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第16話 夜明け前の決断

 夜明け前の鉱山に、低い鐘の音が響いた。


 普段の起床を知らせるものとは違う、短く重い三度の音。石壁に反響した余韻が消える頃、ユウキは待機室の硬い椅子からゆっくりと立ち上がった。


 昨夜、ドランから見せられた坑道の図が頭に残っている。


 第四坑道の資材置き場から第五坑道へ続く旧連絡路。その先には古い点検室があり、さらに奥へ進めば、地図に載っていない細い通路へ辿り着くという。


 ただし、そこが今も地上へ繋がっている保証はなかった。


 しかも、ユウキの両手には魔封石の枷が残っている。


 これを外せなければ、逃亡は難しい。


 昨夜の警報騒ぎで解除は失敗し、移送隊が到着するまでの時間もほとんど残されていなかった。


 ユウキは手首に触れ、目を閉じる。


 怖くないと言えば嘘になる。


 けれど、今は恐怖だけに囚われている場合ではなかった。


 バルドとトーマが待っている。


 リナの行方も、まだわからない。


 ここで帝国へ連れていかれれば、二度と会えなくなるかもしれない。


 だからこそ、自分で考えて動かなければならなかった。


 ◇◆◇


 鉄扉が開いたのは、それから間もなくのことだった。


「ユウキ・コバヤシ。移送の時間だ」


 現れたのは、黒い鎧を身につけた帝国兵二人と、灰色の外套を羽織った若い魔術師だった。


 魔術師は二十代半ばほどに見える。整った銀縁の眼鏡をかけ、腰には細い杖を差していた。


 彼はユウキを一目見ると、興味深そうに目を細めた。


「君が例の異界人か」


 ユウキは答えず、相手を見つめた。


 魔術師の視線が、頭から足元までゆっくりと動く。


 その瞬間、男の瞳に淡い青色の光が宿った。


「ふむ」


 魔術師が小さく呟く。


「妙だな」


 ユウキの胸に嫌な予感が生まれた。


「何がですか?」


「いや、こちらの話だ」


 男は微笑んだものの、その視線は鋭いままだった。


 ユウキは知らなかった。


 この魔術師が、対象の情報を読み取る技能を持っていることを。


 その名は、鑑定。


 帝国の研究機関でも重宝される、希少な技能だった。


 魔術師はもう一度ユウキを見ると、眉をひそめた。


 彼の視界には、通常なら対象の名前やレベル、基本能力の一部が表示される。


 しかし、目の前の少年には不自然な空白があった。


「レベルは二。筋力も耐久力も低い。だが……」


 魔術師は小さく呟いた。


「固有権能の欄が読めない?」


 ユウキの背筋が冷たくなる。


 この男は、自分の能力を見ているのだろうか。


 もし略奪の存在を知られれば、どうなるのか。


 考えただけで、胸が苦しくなった。


「名前を聞いてもいいですか?」


 ユウキは慎重に尋ねた。


 魔術師は少し驚いたように目を瞬かせ、それから笑った。


「私か? エルヴィン・クロードだ。帝国魔術調査局に所属している」


 エルヴィン。


 ユウキはその名を心に刻んだ。


「君のことは、帝都へ着くまで私が観察するよう命じられている」


「観察、ですか」


「ああ。君が何者なのか、詳しく知る必要があるらしい」


 エルヴィンは穏やかな声で続けた。


「安心するといい。大人しくしていれば、命まで奪われることはないだろう」


 その言葉に、ユウキは唇を噛んだ。


 命までは奪われない。


 裏を返せば、それ以外の自由は奪われても構わないということだ。


「俺は、帝都へ行きたいなんて言っていません」


 ユウキが言うと、兵士の一人が眉を吊り上げた。


「口の利き方に気をつけろ!」


 怒声に身体が強張る。


 しかし、ユウキは目を逸らさなかった。


「それでも、俺の意思は伝えておきたいです」


 エルヴィンはその様子を見て、興味深そうに笑った。


「なるほど。報告にあったとおり、少し変わった少年だね」


 そして、兵士へ視線を向ける。


「いい。余計な刺激は与えるな。移送を優先しよう」


 こうしてユウキは、二人の兵士に挟まれる形で待機室を後にした。


 ◇◆◇


 鉱山の地上出口へ続く通路には、すでに大勢の兵士が集まっていた。


 壁際には木箱や補給物資が並び、移送用の馬車を準備する声が遠くから聞こえてくる。


 ユウキは歩きながら周囲を確認した。


 兵士は前方に四人。


 後方に二人。


 さらに、エルヴィンがすぐ横を歩いている。


 今の自分では、まともに戦っても勝ち目はない。


 それは、わかっていた。


 だからこそ、別の方法を探す必要がある。


 ユウキは足元へ意識を集中させた。


 振動感知 Lv.1。


 まだ使いこなせるわけではないが、近くを歩く人間の動きなら、ある程度感じ取れる。


 石床から伝わる振動を頼りに、周囲の足音を確かめる。


 前方の兵士たちが立ち止まった。


 何かを確認しているらしい。


 そして、通路の奥から別の足音が近づいてきた。


「移送隊、少し待て!」


 低い声が響いた。


 現れたのは、鉱山の管理者だった。


 太った身体を高価そうな外套で包み、額には汗を浮かべている。


「第三坑道の補修資材を搬出する。通路を一時的に空けてもらいたい」


 エルヴィンが眉をひそめた。


「我々は帝都からの命令で動いている。遅延は認められない」


「しかし、封印の維持に必要な資材なのです。今朝になって、また亀裂が広がりまして」


 その言葉に、エルヴィンの表情が変わった。


「封印の状態が悪化したのか?」


「はい。灰色の外套の方から、補修作業を最優先にせよと」


 しばらく沈黙が流れた。


 エルヴィンは短く息を吐いた。


「わかった。十分だけ待とう」


 ユウキの心臓が跳ねた。


 十分。


 わずかな時間だが、予定にない停止だった。


 その間に何かできないだろうか。


 ユウキは周囲を見回した。


 すると、資材を運ぶ鉱夫たちの列の中に、見覚えのある姿があった。


 白髪の老人。


 バルドだった。


 ◇◆◇


 ユウキは思わず声を上げそうになった。


 しかし、すぐに口を閉じる。


 バルドはこちらを見ていない。


 いや、正確には、見ないようにしているようだった。


 老人は他の鉱夫たちと同じように、重い木箱を運んでいる。


 その後ろには、トーマの姿もあった。


 さらに少し離れた場所では、ドランが工具箱を持って歩いている。


 三人とも、偶然そこに集まったようには見えなかった。


 ユウキは胸の奥で、微かな希望が生まれるのを感じた。


 まだ、計画は終わっていない。


 バルドたちは、何かをしようとしている。


 しかし、同時に不安も生まれた。


 もしここで騒ぎが起きれば、三人とも捕まってしまう。


 まして、帝国兵は十分な人数がいる。


 正面から戦えば、勝ち目はない。


 ユウキは慎重に考えた。


 今、自分が取れる行動は何か。


 周囲の状況を見ながら、できるだけ自然にバルドへ近づく方法を探す。


 そのとき、トーマがわずかによろめいた。


 抱えていた木箱が傾き、中から金属部品が転がり落ちる。


 ――ガシャン!


 大きな音が通路に響いた。


「おい、何をしている!」


 看守の怒声が飛ぶ。


 トーマは慌てて頭を下げた。


「すみません! 手が滑って……」


 バルドがすぐに駆け寄り、散らばった部品を拾い始める。


 ユウキはその様子を見つめた。


 偶然だろうか。


 それとも。


 トーマは一瞬だけ顔を上げ、ユウキの方を見た。


 その目には、明確な意思が宿っていた。


 ユウキは気づいた。


 これは、三人が作った機会なのだ。


 ◇◆◇


「手伝わせてください」


 ユウキはすぐに兵士へ声をかけた。


「何?」


「あの子、体調が悪いんです。俺、知ってます。少しだけでいいので、手伝わせてください」


 兵士は不機嫌そうに眉をひそめた。


「お前は移送対象だ。余計なことをするな」


 そのとき、エルヴィンが口を開いた。


「いいじゃないか」


 ユウキは驚いて顔を上げた。


 魔術師は微笑んでいた。


「少し興味がある。君がどう行動するのか、見てみたい」


 兵士は戸惑ったが、やがて頷いた。


「……承知しました」


 ユウキはゆっくりとトーマへ近づいた。


 その間も、足元の振動へ意識を集中させる。


 背後の兵士は動いていない。


 エルヴィンも、少し離れた場所からこちらを見ている。


 ユウキはしゃがみ込み、金属部品を拾い始めた。


「トーマ、大丈夫?」


 小さく尋ねる。


 少年は俯いたまま頷いた。


「大丈夫。ユウキの方こそ」


「俺も大丈夫」


 ユウキはそう答えた。


 すると、トーマがさらに声を落とした。


「バルドじいさんが、伝えたいことがあるって」


 ユウキの胸が高鳴った。


 そのとき、すぐ隣にバルドがしゃがみ込む。


 老人は金属部品を拾いながら、低い声で話し始めた。


「坊主、よく聞け」


「はい」


「第四坑道の資材置き場に、今朝から補修班が入っとる。第三坑道の封印が不安定になって、奥の区画まで調べ直すそうだ」


 ユウキは頷いた。


「旧連絡路も、ですか?」


「ああ。だが、監視は厳しい」


 バルドは部品を箱へ戻した。


「ドランが解除具のことを調べとる。だが、まだ確実な方法は見つかっておらん」


 ユウキは唇を噛んだ。


 やはり、枷を外すことが最大の問題だった。


「それなら、無理に逃げない方が……」


 そこまで言いかけて、言葉を止めた。


 明朝ではない。


 移送は、もう始まっている。


 ここで逃げなければ、次の機会はないかもしれない。


 しかし、だからといって無茶な行動を取れば、仲間まで危険に晒してしまう。


 ユウキは一度だけ息を整えた。


「バルドさん。今、何かするつもりですか?」


 老人は答えなかった。


 その沈黙が、答えだった。


 ユウキは小さく首を振った。


「今は駄目です」


 バルドが驚いたように顔を上げる。


「何?」


「兵士が多すぎます。ここで騒ぎを起こしたら、トーマもドランさんも逃げられません」


 ユウキは真剣な表情で続けた。


「俺のために無茶をしないでください」


 バルドはしばらく黙っていた。


 そして、低い声で尋ねた。


「なら、お前はどうするつもりだ?」


 ユウキは答えに詰まった。


 まだ、具体的な方法は見つかっていない。


 それでも、ここで仲間を失うことだけは避けたかった。


「少し、考えがあります」


 ユウキはそう答えた。


 完全な作戦ではない。


 けれど、一つだけ確かめたいことがあった。


 ◇◆◇


 ユウキは立ち上がり、エルヴィンへ視線を向けた。


「ありがとうございました」


 魔術師は微笑んだ。


「もういいのかい?」


「はい。でも、一つお願いがあります」


「何かな?」


 ユウキはできるだけ落ち着いた声で答えた。


「移送前に、もう一度だけ第三坑道へ行かせてもらえませんか?」


 その場の空気が変わった。


 エルヴィンの笑みが消える。


「第三坑道?」


「はい」


「なぜ?」


 ユウキは一瞬だけ迷った。


 本当の理由をすべて話すわけにはいかない。


 しかし、嘘だけで相手を納得させるのも難しい。


「昨日、あの扉に触れたとき、何かが見えたんです」


 エルヴィンの目が細くなる。


「ほう」


「でも、何だったのか、よく覚えていなくて。もう一度見れば、何かわかるかもしれません」


 その言葉に、周囲の兵士たちがざわめいた。


 エルヴィンはしばらく考え込んでいた。


「君は、自分が何を言っているのかわかっているのかい?」


「はい」


「第三坑道は危険だ。昨日、封印の崩壊が進んだばかりなんだよ」


 ユウキは頷いた。


「それでも、俺が何かを知っているなら、確認した方がいいと思います」


 エルヴィンは黙ってユウキを見つめた。


 その視線は、先ほどまでの穏やかなものとは違う。


 相手の本心を見抜こうとするような、鋭い目だった。


「君は、何を隠している?」


 ユウキの背筋が冷たくなる。


 しかし、目を逸らさなかった。


「俺にも、わからないことが多いんです」


 それは本心だった。


 少女の正体も、封印の意味も、自分が召喚された理由も。


 何もかも、まだわからない。


「だから、確かめたいんです」


 エルヴィンはしばらく沈黙した。


 そして、小さく笑った。


「面白い」


 その言葉に、ユウキは嫌な予感を覚えた。


「君は本当に興味深い少年だ」


 エルヴィンは兵士へ視線を向けた。


「移送隊はここで待機。私はこの少年を第三坑道へ連れていく」


 兵士が驚いた。


「しかし、帝都からの命令が……」


「責任は私が取る。測定結果によっては、帝都への報告内容が変わるかもしれない」


 兵士は迷った末、頭を下げた。


「承知しました」


 ユウキは静かに息を吐いた。


 少なくとも、帝都へ連れていかれるまでの時間を延ばすことはできた。


 しかし、これで安全になったわけではない。


 むしろ、さらに危険な場所へ自分から足を踏み入れようとしている。


 それでも、考えがあった。


 第三坑道の封印が不安定になれば、帝国兵たちは対応に追われる。


 その混乱が、バルドたちにとって逃げ道を探す機会になるかもしれない。


 もちろん、封印を意図的に壊すつもりはない。


 あの少女も、扉を開けるなと言っていた。


 だからこそ、自分にできるのは、もう一度あの場所を調べることだった。


 そして、もし本当に危険が迫っているのなら、そのことを誰かに伝えなければならない。


 ◇◆◇


 第三坑道へ向かう途中、エルヴィンはユウキへ話しかけた。


「君は、なかなか勇気があるね」


「そうでしょうか」


「普通の奴隷なら、第三坑道へ行きたいなどとは言わない。まして、あの封印に触れた直後ならなおさらだ」


 ユウキは少しだけ考えた。


「怖いですよ」


「怖い?」


「はい。今も、逃げ出したいくらいです」


 エルヴィンは意外そうに目を見開いた。


「それなのに、なぜ自分から行こうとする?」


 ユウキは前を向いたまま答えた。


「知らないまま、大切な人が危険になるのが嫌だからです」


 エルヴィンはしばらく黙っていた。


 そして、薄く笑った。


「なるほど。君らしい答えだ」


 その言葉に、ユウキは違和感を覚えた。


 この男は、自分の何を知っているのだろう。


 初めて会ったばかりなのに、まるで以前から観察していたかのような言い方だった。


 ユウキは相手の横顔を見つめた。


 エルヴィンは穏やかな表情を浮かべている。


 しかし、目の奥には冷たい光があった。


 ◇◆◇


 第三坑道の入口へ到着すると、周囲の雰囲気は一変した。


 昨日よりも兵士の数が増え、魔術師たちが慌ただしく動き回っている。


 壁に刻まれた魔法陣は不規則に点滅し、遠くから低い地鳴りが響いていた。


 ユウキは足元へ意識を集中させた。


 振動感知が、地面の奥から伝わる大きな揺れを捉える。


 ――ドクン。


 胸の奥で、略奪の権能が共鳴した。


《未登録の魂魄反応を検出》


《反応源:第三坑道最深部》


《固有権能「略奪」が共鳴しています》


 ユウキは息を呑んだ。


 そのとき、頭の奥で幼い少女の声が響いた。


『また、来たんだね』


 ユウキは周囲を見回した。


 エルヴィンも兵士たちも、何も聞こえていないようだった。


『でも、気をつけて』


 少女の声が少しだけ震えた。


『あの人は、あなたを調べている』


 ユウキはエルヴィンを見た。


 男は穏やかな表情で歩いている。


 しかし、その瞳には再び淡い青色の光が宿っていた。


 鑑定。


 ユウキには、その技能の名前を知る由もなかった。


 だが、今この瞬間、自分の何かを覗き込まれているような不快感があった。


 そして、少女の声が続く。


『あの人には、見えている』


 ユウキの背筋が冷たくなった。


『あなたの中にある、奪う力の影が』


 その瞬間、エルヴィンが足を止めた。


「ユウキ君」


「はい?」


 男は静かに振り返った。


「一つ、確認させてもらってもいいかな?」


 ユウキは頷いた。


 エルヴィンは微笑んだ。


「君の固有権能は、いったい何なんだい?」


 空気が凍りついた。


 ユウキは何も答えられなかった。


 エルヴィンの瞳が、淡い青色に輝いている。


 そして、視界の端に青白い文字が浮かんだ。


《外部からの情報干渉を検出》


《未確認の鑑定技能が使用されています》


《固有権能「略奪」の情報が照会されています》


 ユウキは息を呑んだ。


 相手は、自分の力を調べている。


 それも、かなり深いところまで。


 エルヴィンは静かに笑った。


「なるほど。やはり、ただの異界人ではないようだね」


 その声には、初めて明確な警戒が混じっていた。


 ユウキは拳を握りしめた。


 戦えば勝てない。


 逃げようにも、枷がある。


 しかも、ここは帝国の管理下にある第三坑道だ。


 それでも、今は引き下がるわけにはいかなかった。


「俺の力を知って、どうするつもりですか?」


 ユウキは静かに尋ねた。


 エルヴィンは一瞬だけ目を見開いた。


 そして、楽しそうに笑った。


「それは、これから決めることだよ」


 そのとき。


 ――ゴゴゴゴッ!


 第三坑道の奥から、これまでにないほど大きな振動が響いた。


 天井から石片が落ち、壁に刻まれた魔法陣が一斉に赤く輝く。


「封印が!」


 遠くで魔術師の叫び声が響いた。


「第三封緘層に亀裂! 魔力圧が急上昇しています!」


 エルヴィンの表情が変わった。


 ユウキは足元へ意識を集中させる。


 振動感知が、異常な揺れを捉えていた。


 これまでの地鳴りとは違う。


 何かが崩れ始めている。


 そして、少女の声が頭の奥で響いた。


『来るよ』


 ユウキは息を呑んだ。


『もう、止められない』


 次の瞬間。


 ――ドォォォン!


 巨大な爆発音とともに、第三坑道の奥から黒い煙が噴き出した。


 兵士たちが一斉に動き出す。


 魔術師たちの怒号が響き、坑道全体が激しく揺れた。


 ユウキは壁へ手をつき、倒れそうになる身体を支えた。


 目の前では、エルヴィンが杖を抜いている。


「ユウキ君、私から離れるな」


 その声は、先ほどまでの穏やかなものとは違っていた。


 冷たく、鋭い。


 戦い慣れた者の声だった。


 しかし、ユウキはその言葉に従わなかった。


 遠くから、誰かの悲鳴が聞こえたからだ。


 煙の向こう。


 崩れた足場の近くに、一人の作業員が倒れている。


 その背後には、さらに大きな亀裂が広がっていた。


 ユウキは息を呑んだ。


 逃げるべきだ。


 今すぐ、安全な場所へ。


 そう思った。


 それでも、倒れた人を見捨てることはできなかった。


「助けないと」


 ユウキは呟いた。


 エルヴィンが鋭く振り返る。


「何?」


 ユウキは倒れた作業員を指さした。


「あの人が、まだそこにいます!」


 エルヴィンは一瞬だけ視線を向けた。


 そして、冷たく答えた。


「構うな。今は封印の維持が優先だ」


 ユウキは唇を噛んだ。


 その判断が合理的なのかもしれない。


 けれど、自分には受け入れられなかった。


 そして、次の瞬間。


 ユウキは自ら走り出していた。


 負傷した身体。


 魔封石の枷。


 残り少ない体力。


 それでも、目の前の命を救うために。


 今度は誰かの指示ではなく、自分自身の意思で。


 ユウキ・コバヤシの、最初の大きな戦いが始まろうとしていた。


――第16話 完。

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