葛藤 9
真唯佳の部屋
定期考査前の週末の夜。
数学の解き方ではなく、考え方を彬は教えていた。
真唯佳は最初こそ戸惑っていたが、次第に手が止まらなくなる。
「あ……そっか」
「いいよ、続けて」
「これ、こうなるから……」
さっきまで引っかかっていた問題が、するりとほどける。
「できた……!」
思わず顔を上げる。
彬は軽く頷く。
「もう一問やってみたら」
今度は一人で解く。
ペンが迷わない。
途中で止まらない。
「……できた」
確認する。
「合ってるよ」
もう一問。
また一問。
気づけば、テスト範囲の問題が一通り終わっていた。
「全部……合ってる」
彬はノートを見つめたまま、呟く。
それを聞いた真唯佳は、ぱっと顔を上げる。
「彬、できた!」
子供みたいな声だった。
無邪気な達成感。
さっきまでの不安が嘘みたいに消えている。
彬はそれを見て、ほんの一瞬だけ息を止めた。
(……たまにこういう顔をするんだよね)
守る対象として見ていたはずの少女が、急に“近い存在”になる。
距離が、曖昧になる。
真唯佳が身を乗り出す。
「全部できた」
一つのノートでお互いにペンで書き込んでいたため、距離が近い。
近すぎる。
次の瞬間、彬は無意識に、そのまま真唯佳の頬に手を伸ばしていた。
ほんの一瞬の躊躇。
(これくらいは——)
そのまま、軽く唇を重ねる。
一拍。
静止。
「——え?」
真唯佳の目が大きく見開かれる。
次の瞬間。
「な、なに……!?」
反射的に彬を突き飛ばした。
椅子が軋む音。
距離が一気に開く。
「ちょっと、今の……!」
言葉が続かない。
顔が一気に熱を持つ。
「わ、私は……!」
視線が泳ぐ。
どうしていいか分からない。
「と、ともかくありがと!……お風呂、入らなきゃっ」
それだけ言い捨てて、真唯佳は勢いよく部屋を飛び出した。
ドアが閉まる音。
静寂。
彬はその場に座ったまま、しばらく動かなかった。
(……まずかったか)
いや。
考える。
婚約者。
長年の関係性。
ここまでの距離。
(キスくらいは、許してくれると思ったのに)
理屈は通る。
だが結果は違う。
——その時。
誰かに呼ばれた気がして、窓の方に歩み寄る。
すっかり日が落ちて、見えるのは真っ暗な自宅の庭園と、その奥に街灯が灯る街の風景と、少し靄がかかった上弦の月。
それだけだった。
気のせいか。
主人のいない女性の寝室にいつまでもいるわけにいかず、彬は小さくため息をついて、部屋を出る。
リビング。
叉夜がテーブルを整えていた。
「お疲れ様でした……と申し上げるべきでしょうか」
彬を見かけ、穏やかな声をかける。
だが視線は鋭い。
「先ほど真唯佳様が、顔を真っ赤にして浴室へ向かわれましたが……何かありましたか」
彬は一瞬だけ黙る。
そして、憮然としたまま答える。
「キスをしたら、跳ね除けられた」
——間。
叉夜はわずかに目を細める。
驚きはしない。
ただ状況を整理する。
「……そうですか」
短く頷く。
そして続ける。
「真唯佳様は、婚約者としてのお立場は理解されているかと思います」
淡々とした分析。
「ですが、お気持ちが追いついていないご様子に見受けられます」
彬は眉を寄せる。
「追いついていない?」
「はい」
叉夜は少しだけ視線を落とす。
「以前の関係と、あまり変わっていないように見えましたので」
否定できない。
彬は何も言わない。
「急に“異性”としての接触をされますと、戸惑われるのも無理はありません」
静かな説明。
責めるでもなく、庇うでもなく。
ただ事実だけを置く。
彬はソファに腰を下ろし、前髪をかきあげながら深く息を吐いた。
(……段階を誤ったか)
距離は近かった。
対外的な関係は一歩進展していた。
でも相手は、真唯佳だ。
思い通りに進むものではない。
叉夜がそっとハーブティを置く。
「お時間をかけるのがよろしいのではないかと」
彬はカップを手に取り、何も答えない。
湯気がゆらりと揺れる。
その向こうで、自分が“戦術”で処理できない領域に踏み込んだことだけは、はっきりと理解していた。
ーーーーーーーーーー
キスの夜を境に、家の時間はゆっくりと崩れていった。
朝。
以前よりもずっと早く、真唯佳は家を出る。
「朝練あるから」
それだけ言って、まだ静かな玄関を抜けていく。
本当に朝練がある日もある。
ない日もある。
彬は何も言わない。
ただ、テーブルに残った彼女のカップの温度が冷めていくのを、見ているだけだった。
夜も同じだった。
彬の実習は本格的に始まり、帰宅は遅くなる。
さらにサークルの付き合いに、コンパの誘い。
帰れば、真唯佳の部屋の灯りはもう消えている。
週末も、重ならない。
「部活があるから」
「友人とレポート作成がある」
それぞれが、それぞれの理由で外に出る。
同じ屋根の下にいながら、顔を合わせない日が続いていた。
ーーーーーーーーーー
夏休み
空気が一気に緩む季節。
真唯佳はダンス部の大会を終え、打ち上げに参加していた。
パーティールーム。
音楽と笑い声、飲み物のグラス。
「真唯佳、お疲れ!」
「今回めっちゃ良かったよ!」
「ターン綺麗すぎ!」
褒められて、少し照れる。
「ありがとう」
自然に笑えるようになっていた。
けれど、その流れはすぐに別の方向へ向かう。
「そういえばさ」
誰かがニヤっとする。
「彼氏と夏休みどうすんの?」
「旅行とか行くの?」
「花火とか絶対行くでしょ!」
一斉に視線が集まる。
真唯佳は一瞬だけ言葉に詰まり、それから正直に答えた。
「……何も、ないよ」
「え?」
「最近……あんまり会ってなくて」
空気が少しだけ変わる。
「喧嘩中?」
「そんな感じ……かな」
曖昧な言い方。
けれど十分だった。
「じゃあさ」
男子の一人が軽く言う。
「暇なら映画行こうよ」
自然な流れ。
軽い誘い。
真唯佳は迷わなかった。
「うん、いいよ」
あっさりと答える。
その返事に、周囲が少しざわつく。
「え、いいの?」
「彼氏いるんじゃなかったの?」
「……大丈夫」
自分でも理由はよく分からない。
ただ、断る理由もなかった。
打ち上げが終わる。
けれどそのまま解散にはならない。
夏の夜の、開放的な空気。
建物の前で、なんとなく立ち話が続く。
笑って、話して、時間が過ぎる。
気づけば、少し遅い時間になっていた。
「じゃあまたね!」
一人、また一人と帰っていく。
真唯佳も駅とは逆方向に歩き出す。
夜風が少しだけ涼しい。
ーーーーーーーーーー
その頃、彬は別の場所にいた。
大学の飲み会の賑やかな席。
グラスの音と笑い声。
「——彬君ってさ」
隣に座った女子が距離を詰める。
「ほんと硬いよね」
「彼女いるんだっけ?」
別の声。
「高校生でしょ?」
「それってさ、ちょっと物足りなくない?」
笑いながら、彬の肩に触れる。
「もっとさ、同年代の方が楽しいよ」
「ね、今夜このまま——」
隣の女子が言い切る前だった。
——怖い。
微かな声。
——助けて。
はっきりとした感覚。
彬の体が硬直する。
(……真唯佳?)
考えるより先に、彬は咄嗟にポケットのスマートフォンを探る。
通知は何もないが、胸騒ぎがする。
「すまない、そろそろ帰るよ」
彼の淡々とした声。
「えー、もう?」
「つまんないの」
「もうちょっといようよ」
引き止める声を、振り切るように立ち上がる。
外に出る。
夜の空気が、一気に静かになる。
彬の頭の奥に、何かが触れる。
方向が分かる。
まるで導かれるように、足が向く。
路地を抜け、通りを渡る。
人通りの少ない場所へ。




