序章Ⅲ:日常1
人間界、日本。
まだクーデター派に居場所を知られる前の、穏やかな日々。
それは、冷え冷えとした冬の朝だった。
空気は澄み切っていて、校門の桜の枝は裸のまま寒風に揺れていた。
その日、校内には妙な熱気が漂っていた。
「来るよ、来るよ……!」
昇降口の陰でひそひそと声が弾む。
下駄箱の前には、さりげなく待機する女子の姿。紙袋。リボン。小さな手提げ。
校門をくぐった瞬間、違和感があった。
空気が、妙にざわついている。
靴箱の前に不自然な滞留。
柱の陰に潜む影。
紙袋を握る手が、こちらを窺う。
視線は一つではない。
複数、散開配置。
彬は無意識に歩調を緩めた。
「……妙だ」
隣を歩く絢祐が笑う。
「何がだよ」
「視線が多い」
鈴乃がくすっと笑う。
「今日はバレンタインだもん」
「バレンタイン?」
彬が首を傾げる。
鈴乃が言葉を続ける。
「まさか学年一の秀才様が、バレンタインを知らないってこと?」
「流石にそれは知ってる。だけど校則でそれは認められていないのでは?」
「うちの学校、持ち込み黙認なの」
「黙認?まさか」
「初等部で黙認されてたのが、中等部で禁止されるわけないだろ」
"持ち上がり組"である絢祐の言葉に、彬はようやく状況を理解した。
小学校は近所の公立だった。
だが、空気の違いにいち早く気づいたのは彬だった。
家柄を探る視線。
親の職業をさりげなく聞く声。
無邪気に見えて無邪気ではない輪は、育ての親を亡くして心を閉ざしている真唯佳にとってかなり負担だった。
中学からは電車で数駅の私立へ切り替えた。
登校の距離は増えたが、彼女は徐々に本来の明るさを取り戻した。
——それなのに。
改めて、再び周囲を見る。
靴箱の陰。階段の踊り場。廊下の端。
包囲網は、明らかに自分を中心に半径を狭めている。
「……あれはまさか、僕に?」
絢祐が肩をすくめる。
「残念ながらな」
鈴乃が追い打ちをかける。
「結構いるよ。人気者」
彬は小さく息を吐く。
訓練では、索敵は冷静に行うものだ。
だがこれは実弾ではない。
甘味だ。
しかし数は多い。
しかも一日続く可能性が高い。
「長期戦か……」
ぽつりと呟く。
真唯佳が聞き返す。
「何が?」
「敵襲」との彬の言葉に、絢祐が吹き出す。
「大げさだろ」
「包囲されている」
視線が、また増えた。
誰かが目を逸らし、また別の誰かが近づこうとする。
彬は判断する。
準備不足。
防御策なし。
撤退経路未確保。
「今日は一日、僕から離れないでくれないでほしい」
という彬に、真唯佳が瞬く。
「どうして?」
「少しでも近接を防ぎたい」
鈴乃が笑う。
「何それ。護衛対象に護衛を頼んでる」
彬は真顔だ。
「一人だと突破される」
本当は彼女たちより年上だが、護衛任務のため、真唯佳と同学年という設定で彬はこの学校に通っている。
年齢を偽っているとはいえ、身長も高く、落ち着いた物腰は隠せない。
成績も運動も無難にこなしてしまう。
——目立ちたくはないのに。
真唯佳は頷く。
「いいよ」
——助かった。
「近くにいれば、話しかけにくいでしょう?」
即答だった。
理屈は単純。
だが有効。
絢祐が感心したように言う。
「天然要塞だな」
彬は小さく息を吐く。
しかし安心は束の間だった。
靴箱を開けた瞬間、小さな包みがいくつも足元に落ちる。
「……やっぱりか」
拾い上げながら、すぐに状況を把握する。
数は多い。形もまちまち。手作りらしい不揃いなものも混じっている。
そのとき、背後から弾む声が飛んだ。
「笹薙くん!」
わざとらしく明るい、けれど緊張を隠しきれていない声。
振り向く前に、足音で人数を数える。二人。いや、三人か。
昇降口の柱の陰。
こちらを窺う影が、ひそひそと動く。
ひとりが意を決したように前へ出た。
小柄な女子生徒。両手で包みを抱えている。
彬と目が合った瞬間、頬が赤く染まる。
「その……今日、もしよかったら」
差し出された箱。
丁寧に結ばれた赤いリボン。
緊張で指先が強張っているのがわかる。
彬は一瞬、視線を落とす。
それから、静かに顔を上げた。
表情は柔らかい。
「ありがとう」
声も穏やかだ。
女子の目がぱっと輝く。
だが次の言葉は、予想していなかっただろう。
「でも、受け取れない」
空気が、ぴたりと止まる。
「え……?」
「期待させるようなことはしたくないんだ。誰に対しても、同じでいたい」
声は低く、落ち着いている。
責めるでもなく、照れるでもなく。
「本当にありがとう」
それ以上言わせないように、軽く会釈すると、再び下駄箱に向き直った。
女子は小さくうなずき、友人の元へ戻っていく。
柱の陰でさざめきが広がった。
彬は屈んだまま、靴箱に詰め込まれていた包みを、サブバッグにまとめ始める。
手際がいい。まるで回収作業だ。
絢祐が思わず言う。
「お前、それ全部どうすんの……」
「返す」
淡々とした返答。
「は?」
「今の子に断ったんだ。これも同じだよ」
当然の理屈のように言いながら、立ち上がると袋の口をきゅっと結び、視線が横に滑る。
「真唯佳」
「なに」
「手伝ってほしい」
袋を差し出す。
鈴乃が目を見開く。
「え、ちょ、真唯佳に返させるの??」
絢祐も引き気味だ。
「真唯佳、それは流石に本人にやらせるだろ」
彬は涼しい顔で答える。
「一人だと囲まれる。同行してもらう」
それだけで十分だった。
真唯佳は袋を受け取る。
重みを確かめるように軽く持ち上げ、あっさり言う。
「全部返すの?」
「全部。中途半端は意味がない」
彬の、言い出したら引かない性格を彼女は知ってるのだ。
鈴乃が小声で呟く。
「ドン引きなんだけど……」
絢祐も肩をすくめる。
「戦闘体制すぎるだろ」
一日、この“ミッション”が続くのか——。
そう思うと、ほんの少しだけ、眉間に皺が寄る。
隣に袋を抱えた真唯佳を連れて、二人は校舎へ歩き出す。
甘い匂いの漂う戦場へ——




