キザシ 3
アルバス城内 騎士団の訓練場
後宮の、夜の警備の交渉の数日後。
王城の訓練場には、朝から騎士たちの声が響いていた。
剣が打ち合う音。
靴が砂を踏む音。
号令。
荒い呼吸。
ジュリアンは上着を脱ぎ、訓練用の剣を握っていた。
国王とはいえ、彼は定期的に護身の訓練をしている。
元々祖国ニーベルでは、父から剣術の手ほどきを受けていた。
父は軍幹部であり、国でも名の知れた武人だった。
ジュリアン自身も、その型を身につけている。
ただし彼は文官だ。
戦術家であり、研究者であり、国王である。
騎士団のリーダーほど、剣に人生を捧げてきたわけではない。
かつて、マディラの護衛をしていた時代にも、彼は研究ばかりしていた。
調査に没頭し、剣の自己研鑽を怠った。
その結果、致命傷を負ったことがある。
それは今も苦い記憶として残っていた。
だから、強くならなければならない。
せめて、守りたい者の前で倒れることだけは避けなければならない。
その思いが、彼を訓練場へ向かわせていた。
「始め!」
騎士団の若手が踏み込んでくる。
勢いはあるが、読みやすい。
ジュリアンは半歩引き、剣筋を流した。
相手の体勢が崩れ、そこへ軽く打ち込む。
若手騎士が膝をついた。
「一本」
周囲から短い感嘆が漏れる。
国王としては十分すぎる腕前だった。
少なくとも、机に向かうだけの文官ではない。
次の相手も若手だった。
ジュリアンは勝った。
だが圧勝ではなかった。
受け、流し、読み、間合いを外す。
彼の剣は無駄が少ない。
だが、力で押し切るものではない。
型も、グリーンフレードム国騎士団が見慣れているものとは違った。
訓練を見ていた騎士団リーダーが、やがて腕を組んで口を開いた。
「陛下」
「何だい」
ジュリアンは息を整えながら振り向いた。
「率直に申し上げてもよろしいでしょうか」
「構わない」
その瞬間、周囲の若手たちが少し身構えた。
騎士団リーダーは遠慮のない男だった。
「陛下の剣は我流です」
場の空気が少し変わる。
ジュリアンは眉を動かさなかった。
「続けて」
「読みと反応は悪くありません。むしろ優れておられます。ですが、剣そのものの基礎が整っていない」
リーダーは高圧的とすら言える口調で続けた。
「まずは矯正から始めるべきです」
若手騎士たちは黙っている。
ジュリアンは剣を下ろした。
「矯正か」
「はい。我が国の騎士団の正規の型から学び直していただくのがよろしいかと」
「なるほど」
ジュリアンは特に怒らなかった。
自分の腕が、騎士団長に及ばないことくらい分かっている。
必要なら学び直すことも吝かではない。
だが。
「それは違うわ」
その時、訓練場の端から声がし、全員の視線がそちらに向く。
マディラだった。
いつの間に来ていたのか、少し離れた日陰に立っている。
侍女を一人伴っているが、護衛は最低限だった。
妊娠と出産を経た細い身体。
柔らかな金髪。
穏やかな顔立ち。
一見すれば、戦いとは無縁の王妃に見える。
「マディラ」
ジュリアンが少し驚いたように名を呼ぶ。
王妃は訓練場へ視線を向けたまま、ゆっくりと近づいてきた。
「彼の剣は我流じゃない」
騎士団リーダーの眉が動く。
「王妃様」
礼はしたが、その声には明らかな硬さがあった。
「訓練中でございます」
「見れば分かるわ」
「恐れながら、剣術の話です」
その言い方に、若手騎士の何人かが気まずそうに視線を逸らした。
言葉にはしていない。
だが含みは明白だった。
女は剣談義に口を挟むな。
王妃であっても、戦場の訓練に入ってくるな。
マディラはその空気に気づいていたが、怯む様子はなかった。
「剣術の話だから言っているの」
彼女は静かに返す。
「陛下の型は、祖国では正当な流派と見なされているものよ」
騎士団リーダーはわずかに目を細めた。
「ニーベル国の?」
「ええ」
マディラはジュリアンを見る。
「足の置き方、手首の返し、受け流す時の腰の抜き方。全部、あちらの型でしょう」
ジュリアンは少し意外そうな顔をした。
「分かるのかい」
「あなた、昔からそうだったもの」
その言葉に、ジュリアンは口を閉じた。
かつてマディラの護衛をしていた頃。
彼女は当然、ジュリアンの剣を見ている。
守られる側として。
時には、守りきれず傷つく彼の姿も。
マディラは続けた。
「グリーンフレードム国の騎士団の型と違うから、我流に見えるだけよ」
騎士団リーダーの表情はまだ硬い。
「しかし、実戦効率を考えれば、我が国の正規型へ修正する方が」
「でも、根本から矯正する必要はない」
「王妃殿下は、剣を扱われるのですか」
その問いは丁寧だった。
しかし、周囲の空気はさらに刺々しくなる。
マディラは一瞬、黙った。
ジュリアンもまた、彼女を見た。
誰も知らない。
マディラが剣を握れるのかどうか。
妊婦だった彼女に剣を持たせたことはない。
マディラは騎士団リーダーの問いに、淡々と答えた。
「扱えるかどうかは知らないわ」
その答えに、騎士たちの何人かが小さく息を漏らした。
"やはり"という空気だった。
だが、マディラは続けた。
「でも、見ることはできる」
「見る?」
「剣筋の良し悪しくらいは分かる、という意味よ」
騎士団リーダーは不満を隠さなかった。
「恐れながら、見ることと扱うことは違います」
「そうね」
マディラは頷く。
「だから、あなたが陛下より強いことは否定しない」
リーダーの眉が少し動く。
「ただし」
マディラは静かに言った。
「あなたが知らない流派を、我流と断じるのは違う」
その場が静まり返った。
柔らかな声なのに、妙な圧があった。
ジュリアンは思わずマディラを見た。
いつもの穏やかな妻ではない。
騎士団リーダーもそれを感じたのか、すぐには言い返さなかった。
だが、彼も騎士団を背負う男だった。
簡単には引けない。
「では王妃陛下は、陛下の型を残すべきだと?」
「残すところと直すべきところを、分けた方がいいと言っているの」
「具体的には」
「彼は受け流しは上手い。でも最後の踏み込みが浅い。攻め切る前に、次の手を考えているから」
マディラは冷静に続けた。
「剣を振っている時まで、頭で戦況を組み立てすぎている。だから若手相手には勝てても、あなたのように圧をかける相手には押し負ける」
場の空気が変わった。
騎士たちが互いに顔を見合わせる。
それは、訓練を見慣れた者でなければ言えない指摘だった。
いや、見慣れていても、そこまで即座に言語化できる者は多くない。
ジュリアンは苦笑した。
「手厳しいね」
「本当のことでしょう」
マディラは淡々と答える。
「否定はしないよ」
騎士団リーダーはマディラをじっと見ていた。
先ほどまでの侮りは、少し薄れている。
それでもまだ完全には認めていない。
「王妃殿下」
彼は言った。
「そこまでお分かりになるなら、一度実際に剣を」
「駄目だ」
ジュリアンが即座に遮った。
声が低い。
「マディラに剣を持たせるな」
場の全員が口を閉ざした。
マディラも少しだけジュリアンを見る。
「ジュリアン」
「駄目だ」
彼は重ねて言った。
マディラに剣を持たせることそのものが、何か危うい扉を開くような気がした。
彼女の能力は未知数だ。
試練の間では歴代トップ。
だが、実戦でどこまで動けるのか誰も知らない。
知りたい気持ちはある。
だが、知るのが怖い気持ちもあった。




