第14話 奪われる自由
朝の鐘が鳴る前に、ユウキは目を覚ました。
鉄格子の向こうから聞こえる、慌ただしい足音。鎧が擦れる金属音と、聞き慣れない命令の声が、まだ薄暗い牢の中まで響いている。
昨日、第三坑道で見た光景が頭から離れなかった。
巨大な石の扉。
白い空間で出会った、黒い鎖に繋がれた少女。
そして、彼女が口にした言葉。
『万魂降臨の儀』
あの儀式は、ユウキをこの世界へ呼び寄せたものと同じだった。
偶然なのだろうか。
それとも、自分が召喚されたことと、第三坑道に眠る何かは、最初から繋がっていたのだろうか。
ユウキは手首の枷を見つめた。
冷たい鉄の輪が、朝の薄明かりを鈍く反射している。
昨夜の魂盤では、HPは7。最大値36に対して、身体はまだ十分に回復していなかった。
まともに走ることさえ難しいかもしれない。
それでも、何もせずにいるわけにはいかなかった。
「起きとるのか、坊主」
バルドの声に顔を上げる。
「はい。あまり眠れなくて」
「昨日のことが気になるか」
ユウキは頷いた。
老人はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「今朝は様子がおかしい。帝国兵の数が増えとる」
「第三坑道のせいでしょうか」
「それもあるだろうが、どうも別の動きがあるようだ」
そのとき、トーマが眠そうに目を擦りながら起き上がった。
「何の話?」
「今日の鉱山は、いつもと違うという話だ」
バルドが答える。
トーマは鉄格子の外を覗いた。
「本当だ。兵士がいっぱい来てる」
ユウキは胸の奥に不安を感じた。
嫌な予感がする。
しかも、その予感は思ったより早く現実になった。
◇◆◇
「ユウキ・コバヤシ!」
朝の点呼が終わった直後、一人の帝国兵が名前を呼んだ。
ユウキは肩を震わせた。
「はい」
「本日より、お前の作業区分を変更する」
兵士は手にした書類を読み上げた。
「対象は帝国特別管理下へ移行。明朝、鉱山より移送する」
ユウキは言葉を失った。
移送。
昨日、灰色の外套の男が何かを確かめようとしていた。
その結果が、これなのだろうか。
「どこへ行くんですか?」
恐る恐る尋ねる。
「お前が知る必要はない」
兵士は冷たく答えた。
「本日は通常作業を免除する。指定された場所で待機しろ」
そのまま立ち去ろうとした兵士へ、バルドが声をかけた。
「待ってくれ。その坊主は怪我をしとる。長い距離を移動できる状態じゃない」
兵士は振り返った。
「移送用の馬車を使う。問題はない」
「しかし――」
「これ以上の質問は許可されていない」
それだけ言い残し、兵士は通路の奥へ消えた。
ユウキは立ち尽くしていた。
明日。
たった一日後には、この鉱山から連れ出される。
しかし、それは自由を得るためではない。
帝国の管理下に置かれるためだった。
「ユウキ」
トーマが不安そうに袖を掴んだ。
「どういうことだよ。どこかへ連れていかれるのか?」
「わからない。でも、たぶん……」
言葉が続かなかった。
バルドが険しい表情で言った。
「帝国は、お前をこの鉱山より価値のある場所へ移そうとしておるんだろう」
「価値……ですか」
「ああ。第三坑道で何かを確かめたんだ」
ユウキは小さく頷いた。
白い空間で見た少女の姿が、脳裏を過ぎる。
もし帝国が彼女の存在を知れば、どうするのだろう。
助けようとするだろうか。
それとも、彼女をさらに利用するのだろうか。
答えは見えていた。
少なくとも、昨日会った灰色の外套の男からは、少女を助けようという意思を感じなかった。
「バルドさん」
ユウキは顔を上げた。
「俺、ここから離れたくありません」
老人は何も言わなかった。
「リナの居場所もわからないし、トーマとの約束もあります。それに、バルドさんと一緒に出るって決めたんです」
声が少し震えた。
「だから、帝国の言うとおりに連れていかれるわけにはいきません」
バルドは長い沈黙のあと、静かに頷いた。
「わかった」
その目には、迷いがなかった。
「なら、今日中に動くしかない」
◇◆◇
ユウキだけは、午前の作業場へ連れていかれなかった。
代わりに、通常の牢から少し離れた待機室へ移された。
そこには鉄格子があり、壁には魔力を遮断するための術式が刻まれている。
椅子と水の入った器が一つ置かれているだけの、小さな部屋だった。
手首と足首の枷は、もちろん外されていない。
ユウキは硬い椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
これでは、バルドたちと相談することさえできない。
移送までの時間を、ただ待つしかないのだろうか。
そんなことを考えていると、扉の向こうから声が聞こえた。
「おい、その箱は検査場に持っていけ!」
「こっちは移送用の拘束具だ。職人に確認させろ!」
ユウキは顔を上げた。
移送用の拘束具。
その言葉に、ドランの顔が浮かんだ。
もし、まだ間に合うのなら。
何か方法があるかもしれない。
しかし、今は待つことしかできなかった。
◇◆◇
一方、第二坑道の補修場では、バルドが古い工具を運んでいた。
普段なら、彼がこの場所へ回されることは少ない。
しかし、第三坑道の異変によって補修作業が増え、熟練した鉱夫が必要になったのだ。
バルドは看守の目を避けながら、検査場へ近づいた。
そこには、ドランがいつものように金属製の拘束具を並べていた。
「ずいぶん久しぶりじゃな」
バルドが声をかける。
ドランの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……バルド?」
「ああ。まだ生きとるぞ」
ドランはしばらく老人を見つめた。
そして、小さく笑った。
「お前こそ、よく生き延びたな」
「お互い様じゃ」
二人は短く笑った。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「ドラン、昔の約束を覚えとるそうだな」
ドランは作業台へ視線を戻した。
「黒髪の小僧から聞いたのか」
「ああ」
バルドは声を落とした。
「第五坑道へ続く道は、まだ残っとると思うか?」
ドランはしばらく黙っていた。
「おそらくな。ただし、昔のままではない」
「どういうことだ?」
「第三坑道の封印が不安定になってから、鉱山全体の地盤が動いている。古い運搬路も無事とは限らん」
バルドは眉をひそめた。
「それでも、道がある可能性は残っとる」
「ああ」
ドランは頷いた。
「だが、問題は道だけじゃない」
その視線が、バルドの手首にある枷へ向けられた。
「これを外せなければ、逃げようがない」
バルドは静かに頷いた。
「だから、お前に頼みがある」
ドランの目が細くなる。
「何を考えている?」
「ユウキが明日、帝国へ移送される」
その言葉に、ドランの表情が変わった。
「もう決まったのか?」
「ああ。今朝、命令が出た」
ドランは小さく舌打ちした。
「思ったより早いな」
「何か知っとるのか?」
「移送用の拘束具を準備させられた。普通の奴隷に使うものじゃない」
バルドは息を呑んだ。
「なら、なおさら急がにゃならん」
ドランはしばらく考え込んだ。
そして、低い声で言った。
「正直に言えば、逃亡の手助けなんぞしたくない」
バルドは黙って聞いていた。
「失敗すれば殺される。わしだけじゃない。関わった者は全員だ」
「わかっとる」
「それでも頼むのか?」
「ああ」
バルドは迷わず答えた。
「今度こそ、誰かを見捨てたくない」
その言葉に、ドランの表情が変わった。
長い沈黙が続く。
やがて、男は作業台の下から古い布を取り出した。
「……昔の約束、か」
その中には、小さな金属片が入っていた。
「これは?」
バルドが尋ねる。
「壊れた解除具の部品だ。動作確認には使えんが、構造を調べるには役立つ」
ドランはそれを手のひらに乗せた。
「枷を開くには、解除具と封緘術式の認証が必要になる。無理に壊せば警報が鳴る」
「解除具さえあればいいわけではないんだな」
「ああ。だから簡単にはいかん」
ドランは金属片を布で包み直した。
「今日はまず、仕組みを確認する。それから考えよう」
バルドは頷いた。
「頼む」
「まだ助けるとは言っとらんぞ」
ドランはそう答えたが、金属片をしまう手には、先ほどまでなかった迷いが見えた。
◇◆◇
午後。
ユウキは待機室の中で、静かに目を閉じていた。
手首の枷が、時折微かに熱を帯びる。
魔封石が周囲の術式と反応しているのだろうか。
しかし、何が起きているのかはわからない。
ユウキは魂盤を呼び出そうとした。
青白い文字が視界に浮かぶ。
魂盤【STATUS】
名前:ユウキ・コバヤシ
年齢:17
種族:人間(異界者)
職業:無職
レベル:2
HP:8 / 36
MP:6 / 8
STR(筋力):8
VIT(耐久力):7
AGI(敏捷性):9
MAG(魔力):3
MND(精神力):12
DEX(器用さ):11
【固有権能】
略奪 Lv.1
【習得技能】
嗅覚強化 Lv.2
身体強化 Lv.2
採掘 Lv.1
振動感知 Lv.1
【状態】
負傷・精神疲労
魂蝕値:上昇中
ユウキは表示された数値を見つめた。
HPはわずかに回復している。
しかし、今の自分では兵士とまともに戦うことも、枷を破壊することもできない。
レベルが二になったとはいえ、力の差は大きかった。
「どうすれば……」
ユウキは小さく呟いた。
そのとき、足元から微かな振動が伝わってきた。
――トン、トン。
振動感知。
誰かが通路の向こうを歩いている。
しかし、今度は少し様子が違っていた。
足音が二つ。
一つは重く、規則正しい。
もう一つは、ゆっくりとした足取りだった。
やがて、扉の向こうから声が聞こえた。
「移送前の身体検査だ。扉を開けろ」
ユウキは顔を上げた。
鍵が回る音。
鉄扉が開く。
そこに立っていたのは、白髪交じりの男だった。
「ドランさん?」
思わず名前を呼ぶ。
ドランは一瞬だけ眉をひそめた。
「声が大きい。今は検査担当だ」
背後には看守が立っている。
ユウキは慌てて口を閉じた。
ドランは道具箱を床へ置き、ユウキの枷を確認し始めた。
「動くなよ」
「はい」
男は手首の鉄輪へ小さな器具を当てた。
魔封石が淡く光る。
そして、ほんの一瞬だけ、低い声が聞こえた。
「バルドから聞いた」
ユウキは息を呑んだ。
ドランは表情を変えずに続ける。
「明日、移送されるそうだな」
「はい」
「余計なことは言うな。今は聞くだけでいい」
ユウキは小さく頷いた。
ドランは検査を続けながら、声を落とした。
「枷を外すには、正規の解除が必要だ。無理に壊そうとするな」
「……」
「それと、第五坑道への道についても、まだ調べている」
ユウキの胸が高鳴った。
ドランは短く息を吐く。
「時間が足りん。だからといって、焦れば終わりだ」
そのとき、背後の看守が苛立たしげに声を上げた。
「おい! まだ終わらないのか!」
ドランはすぐに顔を上げた。
「傷んだ魔封石を確認している。移送中に警報が誤作動したら困るだろう」
看守は舌打ちした。
「さっさとしろ」
「ああ」
ドランは最後に一度だけユウキを見た。
「今夜、何か動きがあるかもしれん」
それだけ告げると、道具を片づけ始めた。
ユウキは何も言えなかった。
しかし、胸の奥には小さな希望が生まれていた。
まだ、終わっていない。
バルドもドランも、諦めてはいない。
それがわかっただけで、少しだけ呼吸が楽になった。
◇◆◇
夕方。
待機室の扉が再び開いた。
今度現れたのは、灰色の外套をまとった男だった。
ユウキは反射的に身体を強張らせる。
「調子はどうだ?」
男は穏やかな声で尋ねた。
「まだ、痛みます」
「そうか。移送までに少しでも回復してもらわねば困るな」
ユウキは黙っていた。
男は椅子へ腰を下ろし、ユウキを見つめた。
「お前に一つ聞きたいことがある」
「何ですか?」
「第三坑道の扉に触れたとき、何を見た?」
ユウキの心臓が跳ねた。
昨日も聞かれた質問だった。
あのときは、白い光が見えただけだと答えた。
しかし、男は納得していないらしい。
「昨日、話したとおりです」
「本当に?」
男の声が少し低くなる。
「測定器には、お前の魂波が記録されている。そして、封印内部に存在する何かが、お前へ反応した」
ユウキは息を呑んだ。
「反応?」
「ああ。お前が触れた瞬間、封印が一時的に安定した。偶然とは考えにくい」
男は静かに続けた。
「お前が何を見たのか、すべて話してもらいたい」
ユウキは唇を噛んだ。
少女のことを話せば、帝国は彼女を利用しようとするかもしれない。
しかし、黙り続ければ自分が危険になる。
どうすればいいのか。
答えが出ない。
そのとき、頭の奥で声が響いた。
『言わないで』
ユウキは思わず顔を上げた。
少女の声だった。
『まだ、知られちゃいけない』
灰色の外套の男は、ユウキの表情の変化を見逃さなかった。
「今、何か聞こえたのか?」
ユウキは息を止めた。
男の目が鋭くなる。
「やはり、何かと繋がっているんだな」
ユウキは答えなかった。
答えられなかった。
男はしばらく黙っていたが、やがて立ち上がった。
「明日の移送先で、詳しく調べることになるだろう」
その言葉に、ユウキは不安を覚えた。
「俺は、どうなるんですか?」
男は一瞬だけ動きを止めた。
そして、静かに答えた。
「それは、お前の価値次第だ」
ユウキの胸が冷たくなった。
価値。
ここでも、人は価値で判断される。
その言葉は、これまで何度も聞いてきたものと同じだった。
「……俺は、物じゃありません」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
男は振り返った。
ユウキは震える手を握りしめた。
「俺にも、守りたい人がいます。帰りたい場所もあります」
声は小さかった。
それでも、目を逸らさずに続けた。
「だから、勝手に決めないでください」
長い沈黙が流れた。
男はユウキを見つめていた。
そして、わずかに口元を緩めた。
「なるほど」
それだけ言うと、扉へ向かった。
「ならば、その意思をどこまで貫けるか見せてもらおう」
男が去り、扉が閉まる。
ユウキはその場で力が抜けたように座り込んだ。
怖かった。
今も、心臓が激しく鳴っている。
しかし、不思議と後悔はなかった。
初めて、自分の意思をはっきりと伝えられた気がした。
◇◆◇
夜。
鉱山の奥で、小さな鐘が鳴った。
普段の消灯を知らせる鐘とは違う、低く短い音だった。
ユウキは待機室の中で顔を上げた。
扉の外から、慌ただしい足音が聞こえる。
「第三坑道の補修班を集めろ!」
「封印の反応が再び不安定になっている!」
看守たちの声が遠ざかっていく。
ユウキは立ち上がろうとしたが、すぐに壁へ手をついた。
身体が重い。
それでも、ただ座っているわけにはいかなかった。
そのとき。
――カチリ。
扉の鍵が回る音がした。
ユウキは息を呑んだ。
鉄扉が、ゆっくりと開く。
そこに立っていたのは、ドランだった。
その背後には、バルドの姿もあった。
「……バルドさん!」
ユウキは思わず声を上げた。
老人は人差し指を口元へ当てた。
「静かにしろ、坊主」
ドランも低い声で言った。
「時間がない。話は後だ」
ユウキは二人を見つめた。
どうしてここにいるのか。
どうやって看守の目を避けたのか。
聞きたいことは山ほどあった。
しかし、今はそんな場合ではない。
バルドが静かに手を差し出した。
「ユウキ、行くぞ」
その言葉に、ユウキの胸が熱くなった。
「……はい!」
ユウキは震える足で立ち上がった。
ドランが周囲を確認しながら、短く告げる。
「これは脱出じゃない。まだ第一段階だ」
その手には、小さな解除具が握られていた。
「まずは、お前の鎖を外す」
ユウキは息を呑んだ。
ついに、その時が来たのだ。
しかし、ドランの表情は厳しかった。
「ただし、失敗すれば警報が鳴る。そうなれば、ここにいる全員が終わりだ」
冷たい空気が、待機室を満たしていく。
ユウキは手首の枷を見つめた。
自分を縛り続けてきた鉄の輪。
自由を奪うための道具。
そして今、その鎖を外そうとする人たちがいる。
バルド。
ドラン。
それから、牢で待っているトーマ。
自分は一人ではない。
ユウキはゆっくりと頷いた。
「お願いします」
ドランは解除具を構えた。
魔封石が、淡い青色に輝く。
――カチリ。
小さな音が響いた。
しかし、鉄輪は開かなかった。
代わりに、魔封石の光が赤く変わり始める。
「……まずい」
ドランの顔色が変わった。
次の瞬間。
――ピッ、ピッ、ピッ。
聞き慣れない警告音が鳴り始めた。
バルドが息を呑む。
「ドラン!」
「わかっとる!」
男は慌てて解除具を操作した。
しかし、赤い光は強くなるばかりだった。
ユウキは自分の手首を見つめた。
鉄輪が熱を帯びていく。
そして、視界の端に青白い文字が浮かんだ。
《魔封石の異常反応を検出》
《封緘術式の認証に失敗しました》
《警告:拘束具の警報が作動します》
ユウキの心臓が激しく鳴った。
ここで見つかれば、すべてが終わる。
だが、今の自分には何もできない。
そんな考えが頭を過ぎった、その瞬間。
ドランが低い声で叫んだ。
「まだ終わっとらん!」
男は解除具を握り直した。
「こいつは、通常の拘束具じゃない。移送対象用に認証が変更されとる!」
バルドの表情が険しくなる。
「なら、どうする!」
「解除具だけじゃ開かん。認証を切り替える必要がある!」
警告音が速くなる。
――ピピピピッ!
ユウキは唇を噛んだ。
自由になるまで、あと少し。
しかし、その少しが、あまりにも遠かった。
そして、通路の奥から足音が聞こえ始めた。
兵士たちが、こちらへ近づいている。
ユウキは手首の枷を握りしめた。
今度こそ、自分の運命を誰かに決めさせたくない。
そう強く願いながら、目の前の赤い光を見つめていた。
――第14話 完。




