葛藤 4
王宮の庭
柔らかな光が庭園の花々を照らし、風が優しく吹き抜ける。
マディラは、人間界から帰国して以来の疲れを癒すため、久しぶりに広々とした庭を歩いていた。
彼女の心は少し重く、慣れ親しんだ場所であっても、どこかよそよそしさを感じていた。
そんな時、彼女の視界にふと見覚えのある背中が入る。
フードも仮面もなくなり、普通の貴族の青年として、彼は庭園の片隅で静かに佇んでいた。
マディラの胸の奥に、懐かしさとともにあの特別な日々がよぎる。
だが周囲には使用人や侍女たちがちらほらと目に入る。
彼女は胸に押し込んだ感情を抑え、遠い昔の知り合いを見かけたように、冷静を装いながら彼に歩み寄った。
「……あら、お久しぶりですね。こんなに大きくなって……最後にお会いしたのは、確か幼い頃、ここで遊んでいた時でしょうか?」
姫は微笑みながら、心の奥に秘めた親しみを言葉に乗せるが、それを表に出すことはできない。
彼もまた、冷静な表情で彼女に応える。
「お久しぶりです、姫様。私が学院進学前にお会いして以来ですので、十年以上ぶりでしょうか」
ジュリアンの言葉は控えめで、冷静に保たれている。
周りにいる人々が注視している中で、彼は毅然とした態度を崩さず、あくまで一貴族として姫に接する。
彼のあまりに冷淡な態度に、一瞬怯む。
ただここで会話が終了するのも不自然なので、彼女は言葉を続ける。
「またこの庭で会うことがあるのでしょうか」
「どうでしょう。それは、運命次第かと存じます。ですが、姫様のご健康とご多幸を祈り続けております。」
そういうと英知翁は一礼し、その場を後にした。
もはや彼に話しかけることすら許されぬ関係になったのだ。
彼の背中を見送りながら、自分の立場を改めて感じ、マディラは無言でその場を後にした。
――――――――――
皇太子の助言から数日後。
マディラはついに、初めに会う見合い候補をリヒト・カーヴァンにすることを決意する。
リヒトは慎重であり、知識と冷静さを持つ相手として、兄も父も彼を好意的に見ていた。
マディラがリヒトとの面談を進めると決めた後、ユリウスは自分が選ばれなかったことに激怒する。
彼は、自分の存在を無視されたことが許せなかった。
どこからか二番手の知らせを知り、彼はますます苛立ち、マディラにその旨の手紙を送ってきた。
姫は元々、腕力にものを言わせて事を成し遂げるタイプの男性が苦手だった。
その書面を読んだ後、感情をおさえられずに発作的に興奮して怒る性格かもしれない。
もしもリヒトとの面談がイマイチでも、連絡することを控えようと彼女は考えた。
父王には正式な取り交わしに出てもらうが、その前に彼女は非公式に何度かリヒトと会う事にした。
初めての会話で、彼は何かを考え込んでいるようで、とても慎重に言葉を選びながら話していた。
「このような機会をいただき、光栄に思っています。……僕はこの関係が王女様にとって良いものとなるよう、努力するつもりです。」
マディラはリヒトの不器用な誠実さに少し安堵を感じるが、二人の間にはまだ距離があった。
――――――――――
ニーベルの城の西側には大きな湖がある。
そこの孤島に立つ監獄。
軽犯罪を犯した者の生活区を通り過ぎると、重犯罪者が取り調べを受ける区画に到着する。
洋館での戦いの後、サロモンはニーベルの牢獄に収監された。
風翁のクーデターに加担したとして、彼は毎日十数時間に渡る拷問を受けていた。
ろくに掃除がされていない地下室は、悪臭が漂っている。
顔も度々容赦なく殴られ、元の容姿が思い出せないほど、彼の顔はひどく腫れていたが、酷い傷を負うもろくな手当がされない。
あまりの苦痛にいっそ殺して欲しいと声をあげたくなるが、もはやそんな気力もない。
壁の高いところに打ち込まれている2本の鎖のそれぞれに腕が繋がれ、何もできずに意識朦朧として、上半身裸でぶら下がっている状態で彼がいた。
その地下に、マントを羽織った青年が一人、ゆっくりと奥へ歩を進める。
意識が朦朧としていたので、最初は人がいると気づかなかった。
——人の気配がする。
サロモンは顔を上げた。
「いつからそこに……なんだよ、笑いに来たのかよっ」
サロモンの口調は威勢がいいが、声は酷く弱々しかった。
「……」
明らかに軽蔑し見下す冷徹な視線が、サロモンの体を貫く。
「あれほど忠告したのに。彼女を裏切るまねをしてはいけない、と。
貴様を心底憎んでいる。彼女を傷つけた代償は大きいぞ」
静かに呟かれたその言葉に込められた激しい憎しみを感じ取り、その恐ろしさにぞくっと背筋が凍る。
サロモンは言葉が出ない。
以前、臨海学校の打ち合わせの時に彬が行った言葉を、彼は思い出す。
「もしも彼女を傷つけるようなことがあれば、僕は、貴様を許したりはしない。絶対に。」
蒼は彬の事を避けていたので、彼はほぼ学校で姿を見かける程度。
寝泊まりしていた古い洋館での決戦の時しか、直接関わったことはない。
そんな短期間のやりとりだったが、サロモンは、彼はやると決めた事はやり遂げる男だと認識している。
今この場で、彼に睨み殺されるのではないか——
唾液を飲み込み自分の人生を諦めかけた。
——その時。
「だが、君は何もしていない、何も知らなかった」
「?」
自分への呪詛と違うことを突然言われ、混乱するサロモン。
「ただ監視していただけだ。特例条項では、その程度では未成年は裁きを受けない。事情聴取にはそう答えておいた」
そう、青年は静かに呟く。
「もし、次の取調べでの発言が、調書に整合していたらすぐに釈放されるだろう」
そう言い残し、サロモンに背を向けゆっくりと歩き出す青年。
「おまえ……なぜ」
そのまま、鉄格子の向こうの彼の疑問に答えることなく立ち去ることも出来たが——。
一瞬立ち止まり「……彼女を悲しませたくないからだ」そう静かに答え、濃紺の髪の青年は再びゆっくりと歩き出した。
振り返らなかったので、サロモンは彼の表情を伺い知ることはできなかった。
――――――――――
自室に戻り、ぼーっとシャワーを浴びて監獄でついた悪臭を洗い流しながら、ジュリアンはいろんなやりとりを思い出した。
当たり障りのない会話で、王宮の庭で声をかけてきたマディラ。
そっけない返事をしたら、一瞬すごく悲しそうな顔をしたものの、すぐに元の笑顔に戻り、周りに変化を悟らせまいと振る舞った彼女。
何年も一緒に住んで、ましてやずっと見続けていたのだから、一瞬の表情の変化を見逃すはずもなかった。
そして、彼女を悲しませた同じ口で、「彼女を裏切って心底憎んでいる、彼女を悲しませたくない」だなんて、我ながら呆れる。
マディラは現在、サロモンが「私に好意があったのではなく、初めから復讐のために利用するために近づいてきた」と思っている。
それは彼女にとってあまりに悲しい話で、いつかその事を受け入れられる時が来るまで、当時の記憶を封印している。
サロモンは、本来終身刑か、人生の大半を監獄の中で過ごすことになっていただろう。
このまま二人が永遠に会うことがなければ、それがきっと事実となってしまう。
真唯佳に不自然なほど強引に近づいてきた彼は、危険な存在であったことは間違いない。
ただ、蒼の「一目惚れした」という言葉自体は真実だったと思う。
彬は、真唯佳と蒼が、学校で楽しそうに話しているのを度々目にしていた。
もしも二人が再会する事があれば——。
真唯佳の悲しい思い出も、蒼の復讐と恋心の葛藤も、少しは薄まるかもしれない。
その可能性の芽を、今この時点で潰したくなかった。
蒼に、洋館に来るように呼び出されてからこっち、ずっと慌ただしくて、すっかり忘れていたが——。
監獄にて調書を確認した時、ジュリアンは思い出したことがあった。




