キザシ 10
フレデリックが何者かに誘拐された。
ショックを受けたマディラから火竜が出現して、室内を飛び回る。
炎の竜をかき分けながら、一歩ずつマディラに近づきジュリアンは彼女の体を抱きしめた。
部屋が元の景色を取り戻すが、放心状態のマディラは、ピクリとも反応しなかった。
王子を攫った不審な影は、城下町を抜けたところで森に隠れたらしい。
一般の旅人と紛れると、区別がつかなくなってしまった。
かなり遠方まで捜索させたが、息子の行方はわからなかった。
事件直後、王妃は寝込んでしまった。
ずっと王宮に篭っていると、一日中フレデリックのことを考えてしまうだろう。
そこでジュリアンは、気分転換にマディラと王都を抜け出した。
王家の北方の別荘地や、離島のノースランドに二人きりで出かけるなどした。
その甲斐あってか、彼女は何とか起き上がれるようにはなった。
あの日以来、マディラは一日中フレデリックが拐われた方角をボーと見て過ごす毎日。
毎日決まった時間に起床就寝し、3度の食事も口にする。
数週間に一度程度、ふらっと部屋を出てどこかに行くも、小一時間ほどで戻ってくる。
しかし彼女は全くの無表情。
誰かそばにいても、自ら口を開くことはない。
何にも反応をせず、公務の遂行は絶望的。
王城の空気は重かった。
国王であるジュリアン自身も疲弊。
このままでは、王家そのものが沈んでいくのではないかという危機感があった。
「陛下」
ある日、老臣の一人が、慎重に口を開いた。
「恐れながら、もうお一人、妃をお迎えになることもご検討されては」
ジュリアンはすぐには答えなかった。
「僕は元から、新たに妃を娶ることは考えていない」
静かな声だった。
「ましてや、このタイミングでは考えられない」
家臣たちは黙る。
ジュリアンは続けた。
「それに——」
一拍置く。
「王子がいなくなって、僕だって傷ついているんだ」
その言葉に、誰も返せなかった。
ジュリアンは視線を落とした。
そもそも、今この時期に誰かを妃を迎えたら——。
溺愛していたフレデリックを失い、自分の心を保つだけで精一杯の彼女が、それを知ったらどうなるか。
マディラはきっと、自分はもう必要とされていないと感じる。
下手をすれば、二度と正気には戻らない。
今かろうじて繋がっている細い糸を、自分の手で断ち切ることになる。
考えるまでもなかった。
けれど、家臣たちの意図も理解していた。
妻と息子のことで沈み続けるジュリアンに、少しでも別の支えを与えたい。
そう考えている者もいた。
その好意まで無下にし続けるのは、国王として得策ではなかった。
だからジュリアンは、何度か会食の席を設けた。
紹介された女性たちは、皆、よく教育されていた。
言葉は優しかった。
数度の会食のうち、ほんの数人とは、そのまま夜を共にする流れになった。
——家臣たちが望んだ通りに。
国王として、男として、前に進んでいるように見える形で。
けれど、それだけだった。
朝になれば、ジュリアンの心は少しも動いていない。
次に繋がることはなかった。
その夜だけの慰めが、かえって彼に思い知らせた。
自分が求めているのは、ただ隣に誰かがいることではない。
かつては涼子の様に、その場しのぎで付き合うこともあった。
だが、今のジュリアンには必要なかった。
会食の候補者たちは、これを機に国王の心を射止めようと策を巡らしてくる。
が、彼女たちの浅はかな考えが透けて見えてしまい、それを感じると彼はかえって疲れてしまう。
それは、若い頃の見合い相手達と状況に似ていた。
無反応だとわかっていながら、気づいたら"一の間"に足が向く。
マディラの温もりを感じながら、1日の出来事を呟いて眠りに落ちる。
その方が、なぜかジュリアンは心が安らいだ。
寝台に入り、そっと王妃の手を握って、静かに目を閉じる。
なぜか、ふと昔の情景が蘇った。
結婚する前のことだ。
かつての婚約者であったマルゴーと意見が合わず、どうにも胸の中で整理がつかなかった。
ジュリアンは、何気ないふりをしてマディラに尋ねたことがある。
「——たとえば、招待された舞踏会に君と一緒に出席して、途中で僕だけ退席したら怒るかい?」
マディラはきょとんとした。
「え、なんで?」
本気で不思議そうな顔だった。
「踊っている最中に突然いなくなるって話じゃないんでしょ。なら、別にいいんじゃないの。主催者に失礼にならないなら」
変なことを聞くのね、とでも言いたげな表情だった。
ジュリアンは少し意外に思いながら聞き返す。
「怒らないんだ」
「それ、怒るとかそういう問題じゃないでしょ」
マディラは即答した。
「あなたが、どちらの予定も大事だと思った上でそう行動したとか、あるいは本当に緊急事態が起きたってことでしょ」
「……」
「だったら、そっちに行かないと」
少し考えてから、彼女はさらに付け足した。
「私はやらしいおじさん相手でも、おしゃべりして多少は場をもたせるくらいならできるわ」
「……」
「でも、あなたみたいに国家の一大事を判断することはできないもの」
それは卑下ではなかった。
ただ、自分にできることとできないことを分けているだけだった。
その答えを聞いた時、ジュリアンの中で何かがすとんと落ちた。
相手の立場を、自分の感情より先に考えられる人間もいるのか。
そう分かっただけで、ずっと絡まっていたものがほどけるようだった。
元婚約者には、公務が長引くたび、自分が蔑ろにされたのだと何度も責められていた。
「私より公務が大事なのですか」
そう言われるたび、ジュリアンは言葉に詰まった。
次第に、自分の方が間違っているのではないかと思うようになった。
だが、マディラは少しも拗ねなかった。
自分が後回しにされたとも、受け取らなかった。
彼女のような返事ができる女性は、実際なかなかいなかった。
大抵は、そもそも舞踏会の途中退席を嫌がる。
あるいは建前では「仕方ありません」と微笑むが、いざ本当にそういう状況に置かれれば、あとで愚痴の一つもこぼす。
寂しいと思うのも、腹を立てるのも、人として自然な感情だ。
けれどマディラは、ジュリアンにしかできないことがあるなら、そちらへ行くべきだと当然のように考えた。
それが、どれほど彼を楽にしたかマディラは知らなかっただろう。
寝台の中で、ジュリアンは隣の王妃の手を握ったまま、静かに息を吐いた。
あの頃から、彼女はそうだった。
それがどれほど稀なことだったのか、今ならよく分かる。
早く、彼女が戻ってきてほしい。
今のマディラの状況は、あの時に似ていた。
人間界で火事で両親を亡くした後。
当時3食しっかりと食べ、瞑想の声かけにも応じていたが、すぐに部屋に篭ってしまい、ぼーっと1日を過ごしていた。
だが2ヶ月ほどたったある日、突然に彼女の部屋の扉が開いた。
誰かの働きかけもなく、自ら外に出てきたのだ。
息子が誘拐されてもうすぐ2年。
焦りがないといえば嘘になる。
ジュリアンのことを拒絶したら傷つくが、そうでもなく、あくまで反応がないだけ。
ならもう少し様子をみよう。
——今は時薬が必要だから。
きっと彼女は、ちゃんと自力で戻ってくると信じている。




