葛藤 6
ある春の日の朝
翠陵学園の高等部に通うことになった、真唯佳はぽつりと呟いた。
「ちょっと、不安」
かつて彬は、真唯佳に合わせるため魔法で若返り、実年齢の四つも下で押し通していたが、「中高生」に混じるには限界はあった。
(……あれをもう一度やるのは、勘弁だな)
小さく、ほとんど聞こえない声で呟く。
「……今回は、ちゃんとした年齢でいられるし」
「え?」
真唯佳が顔を上げる。
「何か言った?」
「いや、何でもない」
彬は何事もなかったように視線を逸らす。
「でも、よかった」
ふと、真唯佳が言う。
「学校に戻れて」
「戻れて?」
「うん。前は急に国に帰っちゃったから」
少しだけ考えてから、続ける。
「同じくらいの年の子と、普通に学校に通うのって……やっぱりいいなって。ちゃんと卒業したい」
その言葉に、彬はわずかに口を閉じた。
(……“同じくらい”か)
否定はしない。
「早く終わるといいけど」
ぼそりと、今度ははっきり口にする。
「え?」
「高校」
真唯佳が首を傾げる。
「え、なんで? まだ始まったばっかりだよ?」
「……いや」
少しだけ間を置く。
「その方が、早く公の仲になれるから」
曖昧に濁す。
(結婚できる)
そこまでは、言わない。
「でも私は、もうちょっとゆっくりでもいいかな」
真唯佳はあっさりと言う。
「せっかく普通に通えるんだし」
「……そうか」
「うん」
にこりと笑う。
悪気はない。
何も気づいていない。
彬はそれ以上何も言わなかったが、静かに息を吐きながら、立ち上がった。
真唯佳たちの屋敷から最寄り駅までの道は、まだ少し肌寒い。
住宅街の角を曲がるたびに、見知らぬ景色が広がる。
けれど隣を歩く足音が一定だから、不思議と落ち着いた。
ホームに立つ。
通勤の人波に紛れながら、電車を待つ。
「中学より高校は始業時間が早いけど、この時間でも人は多いのね」
「朝の時間帯はずっとこんなものだよ」
彬は周囲を一瞥する。
視線は自然だが、どこか全体を把握しているようだった。
電車が滑り込む。
押し流されるように乗り込み、つり革に手を伸ばす。
ふと、軽く手首を引かれた。
「こっち」
彬に声をかけられて、真唯佳は人の少ない位置へ誘導される。
一瞬の動作。
それだけなのに、妙に意識してしまう。
(……今の、必要だったの?)
そう思いながらも、何も言わない。
彬はもう視線を外に向けていた。
高等部の校舎は、中等部の最寄駅の次にあった。
「じゃあ」
電車の扉付近で、真唯佳が立ち止まる。
「恥ずかしから、ここからは一人でいい」
ちょっと戸惑った言い方。
彬は少しだけ口を開きかけて、やめた。
「……わかった」
電車を降りて真唯佳が振り返ると、社内の彬はもうスマートフォンの画面に目を移していた。
(ほんとに、“婚約者”なのかな)
そんな考えが、ふと彼女の頭をよぎる。
――――――――――
教室の扉を開ける。
一瞬、視線が集まる。
知らない顔ばかり。
ざわ、と空気が揺れる。
(……やっぱり、ちょっと怖いかも)
席に向かおうとしたそのとき。
「あ、転校生?」
明るい声が飛んできた。
振り返ると、真唯佳と同じくらいの背丈の女子が笑っている。
「今日からだよね?どこから来たの?」
「えっと……」
言葉を選ぶ。
用意された設定を、頭の中でなぞる。
「以前もここに通っていたのだけど、家族の都合で数年だけ離れて、またこっちに」
少しだけ話をずらして回答をする。
「そっかそっか!ねえ、出席番号何番?席ここじゃないかな?」
気づけば、周りに数人集まっていた。
質問は次々に飛んでくる。
好きな教科は?
前の学校はどんな感じ?
部活はやるの?
戸惑いながらも、答えていく。
すると、誰かが笑った。
「なんか落ち着いてるよね」
「わかる。大人っぽい」
「でもちょっと天然っぽくない?」
くすくすと笑いが広がる。
悪意はない。
ただの、興味と好意。
真唯佳は少しだけ目を瞬かせて、それから小さく笑った。
「……そうかも」
その瞬間、空気がふっと柔らかくなる。
「ね、あとで一緒にお昼食べよ!」
「購買案内するよ!」
「駅前にいいカフェあるんだ〜」
声が重なっていく。
(……あれ)
気づく。
さっきまであった不安が、少しだけ薄れている。
完全ではないけれど、一人じゃないかもしれない、と思えた。
放課後。
校門を出ると、見慣れた背中があった。
彬は壁にもたれ、静かに立っている。
目が合うと、ほんのわずかに頷く。
「……来たの?」
「初日くらいは……どうだった」
それだけ。
真唯佳は少し考えてから答える。
「思ったより、大丈夫だった」
「そうか」
短い返事。
けれど、ほんのわずかに肩の力が抜けたのが分かった。
二人で駅へ向かう。
朝より少しだけ、距離が近い気がした。
真唯佳は前を見たまま、ぽつりと言う。
「明日も、一緒に行くの?」
彬は一拍置いて答える。
「必要なら」
「じゃあ、朝だけ」
即答だった。
彬はそれ以上何も言わなかったが、歩幅を少しだけ合わせた。
夕暮れの光が、長く影を伸ばしていた。
――――――――――
朝は、だいたい同じ時間に始まる。
キッチンには、世話役の叉夜の手際のいい音。
焼けるパンの香りと、湯気の立つスープ。
真唯佳はまだ少し眠そうな顔で席につき、彬はすでに身支度を整えている。
「今日は部活、あるの?」
彬がカップを手にしたまま尋ねる。
「うん。放課後すぐ練習だって」
「帰りは遅くなる?」
「多分。彬は?」
「今日はサークルの顔合わせがある」
短いやり取り。
それ以上は深く踏み込まない。
けれど、その会話があるだけで、同じ生活の中にいる実感はあった。
真唯佳が入ったのは、ダンス部だった。
最初は軽い誘いだった。
「ね、体動かすの好きでしょ?」
「一回見学来てみなよ!」
体育館の隅で流れる音楽。
鏡張りの壁。
男女混合で、明るく、少し雑多な雰囲気。
ジャズの基礎から、流行りのK-POPまで。
フォーメーションを変えながら、全員で動く。
「真唯佳、ターン綺麗すぎない!?」
「え、そう?」
「絶対経験者でしょ!」
真唯佳は首を傾げる。
「ダンスっていうか……似たようなことは昔ちょっと」
舞踏。礼法。
そういう言葉は出さない。
けれど身体は覚えている。
ステップも、軸の取り方も、音の取り方も。
気づけば、輪の中心に引き込まれていた。
「次の文化祭、絶対前列ね!」
笑いながら肩を叩かれる。
その距離感に、もう戸惑いはなかった。
一方の彬は、サークル棟の一角にいた。
選んだのは「軽音サークル兼紅茶愛好会」という、よく分からない名前の集まりだった。
昼は茶葉のレビューや紅茶の淹れ方を語りながら茶菓子を食べ、夜は誰かがギターを鳴らす。
男女比はほぼ半々。
空気はゆるく、誰も他人に踏み込まない。
「マサが連れてきた新入り?あいつと同じ医学部ってマジ?」
「忙しいのに来るとか偉いじゃん」
「まあ……学校のこと、いろいろ教えてもらえるって聞いたんで」
適当に流しながら、彬は周囲を見る。
人の流れ。視線。位置関係を無意識に読む癖は抜けない。
けれどここでは、それを表に出さない。
「紅茶飲む?」
差し出されたカップを受け取る。
「……美味しいですね」
「でしょ?最近海外に行って、有名ブランド本店で買ってきたから」
そんな他愛ない会話。
戦略も、任務も関係ない。
ただの時間。
それを壊さないように、彬は静かに溶け込んでいた。
平日の夜は、すれ違う。
真唯佳が帰る頃には、彬はまだ講義かサークル。
彼が戻る頃には、真唯佳は部屋で宿題をしている。
食卓につき、叉夜が用意した夕食を温め直す間じっと待っている。
彬は短く息を吐く。
(……こういうものか)
寂しさとも違う、少しだけ空いた時間。
けれど、それを埋めに行かない。
それが今の距離だった。




