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葛藤 7

青の世界 日本


二人の平日の朝は、だいたい同じ時間に始まり、多少の会話があるだけで、同じ生活の中にいる実感はあった。

だが平日の夜は、すれ違う。

真唯佳(まゆか)が帰る頃には、彬はまだ講義かサークル。

彼が戻る頃には、真唯佳は部屋で宿題をして、そのまま顔を合わせないこともある。


週末。

空気が少しだけ緩む。

朝食の時間は少し遅くなり、支度をする叉夜(さや)もどこか穏やかだ。


食後に真唯佳はリビングのソファで雑誌をめくり、彬は向かいのテーブルでノートパソコンを広げる。

キーボードを打つ音。

それはレポートだった。

ニーベル国へ送る、戦略の整理。

政治の動きの分析。

仮想状況に対する対応案。

静かな顔で書いているが、その中身は鋭い。


「……難しそう」

真唯佳が紙面から顔を上げる。

「国にいなくても、情報があれば仕事ができるから」

「仕事っていうか……勉強?」

「似たようなものかもね」

それ以上は説明しない。

真唯佳も深く聞かない。

分からないものは、無理に踏み込まない。

その距離が、今の二人にはちょうどよかった。


その時だった。

「……?」

誰かに何かを話しかけられて気がして、彬が振り返る。

リビングには真唯佳と自分しかいない。

「今、何か言った?」

確認するも、「何も言ってないけど……ねえ、この前、部活でね……」

真唯佳がふと、思い出したように言う。

誰が転んだとか、フォーメーションがずれたとか、他愛のない話。

楽しそうに話し始める。

彬はそれを聞きながら、時々相槌を打つ。

「そうか」

(気のせいか)

そう思いながら、彬はキーボードを打つ手を止めて耳を傾けた。



――――――――――



夕方。

真唯佳は屋敷の窓辺に立って、外を眺める。

静かな住宅街。

遠くで子供の声が弾む。

夕方の光が、家々の影を長く伸ばしていた。


ふと、真唯佳が呟く。

「なんかさ」

彬が顔を上げる。

「こういうの、ちょっと変な感じ」

「何が?」

「今は婚約者になったけど……やっぱり前みたいに親戚のお兄さんと住んでるみたい」


悪気のない言葉だった。

ただの感想。

ただの距離感の表現。

彬は一瞬だけ手を止める。

ほんのわずかに、呼吸が浅くなる。

「……そうかな」

それだけ答える。

否定も肯定もしない。


風翁のクーデター後に国に戻ったことを、ふと思い出す。

お互い親が決めた婚約。

自分にも、マディラにも、それぞれに用意されていた相手。

異論を挟む余地はなかったはずだった。

だけど——


マディラの力。

“扉番(ゲートキーパー)”としての役割——人間界に留めるための条件。

そして、その監視役。

「……姫の婚約者として同行します」

そう提案したのは、自分だった。

本来なら、別の未来があった。


別の婚約者。

別の役割。

別の人生。


マディラに、国王への進言内容を伝えたとき。

「よく知らないリヒトとの政略結婚より、知ってる人の方が気が楽かも」

あまりにもあっさりと、そう返ってきた。

その言葉に、どんな意味もなかったことは分かっている。

打算でも、恋でもない。

ただの“選びやすさ”。

(……それでも)

ジュリアンは、何も言わなかった。


マディラは気づかない。

その言葉が、ほんの少しだけ何かを刺したことに。

そして——

その選択が、どれほど重い意味を持っているのかも。


かつて人間界で過ごしたように、ただ穏やかな日常を重ねる。

その先に、何かがあるなら——

その時に考えればいい。



――――――――――



五月の風は少し乾いていて、山へ向かう道はどこか軽やかだった。

この春免許をとった彬が運転する車は、住宅街を抜け、やがて緑の濃い坂道へ入っていく。


「こんなところまで来るんだね」

助手席で真唯佳が窓の外を眺める。

「別荘らしいから。連休中とはいえ、人気は少ない」

それだけ言って、彬は前を見たままハンドルを切る。


やがて見えてきたのは、木造のロッジと広い庭。

すでに何台か車が停まっていて、笑い声が風に乗っている。


「彬くん!遅いって!」

手を振ってくるのは、同じサークルの先輩たち。


「すみません」

短く返しながら車を降りる。

その隣で、真唯佳も少しだけ緊張した様子で立った。

視線が集まる。


「え、その子が例の?」

「高校の子だよね?」

「同じ系列校って聞いたけど」

ざわ、とした空気。

付属高校に通う親戚の子と一緒に参加するとあらかじめ告げていた。

すぐに、女子たちが柔らかく寄ってくる。


「こんにちは!高等部だってね」

「若いね〜!」

「こっち来て、日焼け止め塗った?」

気づけば、自然に輪の中に入っていた。


「高等部ってさ、あの先生まだいる?」

「文化祭ってもうすぐよね?」

先輩らしい質問と、気遣い。


真唯佳も少しずつ答える。

「えっと……はい、います」

「文化祭はもうすぐで……」

最初の硬さが、少しずつ解けていく。

その様子を、少し離れたところで彬は見ていた。

特に口出しはしないものの、必要な距離を保ったまま、場を把握している。


一方で、別の輪もできていた。

「で、あの子って何?」

「笹薙(ささなぎ)君の親戚って言ってたよね?」

「でも一緒に住んでるって聞いたけど」

医学部の女子たちが、軽い調子で彬に近づく。

「ねえ、あの子さ」

「ていうか、彬君が連れてくる時点で怪しくない?」


彬は紙コップを手にしたまま、淡々と答える。

「親戚ですよ」

「それだけ?」

「歳が近いから、よく一緒にいます」

曖昧でもなく、具体的でもない返答。

嘘ではない。

彼女は従兄弟の腹違いの妹。

婚約者と大袈裟に紹介して欲しくないから、と真唯佳に頼まれて、別の説明をした。

それが逆に、興味を引く。


「ふーん……」

女子たちは目配せする。

(絶対何かある)

そういう空気だけが残る。


時間が進み、火が強くなる。

香ばしく肉の焼ける匂い、煙、笑い声。

場はすっかり和んでいた。

その頃になると、別の動きが出てくる。


「ねえ」

真唯佳はふいに声をかけられる。

振り向くと、医学部の男子が立っていた。

「高等部なんだって?」

「あ、はい」

「へえ、すごいね。人気校だからこの地域の学校でも結構レベル高いでしょ」

気さくな笑顔。


さらにもう一人、二人と増える。

「どうやって笹薙と知り合ったの?」

「高校生でこういうとこ来るの、珍しくない?」

「なんか守られてる感じするよね」

悪意はない。

けれど“興味”の色が強い。

距離が少しずつ近づく。


「彬ってさ、結構人気あるじゃん」

「うんうん、医学部の中でも結構レアだし」

「どうやって取り入ったの?」

軽い調子のまま、核心に触れてくる。


真唯佳は一瞬、言葉に詰まる。

祖国の話はできない。

任務の話もできない。

「……昔からの知り合いだったので」

それしか言えない。

けれど、納得されない。


「親戚であそこまで一緒にいる?」

「むしろ彼女じゃないの?」

笑いながら言う。

その軽さが、逆に重くのしかかる。

「……彼女ではないです」

思わずそう答えてしまう。


その瞬間、空気が少し変わる。

「じゃあフリー?」

「え、マジで?」

「それなら俺と——」

一歩、距離が詰まる。

逃げ場が、少しだけ狭くなる。


「そこまでにしてください」

低い声が割り込んだ。

いつの間にか、彬が隣に立っている。

視線は静かだが、明確に遮っていた。

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