葛藤 8
青の世界 日本
彬は、大学の知人の別荘に、真唯佳を連れて訪れた。
時間が進み、バーベキューの香ばしく肉の焼ける匂い、煙、笑い声で場はすっかり和んでいた。
真唯佳は男子数人に声をかけられる。
気さくな笑顔だが“興味”の色が強い。
思わず彬の彼女ではないと答えた瞬間、空気が少し変わる。
「じゃあフリー?」
「え、マジで?」
「それなら俺と——」
一歩、距離が詰まる。
逃げ場が、少しだけ狭くなる。
「そこまでにしてください」
低い声が割り込んだ。
いつの間にか、彬が隣に立っている。
視線は静かだが、明確に遮っていた。
「年下だから、からかうのも程々で」
「え、別にからかってないって」
「普通に話してただけじゃん」
軽く返す男子たち。
だが、彬は動かない。
その場に“壁”ができたような空気。
「……焼きそばができたよ!」
遠くで聞こえる声に彬は振り返りながら、真唯佳の肩に軽く手を置く。
強くもなく、弱くもない。
ただ、“ここまで”という線引き。
真唯佳は何も言わず、頷いた。
少し離れた場所で、再び火を見つめる。
さっきまでの喧騒が、少し遠く感じる。
その時だった。
誰かの視線を感じ、彬は思わず林の奥を凝視するも、そこには誰もいない。
「……ごめん」
不意に、隣にいた真唯佳が口を開く。
「何が?」
「なんか……変な感じになって」
彬は首を振る。
「気にしなくていいから」
短い言葉。
それ以上、触れない。
帰りの車の中。
山道を下りながら、静かな時間が流れる。
真唯佳は窓の外を見たまま、小さく呟く。
「……やっぱり、変だよね」
「変?」
「私が彬の隣にいるの」
その言葉に、彬の表情が一瞬だけ強張る。
「みんな、そういう目で見てた」
「……そうかな」
肯定しない。
真唯佳は続ける。
「でも、なんか……」
言葉を探す。
「違う気がする」
親戚の兄のような距離。
でも周りは“特別な存在”として見る。
そのズレが、じわじわと広がっていく。
「私、あの中にいるとちょっと浮いてる気がする」
正直な感想だった。
彬は何も言わない。
ただ、ハンドルを握る手に少しだけ力が入る。
「……大学生とはちょっと雰囲気違うから」
やがて、そう言った。
「君は、君のままでいい」
それは本心だった。
けれど同時に、年齢差を否定しない言葉でもあった。
真唯佳は小さく頷く。
「……うん」
車は夜の道を進む。
その中で、ほんの少しだけ、二人の間にある“関係”が揺れ始めていた。
――――――――――
翠陵学園 高等部
文化祭当日。
教室は朝からざわついていた。
模造紙、飾りつけ、テープの匂い。
クラスの誰もが少し浮き足立っている。
真唯佳も手伝いながら、少しずつこの空気に馴染んでいた。
「真唯佳、こっち押さえててー!」
「うん」
脚立を支えながら、クラスメイトの作業を見上げる。
こういう時間は嫌いじゃない。むしろ、少し楽しいと思い始めていた。
そのとき。
「……真唯佳さん」
不意に、背後から呼ばれる。
振り向く。
「え—!」
そこに立っていたのは、彬と叉夜だった。
私服の彬は、高等部の校舎で見ると大人びて見える。
隣の叉夜は、いつも通り穏やかに微笑んでいた。
一瞬、時間が止まる。
そして次の瞬間、周囲の視線が一斉に集まる。
「え、誰?知り合い?」
クラスの男子が真唯佳に質問をする。
「めっちゃ背高くない?」
「ていうかイケメンじゃない?」
ざわ、とそばにいた女子たちの空気が動く。
「えっと……」
「他校生?」
そう言いながら、別の男子が親しげに真唯佳に歩み寄る。
それを見た彬が、真唯佳が言葉を探すより先に一歩前に出た。
「笹薙です」
簡潔な自己紹介。
そして紳士的な微笑みを浮かべ、何の迷いもなく続ける。
「真唯佳ちゃんと付き合ってます」
「えっ」
真唯佳の声が、ほんの少しだけ遅れて出た。
「彼女は叉夜。保護者です」
叉夜は軽く会釈する。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、教室が爆発した。
「ええええ!?」
「彼氏!?!?」
「マジで!?」
一気に熱が上がる。
真唯佳の顔が、じわじわと熱くなる。
(な、なんで今それ言うの……!?)
否定もできない。
訂正もできない。
頭が追いつかない。
「笹薙さんって言うんだ〜!」
女子たちが一斉に詰め寄る。
視線、質問、笑い声。
逃げ場がない。
真唯佳は一歩前に出て、彬の袖を軽く引いた。
「……ちょっと、来て」
小声で言う。
そして無理やり彬たちの方向を変える。
「他でも見てきて。せっかく来たんだから」
半ば押し出すようにして、隣の教室へ。
「あとで……合流するから」
言い切って、真唯佳は背を向ける。
そのまま教室の中へ逃げ込む。
扉を閉めた瞬間。
「ねえ八重神さん!」
一斉に囲まれる。
「ちょっと何あれ!!」
「彼氏ってどういうこと!?」
「ていうかあの人絶対年上でしょ!?」
質問が飛び交う。
逃げられない。
「えっと……その……」
とりあえず答えられる範囲で答える。
「付属の大学生で……」
「学部は?法学とか?」
「いや、理系だから」
「まさかの医学部だ!?!?」
「やば!」
「それモテるやつじゃん!!」
さらに盛り上がる。
「で、どこまでいってるの?」
「え?」
「デートとか!キスとか!」
「それ以上とかあるの!?」
一気に踏み込まれる。
真唯佳は、言葉を失った。
デート。
キス。
それ以上。
頭の中で、何も該当しない。
思い浮かぶのは——
朝、一緒に電車に乗る
週末、同じ部屋で過ごす
外出といえば、叉夜に頼まれた買い出しに二人で行く。
デートらしいことといえば、先日のバーベキューに参加するためのドライブだけ。
「……何も」
ぽつりと答えてしまう。
「え?」
「何もって?」
「……してない」
一瞬の沈黙。
「えええ!?!?」
再び爆発。
「嘘でしょ!?」
「それで付き合ってるの!?」
「逆に何なの??」
笑いと驚きが入り混じる。
真唯佳はただ、立ち尽くす。
(……普通じゃないんだ)
先日のバーベキューのことがよぎる。
“どうやって取り入ったの?”
“彼女なの?”
あの視線。
そして今の質問。
世間の“恋人”は、自分が思っているものとは違う。
(……じゃあ、私は)
彬と、何をしているの?
何をしていないといけないの?
胸の奥に、小さなざわつきが広がる。
初めての疑問だった。
静かに、確実に、何かが変わり始めていた。
――――――――――
六月の湿った空気が、窓の外にまとわりついていた。
定期考査前の週末の夜。
2階の真唯佳の部屋の机には、開きっぱなしの問題集とノートが広がっている。
「……ここが、どうしても分からない」
ペン先で数式をなぞりながら、真唯佳が少しだけ不機嫌そうに言う。
他の教科はなんとかなっていた。
暗記も、読解も、要領はいい。
けれど数学だけは違う。
一年分の積み上げが抜けている。
土台がないまま二年の内容に乗っているような感覚。
「その式の意味を、順に分解してみたら」
隣に座る彬は、静かに言った。
夕食後の、いつものラフな雰囲気。
だが目線は、国王の側近として戦略を立てる時と同じように冷静だ。
「まず、この項。これは何を表してる?」
「……条件?」
「そう。じゃあ次は」
一つずつ、崩していく。
解き方ではなく、考え方。
真唯佳は最初こそ戸惑っていたが、次第に手が止まらなくなる。
「あ……そっか」
「いいよ、続けて」
「これ、こうなるから……」
さっきまで引っかかっていた問題が、するりとほどける。
「できた……!」
思わず顔を上げる。
彬は軽く頷く。
「もう一問やってみたら」
今度は一人で解き始めた。




