キザシ 2
後宮 一の間 夜遅く
ジュリアンは妻が眠る寝台へ入り、彼女の顔を覗き込んだ。
今日は夫婦としての時間を取り戻せる——。
その時使用人や警備兵の巡回が気になり、彼女は身体を起こした。
王族の寝所周辺に誰もいないなどあり得ないことはわかっていたが、人間界で一般家庭と同様の環境で育った彼女は、その事実が耐え難かった。
「彼らは仕事をしているだけだよ」
ジュリアンは根気強く言った。
「夫婦の時間を気にしている者はいない」
「本当に?」
「本当だ」
「でも音は聞こえる」
「聞こえるからといって、見られているわけじゃない」
「同じよ」
「同じではない」
「同じなの」
マディラの声は頑なだった。
ジュリアンは頭を抱えたくなった。
理屈が通じない。
いや、通じてはいる。
通じている上で、感情が拒んでいる。
こうなると厄介だった。
彼女は納得しない限り動かない。
「夜の配備は減らすように言っている」
「でも今、いるの」
「……」
"今夜"の話をしている。
ジュリアンは返す言葉に詰まった。
その時——
控えめなノックが響いた。
今度はマディラだけでなく、ジュリアンにもはっきり聞こえた。
「王妃様」
フレデリック付きの侍女の声だった。
「王子殿下がお目覚めになりました」
マディラの表情が、一瞬で母の顔に変わる。
「今行くわ」
「マディラ」
ジュリアンが呼び止める。
だが彼女はすでに寝台を降り、羽織を手に取って髪を軽くまとめる。
「ごめんなさい」
「本当に今、行くの?」
「フレデリックが起きたのよ」
「乳母がいるだろう」
「私が行く」
その声に迷いはなかった。
ジュリアンは寝台の上に取り残された。
マディラは扉へ向かい、そして部屋を出ていった。
静寂が落ちる。
ジュリアンはしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
——今度。
その今度はいつ来るのか。
やっと少し空気が戻りかけた。
それが侍女の気配と巡回の足音、それに息子の夜泣きで完全に消えた。
ジュリアンは仰向けに倒れ込む。
広い寝台に一人。
——妙に広い。
先ほどまで隣にいた体温が消えた分、余計に広く感じる。
明日こそ、夜間配備を見直させる。
——絶対に。
だが同時に、彼は別の不安も覚えていた。
これは単に警備の問題なのか。
それともマディラ自身が、まだ夫婦としての距離に戻りきれていないのか。
妊娠。
出産。
育児。
慣れない異国での王妃生活。
そして、自分への疑念。
考え始めると、楽観できる要素は多くなかった。
今後、夜だけではなく、夫婦の仲そのものはどうなるのか。
このままフレデリック中心になり、自分は後回しにされ続けるのか。
それは父親として狭量だろうか。
夫としては当然の不満ではないか。
ジュリアンは寝返りを打った。
誰もいない寝台の片側が冷たい。
腹立たしい。
寂しい。
そして……少しだけ情けない。
ジュリアンは深く息を吐き、片腕で目元を覆った。
我ながら拗ねているのはわかる。
彼はそのまましばらく眠れなかった。
遠くの部屋から、マディラがフレデリックをあやす微かな声が聞こえてくる。
その声は優しく、穏やかで、愛情に満ちていた。
聞いているだけで、息子をどれほど溺愛しているか分かる。
だからこそ、余計に不貞腐れた。
夫婦の時間を取り戻す道は、思っていたよりずっと険しそうだった。
――――――――――
翌朝。
ジュリアンは朝食の席を終えると、そのまま侍従長を呼んだ。
白髪のクラウスが静かにお辞儀をした。
先代ソフィアの時代から仕えてきたその老人は、王家の歴史と共に生きてきた者であり、王家で尊重される存在でもある。
昨夜の件を、なかったことにするつもりはなかった。
国王の寝室近くに人員を置く必要があることは分かっている。
王城である以上、完全な無人などあり得ないが、限度というものがある。
ましてマディラは、通常の王妃ではない。
いざとなったら配置を解いて、用心をして人払いの結界を施すこともできる。
ただし、王子に何かあった時の情報も遮断することになる。
まずは運用で解決したかった。
ジュリアンの向かいで控えた侍従長は、話の内容を察していたのか、最初から少し硬い顔をしていた。
「夜間の配備についてだけど——」
ジュリアンが切り出す。
「寝室周辺の人員を減らせないか」
「以前も申し上げましたが、陛下の安全上、それは——」
「僕の安全なら問題ない」
ジュリアンは即座に言った。
「マディラがいる」
侍従長は沈黙した。
その沈黙に、否定の気配がある。
ジュリアンは眉を上げた。
「何だい」
「王妃様のお力を疑っているわけではございません」
「なら何を疑っている」
「実績です」
侍従長は慎重に答えた。
「王妃様の能力が極めて高いことは、試練の間で明らかになっております。歴代でも類を見ない成績であったことも承知しております」
「なら十分だろう」
「しかし、それはあくまで計測上の話でございます」
侍従長は一歩も引かなかった。
「実戦で王妃殿下がどの程度動けるのか、我々は存じ上げません」
ジュリアンは軽く息を吐いた。
マディラは、ニーベル帰国後すぐに父王に能力を封じ込められていた。
グリーンフレードム国に養子として入ったことで、物理的な距離ができて封印は緩み、やがて解けた。
だがその頃、彼女は妊婦だった。
当然、剣など握らせていない。
危険な訓練もさせていない。
だからジュリアンを含め、誰もマディラの戦闘能力を知らなかった。
ただ、ジュリアンには確信があった。
——あれだけの身体能力。
——あれだけの魔力制御。
——あれだけの反応速度。
普通の護衛より弱いはずが、ない。
「マディラが僕の側で目を覚ましている限り——」
ジュリアンは淡々と言った。
「敵襲で僕が傷つく可能性は極めて低い」
「陛下」
「下手な護衛を何人も置くより、彼女一人の方がよほど安全だ」
「それは、証明されておりません」
「証明?」
ジュリアンは少し呆れたように笑った。
「寝室で証明する機会が来たら、その時点で警備は失敗しているだろう」
「ですから、失敗しないために配置を」
「その配置のせいで別の問題が起きている」
侍従長はわずかに目を伏せた。
おそらく昨夜の件も耳に入っている。
だが、それでも譲らない。
「陛下と王妃殿下には、夜にしか話せないことも多くございます」
ジュリアンは目を細めた。
「本音が出たね」
「国政上の重要な会話が、記録も共有もないまま行われることを危惧しております」
「夫婦の会話だ」
「国王と王妃の会話でもございます」
王家の者が二人きりになる夜こそ、秘密の話をする絶好の時間。
侍従長は、それを把握できないことを嫌がっている。
つまり、国防上の理由という顔をしながら、本音は"自分の知らない話を減らしたい"のだ。
まったく、困った男である。
ジュリアンはしばらく侍従長を見た。
彼が無能なら、命じれば済む。
だが有能で、忠実で、しかも間違ったことばかりを言っているわけではない。
だから厄介だった。
「配置は半分にしてほしい」
「では、時間帯で交代を減らします」
「寝室に近い廊下からは下げるんだ」
「控えの間までは維持します」
「侍従長」
「陛下」
二人はしばらく睨み合った。
先に折れたのは、ジュリアンの方だった。
「……検討を」
「承知いたしました」
——検討。
つまり今すぐは変わらないということだ。
ジュリアンは内心で舌打ちした。
この件は別の角度から崩す必要がある。
マディラの能力を、誰の目にも明らかにする必要があるのかもしれない。
そう思いながらも、その時のジュリアンはまだ知らなかった。
その機会が、思ったより早く訪れることを。




