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葛藤 5

ヴィンランド家 浴室


自宅に戻り、ぼーっとシャワーを浴びて監獄でついた悪臭を洗い流しながら、ジュリアンはいろんなやりとりを思い出した。


蒼に、洋館に来るように呼び出されてからこっち、ずっと慌ただしくて、すっかり忘れていたが——。

監獄にて調書を確認した時、ジュリアンは思い出したことがあった。


最後に残った一つの疑問。

蒼のところに行った時点で、後天的な人格である"真唯佳"は、なぜ封じ込められていたはずの"マディラ姫"の人格の存在を知っていたのか。


「私(わたくし)のことは大丈夫ですから、幸せになってくださいね」

彼女のその言葉を思い出し、彼はハッと気づく。

あの時点で、姫の口調だったという事は……

一度目覚めていた?

いつ??


ひょっとして蒼に拐われる直前、一度目覚めて、真唯佳がいるから姫が「黒い欲望」と共に眠りに専念できることが、すでに可能だったのではないか——。

その証拠に、ゾフィロスと戦った時、「見えないふりをしていた」とも言っていた。

間違いない。

彼女は、自分でもう一度能力を封じ込めていたのだ。


蒼に誘拐される数日前、真唯佳は、「彬から離れないといけない」と言っていた。

一度目覚めていたのなら、いつまでも彬の地位が翁子のままではいられないのを理解していても、不思議ではない。

自分が婚約をしたのも知ってしまったので、きっと、騎士(ナイト)の役割で縛り続けることはできないと考え始めていたのでは——。


逆に言えば、国王が望む通り自発的に人間界でおとなしくしている、そんな選択肢があったというのか。

——ゾフィロスが強引な事をしなければ。

彼女の本来の人格と話した時、「こうなってしまった以上、触れ合ってはいけない」とも言っていた。


もしも彼女が一度目覚めていたのが、自分の婚約前だったとしたら。

「くそ……っ!」

そう呟きながら、ジュリアンは濡れた手で浴室の壁を叩く。


ありふれた日常をもはや守ることができなくなって、彼女一人の力ではどうしようもなくなってしまった。

なのに自分は、騎士(ナイト)の役目や英知翁という立ち位置ばかり気にして躊躇っていた。

真実を知ろうともせず、彼女が本当にしたい事を一緒に考えることすらしなかった。

どうしてこんなことになってしまったのだろう?


——二つに分かれた道。

もっと早くに彼女の変化に気づいていたら、彼の選択肢は変わっていたのかもしれない。


入浴を終え、外出の予定がなかったので略式の服を身につけ居間に行った。

そこには彼の婚約者がいた。

「こんな早い時間に入浴ですか?」

マルゴーは、自分の胸中を知ってか知らずか、無邪気に質問をしてくる。


「ちょっと汚れてしまったので……何のご用でしょうか」

そういえば、会いたいと言われていたな、とぼんやりと思い出すジュリアン。


「今度の、皇太子様主催のパーティーの衣装合わせに参りましたのよ。」

そう言って、にっこりと満面の笑みを浮かべるマルゴー。


「やっと!皆様に、ジュリアン様の隣に立つ自分を見てもらえるのです。これまで、私(わたくし)がヴィンランド家に嫁ぐなんで信じられないって、散々言われてきたけど、やっとやっと、公に証明することができるのですから!」

そう力強く言いながら、彼女は二人の舞踏会用の衣装が幾つか並べられている一角に、いそいそと歩いていく。


「あぁ、そうですね。とても待たせてしまいまして。」

気のない様子でジュリアンが答える。

だが自分の世界に入っていたマルゴーは、全く気にしていなかった。



――――――――――



ふと、強い風が吹いた。

思わず目をきつく閉じる。


柔らかい布団の感触——

先ほどまで体を包んでいたはずの現実が、ふっと遠のく。


——おかしい。

そう思うよりも先に、目を開けていた。

そこに広がっていたのは、見覚えのある風景だった。


古びた洋館。

広すぎる庭。

手入れの行き届いていない、荒れた土と伸び放題の草木。


「……この手入れは、相当大変じゃない?」

隣で、真唯佳(まゆか)が呟く。


彬は一瞬、言葉を失う。

(……なぜ、ここにいる)


さっきまで、自室で眠りについていたはずだ。

頭から離れなかった、クーデターの顛末。

真唯佳に関する一連の記録。

あの時、もしも——。


思考がそこまで至るよりも早く。

「結界で人目につかないようにして、召喚魔法でコボルトを呼ぶから大丈夫」

口が勝手に動いていた。


「王宮の庭園ほど整ったものは無理だけど、君好みにはできる」

「……コボルト?」

真唯佳が首を傾げる。


「土の精霊獣だよ」

言いながら、彬はわずかに眉を寄せた。

(……違和感がない)

この会話を、知っている。

——いや。

“自分が望んでいたもの”として理解している。

朧げに、状況が繋がっていく。


無理を承知で国王への進言。

真唯佳を「扉番(ゲートキーパー)」に据える案。

人間界にいる限り魔力の行使に制約がかかるので、結果として「別人格」を刺激せずに過ごす。

“覚醒させないための選択”。


そして——自分の「監視役」としての同行。

表向きは、婚約者として。


(……そうか)

彬は小さく息を吐く。

(これは——)

だが、その結論を言葉にすることはなかった。


真唯佳はすでに、庭の方へ意識を向けていた。

「あの木は残したいな。あと、あそこに小道を……」

独り言のように、ぽつぽつと呟いている。

その横顔を見ながら、彬はわずかに目を細めた。


(……平和だな)

報告書の中には存在しなかった選択肢。

“もしも”の中にしかないはずの光景。


そのとき。

「お二人とも、お茶の準備が整いました」

屋敷の方から、叉夜(さや)の声が響く。

あの時と変わらない、落ち着いた声音。


「行こう」

彬は自然にそう言っていた。

真唯佳は軽く頷き、二人は並んで屋敷へと歩き出す。


(……夢、か)

そう思う。

だが不思議と、否定する気にはならなかった。



――――――――――



数週間後


屋敷の窓から見える街は、まだ春の匂いをまとっていた。

朝の光が柔らかく庭を照らし、遠くで電車の音がかすかに響く。


「……まさか、また翠陵(すいりょう)学園に戻るなんて思わなかった。今度は高等部だけど」

制服のリボンを整えながら、真唯佳はぽつりと呟いた。

鏡の中の自分は、少し大人びて見える。

けれど中身は——空白だらけだ。

「ちょっと、不安」


中学の途中で途切れた日常。

封じられた時間。

そして一気に飛び越えた三年分。


「大丈夫だよ」

後ろから声がかかる。

彬は食後のコーヒーを飲みながら、いつも通り落ち着いた表情で声をかけた。


「この春休みで、基礎は全部やった。ついていける」

「……勉強の話じゃなくて」

真唯佳は少しだけ眉を寄せる。


「前は、同じ学年にいてくれたでしょう?」

あの頃は、隣にいた。

同じ校舎、同じ時間。

何かあれば、すぐに頼れた。

でも今は——

「一人で学校って、いつ以来だろう」

正直な気持ちだった。


彬は一瞬だけ視線を落とし、すぐに答える。

「じゃあ、朝は合わせるよ」

「え?」

「大学の授業は遅い。だから毎朝、君の登校時間に合わせるよ」

まるで当たり前のことのように言う。


「でも、それじゃ——」

「大丈夫だよ。僕は早くついても、図書館でも講義室でも居場所はあるから」

言い切る声に迷いはない。

「最初のうちは、環境に慣れる方が優先だから」

その言い方は、どこか任務のようで。

けれど真唯佳は、ほんの少しだけ安心した。

「……ありがとう」


かつて彬は、年齢を誤魔化していた——四つも下に。

魔法で多少は誤魔化せても、限界はあった。

周囲の視線。違和感。

「中高生」に混じるには、少しだけ無理があった。


(……あれをもう一度やるのは、勘弁だな)

小さく、ほとんど聞こえない声で呟いた。

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