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葛藤 10

夏休み


真唯佳(まゆか)はダンス部の大会を終え、打ち上げに参加していた。

終了するもそのまま解散にはならず、建物の前で、なんとなく立ち話が続く。

気づけば、少し遅い時間になっていたが、皆、帰路についていた。


一方、彬(あきら)は大学の飲み会に参加。

談笑していたところ、真唯佳の声がした気がして外に出る。

路地を抜け、通りを渡り、人通りの少ない場所へ。


その先。

街灯の下に、数人の影。

「だからさー、ちょっとだけでいいって」

「送ってくって言ってんじゃん」

軽い調子の声。

囲まれているのは、真唯佳だった。

一歩下がるが、これ以上逃げ場がない。

「大丈夫です、帰れますから」

声は冷静だが、近すぎる距離に戸惑う。

一人がさらに踏み込む。

「いいからさ——」


その瞬間。

「離れろ」

低い声が割り込み、空気が一変する。

男たちが振り向く。

そこに立っていたのは、彬だった。

「……誰?」

「関係ないだろ」

青年達は一歩前に出て、距離を詰める。

彬の視線が、明確に“排除”を示しており、軽い空気がスッと消える。


「……彼氏?」

真唯佳の表情を読み取った誰かが、呟く。

彬は答えず、ただ、その場に立つ。

それだけで十分だった。

「……ちっ」

男たちは顔を見合わせ、舌打ちして離れる。

「つまんねーの」

「行こ」

足音が遠ざかり、静寂が戻る。


真唯佳はその場に立ったまま、動けなかった。

「……大丈夫?」

彬が声をかけると、真唯佳はゆっくりと顔を上げる。

その瞬間、張り詰めていたものが崩れた。

「……怖かった」

小さく、震える声。

彬は一瞬だけ目を閉じる。

(……間に合った)

何も言わず、真唯佳の肩に手を置く。

今度は、突き飛ばされなかった。

それどころか、彼女は少しだけ彼の手に寄りかかる。


彬が周りを見渡し、人目がないことを確認したその刹那——

二人の姿がフッとかき消えたかと思った瞬間、遠く離れた自宅の庭先に降り立つ。

玄関の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

外のざわつきが、ぱたりと途切れる。

その瞬間だった。

真唯佳の肩が、ふっと落ちる。


「……っ」

次の瞬間、彬の胸元にしがみつき、その押される勢いで彼は壁にもたれる。

「……こわかった……っ」

声が震える。

それを押し殺そうとして、余計に崩れる。

「ほんとに……っ、こわくて……」


もう言葉にならない。

そのまま、堰を切ったように彼女は泣き出した。

彬は一瞬だけ戸惑い、それから静かに腕を回す。


強く抱きしめるわけでもなく、離すわけでもなく。

ただ、そこにいる。

背中に触れる手が、一定のリズムで上下する。


「……もう、大丈夫だよ」

低く、落ち着いた声。

それだけでいい。

真唯佳は顔を埋めたまま、ワンワンと泣き続けた。


廊下の奥で、気配が動く。

叉夜(さや)が様子を見に来て、彬と視線が合う。

——ほんの一瞬の目配せ。

叉夜は何も言わず静かに引き、廊下に再び静けさが戻る。


どれくらい経ったのか。

泣き声が、少しずつ収まっていく。


「……ごめん」

鼻をすすりながら、真唯佳が小さく言う。

「……泣きすぎた」

「いいよ」

彬は短く答える。

それ以上は言わない。

真唯佳は少しだけ離れ、目元を拭いた。

まだ赤い。

けれど、落ち着きを取り戻していた。


少しだけ間を置いて、口を開く。

「……私ね」

言葉を選ぶように、ゆっくりと。

「なんか……変だったの」

彬は黙って聞く。


「みんなが……」

言い淀む。

「恋人なら、こういうことするでしょ、って」

「デートとか、キスとか……それ以上とか」

言葉にするのが少し恥ずかしくて、視線が逸れる。

「それで……」


「彬にキスされたときも、びっくりしたけど……」

小さく息を吸う。

「ああいうの、しなきゃいけないのかな、って思って」

彬の目がわずかに細くなる。

「それが、なんか……どうすればいいか、わからなくなっちゃって——」

ぽつり、と落ちる本音。

「だから、顔を合わせないようにしてた」

静かな告白だった。


彬はしばらく何も言わなかった。

言葉を選んでいるようにも見えたし、ただ受け止めているだけにも見えた。


やがて、ゆっくりと口を開く。

「……そのままでいいよ」

短い一言。


真唯佳が顔を上げる。

「無理に変わらなくていい。周りに合わせる必要はないよ」

視線はまっすぐだ。

「君がどう感じるか、それで決めればいいから」

押し付けでも、誘導でもなかった。


真唯佳はしばらくそれを見つめていた。

そして、小さく息を吐く。

「……うん」

それだけで、少し軽くなった気がした。

さっきまでの緊張がほどけていく。


真唯佳はそっと彬から離れる。

「なんか……疲れた」

「そうだね」

彼はそれに同調する。


しばらく、何も言わない時間。

やがて、彬がぽつりと呟く。

「……それでも」


真唯佳がちらりと見る。

「正式に結婚するまでは、一線は越えない」

言い切る。

そこは変わらない。

そして、少しだけ視線を逸らして続ける。

「だけど……キスくらいは、許してほしい」

小さな声だった。


真唯佳は一瞬、固まる。

「え」

顔がまた少し赤くなる。

「……それは、ちょっと……恥ずかしい」

正直な反応。


彬は軽く息を吐く。

「人前で、仲のよさを見せつけるつもりはない」

淡々と説明するように言う。

「だけど、まったく何もないのは……」

一瞬、言葉を探す。

「……少し、寂しい」

その一言は、どこか不器用だった。


真唯佳は何も言えず、視線を落とす。

(寂しい……)

その言葉が、胸に残る。


答えはすぐには出ない。

けれど、さっきまでの“義務”とは違う感覚があった。

「……考えてみる」

小さく、そう返す。

はっきりとは言わないけど、拒絶もしない。


彬はそれ以上踏み込まなかった。

「ありがとう」

短く答える。


「……もう遅いから、寝る支度をしないと」

真唯佳はそう言って、廊下を進んで行き、リビングの方へ消えていった。

玄関は、いつもの静けさに戻っていくはずだった。


——はず、だった。


「……」

ふと、耳に触れるものがあった。

風でも、耳鳴りでもない。

もっと近く、もっと曖昧な——“囁き”。

彬は辺りを見渡す。

気のせいかと思い、もう一度廊下の方へ向く。

だが、同じものが確かにあった。


「……誰だ」

思わず声に出る。

返事はない。

ただ、意識の奥に触れるような感覚だけが残る。


彬は、ゆっくりと玄関の大きな鏡の方を振り向く。

本来なら、何もないはずの空間——

だが。


「……?」

そこに写っていたのは、自分よりも小さな影。

3、4歳ほどの男の子。


彬は目を細め問いかける。

「……君は最近、何度か僕を見ていたね」


よく見れば、その顔立ちはどこか自分に似ていた。

だが、決定的に違う。

髪は、夜よりも深く黒く。

肌は、透けるほどに白い。

そしてその存在は、どこか“現実に馴染んでいない”。


少年は、ゆっくりと口を開いた。

「——夜の帳(とばり)よりも、いと黒き光」

静かな声だった。

響くというより、直接思考に落ちてくる。

彬の眉がわずかに寄る。


「黒……光?」

理解しようとする、言葉の意味を。

——だが、それより先に。

少年が続けた。

「ボクはすでに、存在する者——」

一歩、こちらに近づくように見えた。

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