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序章Ⅲ:日常2

私立の一貫校らしく、廊下は広く、窓は大きい。

制服も上品で、どこか落ち着いた空気のはずなのに、その日ばかりは甘い匂いとひそひそ声が充満していた。


彬は律儀にチョコを受け取っては返し続けた。

昼休みも、移動教室も、放課後も。

「ごめん。期待させたくないから」

「本当に、ありがとう。でも受け取れない」

「皆一律で」

困惑、落胆、涙目。


一人ひとりに、目を見て返す。

逃げも隠れもしない。

だが受け取らない。

真唯佳(まゆか)は隣でそのやり取りを眺めながら、淡々としていた。

彼の誠実さが、かえって火に油を注いでいることに、本人だけが気づいていない。


女子たちは諦めない。

校門の外。

視線。

足音。


相変わらず冬の冷たい空気の中で、放課後の革靴の音がやけに響く。

「まさか……ついてきてるよね?」

真唯佳が平然と呟く。


「気のせいであってほしい」

彬は前を向いたまま答えるが、背後の気配を正確に読んでいた。

護衛としての習性は、こんな場面でも抜けない。

「走るか……」

「護衛が私より先に逃げるの?」

「今日だけはね」

彬の掛け声に、点滅を始めた歩行者信号に二人はタイミングを合わせて渡りきり、改札を抜け、乗車の人混みに紛れた。


駅のホームに立っても、柱の陰にリボンが揺れる気がする。

電車が滑り込み、扉が閉まる寸前で二人は飛び乗る。


本来なら最寄り駅で降りる。

——だが今日は降りない。

一駅通過。


真唯佳がちらりと横を見る。

「通り過ぎたよ」

「撒く」

携帯電話で何かを確認していたと思ったら、急に思い立ったかのように停車駅で電車を降り、改札を出たと思えば、今度はバス停へ。


「そこまでするの?」

「念のためだよ」

バスに揺られながら、彬は窓の外を確認する。

追跡はない。

ようやく自宅最寄りの一つ手前の停留所で降り、住宅街を歩く。

冬の夕暮れが街を薄紫に染めていた。

本来は最寄り駅から徒歩十分ほど。だが今日は遠回りだ。


門をくぐり、玄関の扉を閉めた瞬間、彬は深く息を吐いた。

「撒けた、か……」

背中に張りついていた緊張が、一気にほどける。

制服のネクタイの襟元を緩めながら、彼は振り返った。


「今日は振り回して悪かった」

本音だった。

本来なら彼が守る立場なのに、逃げ回らせて、護衛対象を危険に晒す行為だ。

駅を変え、バスを使い、回り道をした。

だが真唯佳は、首を横に振る。

「ううん」

そして、少しだけ目を細める。

「いつもとちょっと違って、楽しかった」

「……楽しかった?」

「うん。冒険みたいだった」

彼女はあっさりと言う。

危険というほどではない。

けれど、日常から少しだけ外れた感覚。


彬はしばらく言葉を失った。

——楽しかった?

自分はひたすら申し訳なくて、神経を尖らせていたというのに。

「変?」

「いや……」

予想外の返答に、胸の奥が、じんわりと温かくなる。

自分の都合に付き合わせた一日が、彼女にとっては退屈しのぎ以上の何かになっていた。


「……それなら、よかった」

ほんの少し、笑みがこぼれる。


そのとき、家の奥から足音が近づいてきた。

「お二人とも、お帰りなさいませ」

世話役の叉夜(さや)が、穏やかな笑みで現れた。

「……あら?何だか様子が違いますね」


真唯佳が素直に説明する。

「彬君がチョコを受け取らないように、急いで帰ってきたの」


「まあ」

叉夜は一瞬考え、困ったように笑った。

「それでは、今日のお茶菓子は問題ですね……真唯佳様がチョコケーキを作られていたのですが」


「……え?」

彬が固まる。

「チョコ……、ケーキ?」


真唯佳の申し訳なさそうな顔。

「うん。毎日広告を見たら、何だか作りたくなっちゃって……。でも食べなくていいよ。私が勝手に焼いただけだし、無理して——」

「家族は別枠だから」

彬は慌てて首を振った。

「別枠?」

「別枠!」

言い切る。

叉夜はくすりと笑った。


玄関で靴を脱ぎ、鞄を抱え直す。

ようやく追跡から解放された安堵で、彬は肩を回した。

その背中に、ポツリと真唯佳は話しかける。

「学校ではね、“背が高くて頭が良くて、優しくて大人びた落ち着きがある”って評判なんだって」

彬は眉をひそめ、一瞬、固まる。

「……誰がそんなことを」


「女子たち。ほら、今日もあんなに追いかけてきたし」

真唯佳は不思議そうに首を傾げた。

「でも、実際は違うのにね」

「違う?」


「動揺もするし、困ると眉が寄るし、受け入れられないものは拒否するし。——普通の人なのに」

さらりと言って、上階の廊下の奥へ歩いていく。

「なんであんなに追いかけてくるのかしら」

その言葉に、悪意はない。

からかいでもない。

ただの観察。

ただの——等身大。


彬は一瞬、言葉を失う。

理想像でも、英雄でも、父の肩書きでも、“予言を受けた戦術家の芽”でもない。

——普通の青年。

それが、彼女の見ている自分。


「……荷物を置いてくる」

そう言って彼は自室に入る。

扉を閉めた瞬間、静寂が落ちる。

鞄を机に置き、壁にもたれた。

胸の奥が、じわりと熱を持つ。

嬉しい、というより、救われる、に近い。


——孤独に死ぬかもしれない系譜の一人。

そんな言葉を読んだのは、"学院"に入った少し後のことだった。


合理を極めた末に、誰からも理解されず、家族さえ駒にして、最後は一人で息絶える。

あの伝記の冷たい頁。


それに比べて今の自分は、どうだろう。

追いかけ回されて、困って、眉を寄せて、少女に“普通”と言われている。

その事実が、胸を静かに温める。

戦術でも、役目でもない。

ただ、隣にいる。

それだけの時間。

確かに、孤独な未来の足音とは違う何かが、胸の奥で、小さく灯っていた。


やがて下の階から、叉夜の声がする。

「お二人ともお支度が終わりましたら、お茶の時間にいたしましょう」

彬はゆっくりと姿勢を正した。

冷たい伝記の頁を閉じるように。


だが胸に残るのは、暗い未来ではなく、ほんの少しだけ温度を持った現実だった。



――――――――――



やがて三人でテーブルを囲む。


素朴なチョコケーキ。

市販品と違って、少し形が歪んでいる。

甘さは控えめ。


「どう?」

真唯佳が尋ねる。

彬は一口食べ、静かに答えた。

「……美味しいよ」


それだけで十分だった。

学校で受け取らなかった無数の箱より、この一皿の方が、ずっと重い。


窓の外では冬の日がゆっくり傾いていく。

彬はその景色を見ながら、胸の奥でそっと思う。

——この日常を、守りたい。

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