。
その瞬間、足元から微かな振動が伝わった。
――トン。
岩牙獣の前脚が床を踏む。
――トン。
次の脚が動く。
振動感知。
ユウキは反射的に身体を横へ転がした。
直後、魔物の爪がさっきまで頭のあった場所を抉った。
石片が頬へ飛び散る。
ユウキはそのまま膝をつき、落ちていた鉄棒を両手で握り直した。
魔物が振り返る。
今度は、動き出す直前の足音を感じ取れた。
ユウキは一歩だけ横へ移動し、突進を避ける。
岩牙獣の爪が岩壁へ食い込んだ。
ほんの一瞬、動きが止まる。
ユウキは鉄棒を振り上げた。
「はあっ!」
狙ったのは、硬い背中ではない。
爪の付け根だった。
――ガンッ!
鉄棒が前脚へ命中する。
魔物が短く吠え、身体を捻った。
次の瞬間、太い尾がユウキの胸元を打つ。
「がっ!」
ユウキは床を転がった。
鉄棒が手から離れ、遠くへ滑っていく。
呼吸が乱れる。
痛みで身体が震えた。
やはり、勝てない。
レベル二の自分が、レベル六以上の魔物を相手に正面から戦うのは無謀だった。
けれど、今の攻撃でわかったことがある。
振動感知を使えば、相手の踏み込みを僅かに早く察知できる。
それだけでは勝てなくても、生き延びるための時間は作れる。
ユウキは顔を上げた。
エルヴィンは二匹の魔物を相手にしており、こちらへすぐには来られない。
自分がやるべきことは、魔物を倒すことではない。
作業員を守りながら、エルヴィンが対応できるまで持ちこたえることだった。
「こっちだ!」
ユウキは魔物へ向かって叫んだ。
岩牙獣が赤い目を向ける。
背後の作業員ではなく、自分を狙わせる。
ユウキはゆっくりと後退し、崩れた岩の近くへ移動した。
魔物が低く唸る。
そして、再び突進してきた。
――トン、トン!
足元に振動が伝わる。
ユウキは最後の瞬間まで動かなかった。
距離が詰まる。
爪が届く寸前、身体を横へ投げ出した。
岩牙獣は止まりきれず、崩れた岩へ激突する。
――ドガンッ!
石片が飛び散り、魔物の身体が一瞬だけ傾いた。
「エルヴィンさん!」
ユウキは叫んだ。
「今です!」
直後、青白い光が横から走った。
「氷鎖!」
エルヴィンの杖から伸びた氷の鎖が、岩牙獣の前脚へ巻きつく。
さらに二本、三本。
氷の鎖が胴体へ絡まり、魔物を床へ引き倒した。
――ズンッ!
岩牙獣が激しく暴れる。
しかし、氷の鎖は簡単には砕けなかった。
ユウキは肩で息をしながら、その場に膝をついた。
助かった。
けれど、身体は限界に近かった。
◇◆◇
「君は本当に、命が惜しくないのか!」
エルヴィンが駆け寄ってきた。
その声には、怒りが滲んでいる。
ユウキは息を整えながら首を振った。
「死にたくないです」
「なら、なぜ逃げなかった!」
ユウキは岩陰にいる作業員を見た。
「あの人が、逃げられなかったからです」
エルヴィンは一瞬だけ言葉を失った。
ユウキは続けた。
「俺も怖かったです。でも、あの人を置いて逃げたら、きっと後悔すると思いました」
魔術師は黙ってユウキを見つめた。
その瞳には、理解できないものを見るような戸惑いが浮かんでいる。
「君は、何のためにそこまで他人を守ろうとする?」
ユウキはすぐには答えられなかった。
理由を考えたことなど、あまりなかった。
ただ、自分が苦しかったとき、誰かに助けてほしかった。
その気持ちだけは、今も忘れていない。
「助けてほしかったから、だと思います」
ユウキは静かに答えた。
「俺も昔、誰かに助けてほしかったんです。だから、目の前に同じような人がいたら、放っておけなくて」
エルヴィンはしばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐いた。
「なるほど。君の行動が理解できない理由が、少しわかった気がする」
その言葉には、先ほどまでの冷たさがなかった。
だが、次の瞬間。
――ドォォン!
第三坑道の奥から、さらに大きな爆発音が響いた。
天井が激しく揺れ、魔術師たちの怒号が響く。
「封印の亀裂が拡大しています!」
「魔力圧が限界を超えます!」
エルヴィンが振り返った。
その表情が一変する。
「まずい!」
ユウキも奥を見た。
赤黒い光が、煙の向こうから漏れている。
そして、頭の奥で少女の声が響いた。
『来ないで』
ユウキは息を呑んだ。
『今は、近づいちゃ駄目』
声は震えていた。
これまでのような静かな呼びかけではない。
明らかに怯えている。
その瞬間、視界の端に青白い文字が浮かんだ。
《未登録の魂魄反応が急激に増大しています》
《固有権能「略奪」が共鳴しています》
《警告:精神負荷の増大を検出》
ユウキは頭を押さえた。
胸の奥から、何かが引きずり出されるような感覚。
知らない誰かの悲鳴。
暗い空間。
赤黒い魔法陣。
そして、無数の人影。
――助けて。
――帰りたい。
――死にたくない。
それらの声が、一瞬だけ頭の中へ流れ込んできた。
「ぐっ……!」
ユウキは膝をついた。
エルヴィンが肩を掴む。
「どうした!」
ユウキは必死に呼吸を整えた。
見えたものを説明する余裕はない。
ただ、ひとつだけわかった。
第三坑道の奥で、何かが壊れようとしている。
しかも、それはただの封印の崩壊ではない。
「エルヴィンさん……!」
ユウキは顔を上げた。
「あの扉、開けちゃ駄目です!」
エルヴィンの表情が変わる。
「何?」
「何かが、出てきます!」
その言葉が終わるより早く、奥の通路から悲鳴が響いた。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
煙の向こうに、巨大な影が浮かび上がる。
先ほどの岩牙獣とは比較にならない大きさだった。
四本の太い脚。
岩のような甲殻。
そして、頭部から伸びる二本の巨大な角。
その姿を見た瞬間、エルヴィンの顔色が変わった。
「馬鹿な……岩甲獣だと?」
魔物が一歩踏み出す。
――ズン。
石床が震えた。
次の一歩。
――ズン。
周囲の兵士たちが後ずさる。
巨大な魔物は首を振り、鋭い角で岩壁を削った。
その衝撃で、天井からさらに石片が落ちる。
「全員、後退しろ!」
エルヴィンが叫んだ。
しかし、すでに遅かった。
岩甲獣が頭を下げる。
そして、一直線に突進してきた。
◇◆◇
――ドガァァン!
巨大な角が石壁へ突き刺さり、衝撃で通路の一部が崩れ落ちた。
兵士たちが吹き飛ばされ、魔術師の一人が床へ叩きつけられる。
ユウキは近くの岩陰へ身を伏せた。
頭上を破片が飛び、背中に小石が降り注ぐ。
エルヴィンは杖を振り上げた。
「氷壁!」
厚い氷の壁が床からせり上がる。
岩甲獣が突進する。
――ガァン!
氷壁に巨大な亀裂が走った。
しかし、魔物は止まらない。
もう一度、角を振り下ろす。
――バキィン!
氷壁が砕け散った。
「くそっ、硬すぎる!」
エルヴィンが後退する。
そのとき、岩甲獣の足元に青白い魔法陣が浮かんだ。
別の魔術師が詠唱を終えたのだ。
「雷撃!」
稲妻が走り、魔物の背中へ直撃する。
――バチィッ!
岩甲獣が咆哮した。
甲殻の隙間から煙が上がる。
しかし、倒れない。
むしろ怒り狂ったように身体を振り回し、近くの兵士を角で薙ぎ払った。
「うわああっ!」
兵士が床へ転がる。
ユウキはその光景を見て、身体を強張らせた。
圧倒的な力だった。
レベル二の自分が、どうにかできる相手ではない。
それでも、ただ震えているわけにはいかなかった。
ユウキは周囲を見回した。
負傷した兵士。
逃げ遅れた作業員。
そして、魔術師たち。
このまま戦いが続けば、多くの人が死ぬ。
何かできることはないか。
考えろ。
今までの自分なら、ただ目の前の敵に飛びかかっていたかもしれない。
しかし、それでは何も守れない。
ユウキは床へ手を当てた。
振動感知。
魔物が動くたびに、強い衝撃が地面を伝わってくる。
しかし、それだけではない。
岩甲獣の足元。
そこから少し離れた場所に、他とは違う振動があった。
――ミシ、ミシ。
床が軋んでいる。
ユウキは目を凝らした。
岩甲獣の前方には、崩れかけた足場がある。
先ほどの爆発で、床の一部が損傷していた。
もし、あの巨体がそこへ乗れば。
「エルヴィンさん!」
ユウキは叫んだ。
魔術師が振り返る。
「今度は何だ!」
「あの魔物を、右の足場へ誘導してください!」
「右?」
「あそこ、床が崩れかけています!」
エルヴィンの目が細くなる。
彼は一瞬だけ足元を見た。
そして、青い光が瞳に宿る。
鑑定。
魔術師の視界に、足場の情報が浮かび上がった。
「……なるほど」
エルヴィンが小さく呟いた。
「確かに、あそこは強度が落ちている」
ユウキは頷いた。
「正面から倒せなくても、動きを止められるかもしれません!」
エルヴィンは一瞬だけ迷った。
しかし、すぐに杖を構え直した。
「いいだろう。試してみる価値はある」
魔術師は兵士たちへ叫んだ。
「全員、左へ下がれ! 魔物の進路を空けろ!」
兵士たちが慌てて移動する。
岩甲獣が再び頭を下げた。
その視線の先には、エルヴィンがいる。
「来い!」
魔術師が杖を振る。
青白い光弾が岩甲獣の顔へ直撃した。
魔物が怒りの咆哮を上げる。
そして、一直線に突進してきた。
――ズン、ズン、ズン!
巨体が迫る。
エルヴィンは最後の瞬間まで動かなかった。
距離が詰まる。
角が届く寸前、横へ跳ぶ。
岩甲獣は勢いを止められず、崩れかけた足場へ踏み込んだ。
――ミシッ!
床に亀裂が走る。
次の瞬間。
――ドガァァン!
石床が崩れ、岩甲獣の前脚が深く沈み込んだ。
巨体が傾き、魔物が激しく暴れる。
「今だ!」
エルヴィンが叫んだ。
魔術師たちが一斉に杖を構える。
「氷鎖!」
「雷撃!」
「石槍!」
無数の魔法が岩甲獣へ集中する。
氷の鎖が後脚へ巻きつき、雷撃が甲殻の隙間を走る。さらに石槍が横腹へ突き刺さり、魔物が苦痛の咆哮を上げた。
しかし、完全には倒れなかった。
岩甲獣はなおも暴れ、崩れた床をさらに破壊していく。
その振動が、第三坑道全体へ広がった。
ユウキは壁へ手をついた。
このままでは、坑道そのものが崩れる。
「エルヴィンさん! もうやめてください!」
魔術師が振り返った。
「何?」
「これ以上攻撃したら、天井まで崩れます!」
エルヴィンは一瞬だけ動きを止めた。
そして、周囲を見回す。
天井には新たな亀裂が広がっている。
魔術師たちも、ようやく異変に気づいた。
「全員、撤退!」
エルヴィンが叫ぶ。
「封印区画を放棄する!」
兵士たちが一斉に動き出した。
ユウキも立ち上がろうとした。
しかし、その瞬間、足元が大きく揺れた。
――ゴゴゴゴッ!
天井から巨大な岩が落ちてくる。
ユウキは反射的に横へ跳んだ。
だが、足首の鎖が張り、十分に避けきれない。
「しまっ――」
視界いっぱいに、黒い岩が迫る。
次の瞬間。
誰かがユウキの身体を突き飛ばした。
――ドォン!
巨大な岩が床へ落下する。
ユウキは石床を転がり、痛みに顔を歪めた。
そして、すぐに顔を上げる。
そこには、血を流しながら倒れているエルヴィンの姿があった。
「エルヴィンさん!」
魔術師は右腕を押さえていた。
肩口から血が流れ、白い外套が赤く染まっている。
呼吸は荒く、顔色も悪かった。
「……君は、本当に手のかかる少年だ」
エルヴィンは苦笑した。
しかし、立ち上がろうとしても身体が動かない。
ユウキは駆け寄り、肩を貸そうとした。
「立てますか!」
「右腕が、うまく動かない……」
そのとき、背後から岩甲獣の咆哮が響いた。
崩れた床に挟まれながらも、魔物はまだ暴れている。
さらに、遠くから複数の魔物の鳴き声が聞こえてきた。
ユウキは息を呑んだ。
ここに留まれば、二人とも死ぬ。
しかし、エルヴィンを置いて逃げることもできなかった。
相手は帝国の魔術師。
自分を調べ、帝都へ連れていこうとしていた男だ。
それでも、さっき自分を助けてくれた。
ユウキは唇を噛み、エルヴィンの左腕を自分の肩へ回した。
「行きましょう!」
「……私を、助けるのか?」
魔術師が驚いたように尋ねる。
ユウキは頷いた。
「助けてもらったので、今度は俺の番です!」
エルヴィンはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……まったく、理解できないな」
二人は支え合いながら、出口へ向かった。
しかし、通路の先には崩れた岩が積み上がっていた。
逃げ道が塞がれている。
「そんな……」
ユウキは息を呑んだ。
背後では、魔物の足音が近づいてくる。
前には崩落した岩。
後ろには魔物。
逃げ場がない。
そのとき、エルヴィンが小さく呟いた。
「……ユウキ君」
「何ですか?」
「君には、まだ教えていないことがある」
魔術師は苦しそうに息を吐いた。
「私の技能は、鑑定だ」
ユウキの目が大きく開かれる。
「鑑定……?」
「ああ。相手の能力や物の性質を読み取る技能だ」
エルヴィンは血に染まった右腕を押さえながら続けた。
「君の能力を調べたとき、通常とは違う反応があった。だから、もっと詳しく知りたかった」
ユウキは黙って聞いていた。
そのとき、背後から岩を踏み砕く音が響いた。
魔物が近づいている。
エルヴィンは杖を握ろうとしたが、右腕に力が入らない。
「……まずいな」
ユウキは周囲を見回した。
崩れた岩の隙間。
その向こうから、微かな風が吹いている。
ユウキは顔を上げた。
風。
第五坑道へ続く旧連絡路でも感じたという、あの風。
もしかすると、この坑道にも別の道があるのかもしれない。
しかし、確かめる時間はなかった。
背後から、巨大な影が迫ってくる。
岩牙獣だった。
先ほど倒しきれなかった一匹が、血に濡れた牙を剥き出しにしている。
エルヴィンが杖を持ち上げようとした。
だが、腕が震えるだけで魔法陣は現れない。
「……魔力が、足りない」
ユウキは息を呑んだ。
今度こそ、逃げられない。
そのとき、視界の端に青白い文字が浮かんだ。
《固有権能「略奪」が反応しています》
《対象:エルヴィン・クロード》
《状態:負傷・意識あり》
《略奪条件:未達成》
ユウキは目を見開いた。
エルヴィンの技能。
鑑定。
それを奪えれば、この場所から逃げる手掛かりが見つかるかもしれない。
しかし、今のエルヴィンはまだ意識がある。
動けなくなっているわけではない。
略奪は発動できない。
ユウキは視界の文字を見つめた。
そして、静かに拳を握りしめた。
今の自分に必要なのは、誰かの力を奪うことではない。
まずは、この状況を生き延びることだ。
「エルヴィンさん」
ユウキは顔を上げた。
「まだ、諦めないでください」
魔術師が驚いたように見つめる。
「何をするつもりだ?」
ユウキは崩れた岩の隙間へ視線を向けた。
「俺に考えがあります」
その声には、これまでになかった強さが宿っていた。
背後では、岩牙獣が低く唸っている。
前には、塞がれた通路。
そして、隣には動けない魔術師。
ユウキは震える足を踏みしめ、最後の力を振り絞って立ち上がった。
ここで死ぬわけにはいかない。
バルドとトーマが待っている。
リナを助ける約束も、まだ果たしていない。
だから、必ず生きて帰る。
ユウキは崩れた岩の向こうを見つめた。
そこから吹き込む冷たい風が、頬を撫でていた。
そして、岩牙獣が地面を蹴った。
新たな戦いの幕が、再び上がろうとしていた。
――第17話 完。




