キザシ 1
ジュリアンの戴冠式から数ヶ月後
後宮は慌ただしい雰囲気に包まれていた。
半日以上前にマディラに陣痛が起き、今まさに子供が生まれようとしていた。
運悪く議会が長引いて、やっと後宮に入ることができたジュリアン。
侍女たちが状況を説明していたその時——。
おぎゃぁぁぁ
あたり一体に産声が響き渡った。
「おめでとうございます。元気な男の子がお生まれになりました。お妃様の体調も大丈夫そうです」
奥から、分娩の介助をしていた者が国王に報告に来た。
「そうか……よかった」
「ただいま王子様の体を綺麗にしたのち、お部屋にお戻しします。先に室内で待っていただいても大丈夫です」
そう言われたので、ジュリアンはマディラの様子を見にいく。
「お疲れ様」
ひと仕事おえて少しぼーっとしていたマディラのそばに近づき、頭を優しく撫でる。
「あぁ……うん……。男の子だって」
一日近く続いていた陣痛から解放されて、そして母体も急激な変化にさらされて流石に疲労をしているようだった。
ジュリアンはそれ以上話しかけることを控え、静かにそばについていた。
しばらく後、まっさらな布に包まれた、生まれたての赤ちゃんが部屋に運ばれた。
マディラは少しだけ体を起こした。
ジュリアンとともにその赤ちゃんを受け取り、新しい命の誕生に喜びを分かち合っていた。
彼はフレデリック・ルイス・オリヴィエと名付けられた。
マディラは、彼女の生まれなどに偏見を持たない真っ新な命を、情熱を持って育てようと思っていた。
——自分の愛を一身に受け、また彼が自分のことを愛してくれたら。
愛情を注げばきっと、自分が産んだ子なら彼女を必要としてくれるだろう。
自分のような、親をはじめ誰にも愛されなかった人間も。
生きていていいんだという自信が、やっと持てるのではないか——。
――――――――――
半年後
王城の生活は、ようやく少しだけ落ち着きを取り戻しつつあった。
もちろん、王子が生まれたからといって静かになるわけではない。
むしろ後宮は以前より慌ただしい。
乳母、侍女、医師、警護、教育係候補が増えた。
まだ言葉も話せない赤子一人を中心に、王城の一角は常に緩やかな緊張と幸福に包まれていた。
ジュリアンはそれを悪いことだとは思っていなかった。
息子は可愛い。
マディラが、フレデリックを抱いている姿を見るのも嫌いではない。
むしろ、彼女が母として穏やかに微笑む姿を見るたび、胸の奥に不思議な安堵が満ちた。
ただ。
夫としては、少しばかり不満もあった。
「少しばかり」というには、最近はかなり積もっていた。
妊娠中は仕方がない。
出産直後も当然だ。
体調の回復が最優先だし、フレデリックの世話もある。
ジュリアンもそれは分かっていた。
分かっていたから、焦らなかった。
だが半年である。
マディラの体調も戻ってきた。
医師からも、無理をしなければ問題ないと言われている。
それなら、そろそろ夫婦としての時間を取り戻してもいいのではないか。
そう思うのは、決して不自然ではないはずだった。
その夜、ジュリアンは珍しく仕事を早く終えた。
公爵たちとの食事会で多少酒は入っていたが、酔っているというほどではない。
むしろ、ほどよく気分が緩んでいた。
執務を切り上げ、後宮へ向かう足取りも自然と軽くなっていた。
――――――――――
後宮 一の間
国王が王妃の居住空間に着くと、控えていた侍女が静かに頭を下げた。
「王妃は?」
ジュリアンが尋ねる。
「つい先ほど、王子殿下を寝かしつけられて、ご自身も寝室へお入りになりました」
「眠ったのか」
「いえ、おそらくまだ」
それを聞いて、ジュリアンはわずかに口元を緩めた。
ちょうどいい。
寝室へ入ると、灯りは落とされていた。
柔らかな夜灯だけが、薄く部屋を照らしている。
大きな寝台の上で、マディラは横になっていた。
金髪はほどかれ、肩に流れている。
目は閉じていたが、呼吸は眠っているものではない。
ジュリアンはそっと寝台へ腰掛けた。
「マディラ」
彼女の瞼が少し動く。
「……ジュリアン?」
「まだ起きている?」
少し眠たげな声だった。
だが本当に眠っているわけではない。
ジュリアンは寝台へ入り、彼女の顔を覗き込んだ。
「今日は少し早く終わった」
「そう」
「フレデリックも寝たと聞いた」
「ええ。やっと」
彼は言葉を切り、そっとマディラの頬に触れた。
マディラは逃げなかった。
少しだけ視線を逸らしたが、拒むほどではない。
ジュリアンはそれを了承と受け取った。
ゆっくりと顔を寄せる。
最初の口付けは軽かった。
様子を見るように。
マディラは目を閉じたまま、それを受けた。
二度目は少し長い。
三度目になる頃には、彼女はジュリアンの意思を感じていた。
久しぶりだった。
本当に久しぶりだった。
ジュリアンは胸の奥に広がる安堵と熱を、できるだけ急がせないよう抑えた。
マディラもまた、最初は戸惑っていたものの、次第に力が抜けていく。
かつてのような頑なさは薄れ、彼女自身も少しずつその空気へ身を委ね始めていた。
ジュリアンは内心で、今夜は大丈夫だと思った。
ようやく夫婦としての時間が戻ってくる。
そう思った、その時だった。
かすかな音がした。
本当に、かすかな音だった。
普通の人間ならまず気づかない。
隣室のさらに向こうで、使用人が備品を置いた音。
布越しに金具が触れた程度の小さな響き。
けれどマディラの身体は、ぴたりと止まった。
ジュリアンは、王妃の反応に気づいていた。
「マディラ」
「……今」
「使用人が仕事をしている」
「寝室の近くで?」
「近くではない」
「でも聞こえた」
「君にだけだ」
マディラは黙った。
ほんの少し前まで柔らかくなっていた空気が、急に冷えていく。
ジュリアンは焦った。
ここで引けば、またしばらく戻れない気がした。
だから彼は、なるべく平静な声で言う。
「気にしなくていい」
「気になる」
「誰もこちらを気にしていない」
「でもいる」
「持ち場にいるだけだ」
彼はもう一度、マディラの頬に触れた。
「マディラ」
促すように名を呼ぶ。
彼女はしばらく躊躇ったが、完全に拒んだわけではなかった。
ジュリアンに、自分を委ねようとしている。
気を取り直そうとしている。
そう見えた。
ジュリアンは慎重に、もう一度口付ける。
今度は少しぎこちなかったが、それでもマディラは応えた。
——いける。
そう思った瞬間。
さらに遠くで、床がわずかに軋んだ。
警備兵が巡回で廊下を歩いた音だった。
普通の者なら、壁も扉も越えて聞こえるはずがない。
だがマディラには聞こえた。
彼女は今度こそ完全に固まった。
そして、ジュリアンの胸を押した。
「ねぇ」
「マディラ」
「無理」
はっきりとした拒絶だった。
ジュリアンは深く息を吐く。
「ただの警備だ」
「分かってる」
「なら」
「分かっていても、嫌」
彼女は身体を起こし、金髪が肩から滑り落ちる。
表情は硬い。
彼女は、頭では理解していた。
王族の寝所周辺に誰もいないなどあり得ない。
安全管理上、人員配置が完全に無人になることはない。
ジュリアンの立場を考えれば当然だ。
けれど、夜の時間に、扉の向こうで誰かが呼吸している。
廊下を誰かが歩いている。
控えの間に誰かがいる。
人間界で一般家庭と同様の環境で育った彼女は、その事実が耐え難かった。




