序章Ⅱ:決意
ニーベル国 王都内 "学院"
この国の上流貴族の子弟たちは、学童期になると王宮の側にある士官養成学校、通称「学院」に通う。
ここでは、未来の王宮官僚や軍幹部を目指す若者たちが切磋琢磨していた。
ジュリアンも例に漏れず、学院に通い始めていた。
石造りの校舎は重厚で、朝霧の中にそびえるその姿は、小さな要塞のようだった。
父は陸軍の幹部。
その息子がここにいることに、誰も疑問は抱かない。
だが、ジュリアンは訓練場よりも図書室を好んだ。
剣を振るうより、紙をめくる方が楽しい。
戦史、魔術理論、過去の戦役の記録。
最近、彼の興味を引いているのは、"敗北例"だった。
なぜ負けたのか、どこで読み違えたのか、あと一手、何が違えば勝てたのか——。
敗北の行間に潜む“最善手”を探すのが、何よりも面白かった。
学院では定期的に、若手将校が講話を行っていた。
現場での体験談、教本には載らない失敗、生き残るための判断。
その日の講師は、卒業して間もない少尉だった。
父とは別部署で、前線寄りの任務を経験しているいう。
生々しい話に、教室は静まり返っていた。
講話の後、質疑応答が始まる。
当たり障りのない質問が続く中、ジュリアンは手を挙げた。
「撤退判断が遅れた原因は、情報不足ですか、それとも心理的要因ですか?」
教室がざわつく。
少尉が一瞬だけ目を細めた。
「……両方だ。だが、なぜそう思う?」
ジュリアンは理路整然と説明する。
資料の行間、時間差、兵站の配置。
講話が終わった後も、彼は控えめに少尉の元へ向かった。
「もう一つだけ、質問が……」
そこから会話が続く。
純粋な知的興味だった。
だが——
少尉の視線が変わる。
「では、仮にだ」
軽い調子で、試すように。
「夜明け前に奇襲を受けた場合、君ならどう動く?」
ジュリアンの瞳が輝く。
試されることが、嬉しい。
認められている気がした。
「まず兵糧庫を守るふりをして、あえて裏門を薄くします。敵は“隙”に食いつく。そこを包囲して、退路を断ちます」
無邪気に、完璧な布陣を語る。
少尉は笑った。
「君は変わった子だな」
からかうでもなく、興味深げな声音。
少尉は静かに頷いたが、その目は、先ほどまでよりも一段深く、少年を試すように見つめた。
――――――――――
数週間後。
演習を終えた生徒たちが帰り支度を始める頃、廊下の窓から差し込む夕陽が長く床を染めていた。
「お、ちょうどいいところにいた」
ジュリアンに声をかけてきたのは、城内警備を担当する教官だった。
普段から巡回で顔を合わせる、気さくな人物だ。
「少し時間あるか?」
呼び止められたことに、ジュリアンは素直に頷く。
教官は何気なく歩きながら、廊下の端——人通りの少ない窓際へと位置を変えた。
「前から聞いてみたかったんだ……」
軽い調子で続ける。
「城内で一番人手が手薄になるのは、いつだと思う?」
ただの、知的な雑談の延長のような問い。
ジュリアンは考える。
年間行事、警備交代、演習日程。
頭の中で自然と盤面が組み上がる。
「特別演習の前後です。城外に人員が割かれますし、王宮内も式典準備で持ち場が変わります。加えて夕刻は交代時間が重なります」
教官は目を丸くする。
「そこまで見るか……」
素直な驚きだった。
「助かったよ、ありがとう。参考にさせてもらう」
ぽん、と軽く肩を叩かれる。
それは叱責でも試験でもなく、“頼られた”という感触だった。
教官はそのまま去っていく。
廊下に一人残ったジュリアンは、胸の奥が少し熱くなるのを感じていた。
先日の先輩将校。
そして今日の教官。
大人が、自分の考えを必要としてくれる。
——学院は、思っていたよりもずっと面白い場所かもしれない。
人の相談に乗り、感謝される。
それは悪くない。
いや、きっと——嬉しいことなのだ。
少年はそう信じていた。
――――――――――
それからさらに数日後のことだった。
「——君か、英知の翁子というのは」
友人と廊下を歩いていたジュリアンの背後に、低い声が落ちる。
振り向くと、壮年の高官が立っていた。
上級学年の講義室で特別講話を行っていた人物だ。
窓越しに見えた壇上の姿が、すぐに思い出される。
近くで見ると、その軍服の肩章は重く、視線は静かに鋭い。
廊下の空気が、わずかに変わる。
父ほどではない。
だが少年たちにとっては十分に「偉い人」だった。
「土翁のご子息で、ちょっと面白いという子は」
軽く笑う。
「先日、君たちのクラスで講義した部下から噂を聞いてね」
というその高官の言葉に、友人たちが息を呑む。
「え、あの人……」
「司令部の……?」
視線が一斉にジュリアンへ向く。
学生たちのざわめきを機にすることなく、高官は構わず続ける。
「少し時間はあるかな」
友人たちがが小声で言う。
「すげぇな、お前」
「俺たち、先に戻ってるわ」
背中を軽く押される。
からかい半分、羨望半分の視線。
ジュリアンはわずかに頬が熱くなるのを感じた。
偉い人が、自分を名指しで呼ぶ。
しかも噂まで届いている。
誇らしい——と、思った。
高官は歩き出す。
「歩きながら、少し話をしよう」
友人たちの視線を背に受けながら、ジュリアンはその後を追った。
胸の奥が、ほんの少しだけ高鳴っていた。
噂になるほど、自分の意見は届いているのか。
高官は腕を組み、視線を合わせる。
「少し試させてくれないか」
拒絶ではない。
威圧でもない。
むしろ光栄だった。
試され、認められる可能性がある。
その響きに、少年は素直に頷く。
高官は何気ない口調で続ける。
「護衛の交代時間が狙われるとしたら——陛下はそのような時、どの部屋にいると思う?」
空気が少しだけ変わる。
だがジュリアンは気づかない。
それは“難問”ではなく、“面白い問題”だった。
ジュリアンは考え、王宮内の配置を思い浮かべる。
「どうでしょうか。まず、移動は避けるべきです。儀式の前後なら、控室と回廊の間。警戒が薄くなるのは、交代直後ですから。それと……」
自分の頭の中で盤面が組み上がっていく感覚が、たまらなく心地よかった。
自分はただ、最善手を示しただけだ。
——そのはずだった。
――――――――――
数週間後の夕刻
学院の窓から王都を見下ろしたとき、ジュリアンの胸を妙な違和感が掠めた。
やけに王宮外へ人が出ている。
「ああ、年に数回の行事の日か……軍も動く」
その瞬間、先日の大人たちとの会話が頭の中で繋がった。
裏門。
兵糧庫の攪乱。
護衛交代の隙。
移動中の陛下。
血の気が引く。
——似ている。
いや。
似ているどころではない。
あれは自分が言ったことだ。
断片ではなく、すべてを繋げた形で記憶が蘇ってくる。
と同時に、背筋に冷たいものが走る。
あの日、自分はそれを“面白い問題”として解いた。
だがそれは——
実行可能な暗殺計画だった。
気づいた瞬間、足が勝手に動いていた。
自宅の屋敷に急行し、父の執務室に飛び込む。
重厚な机の前で立ち止まり、息を切らせる。
「父上……もし、もし、誰かが僕の話を利用したとしたら——!!」
マクシミリアヌスは書類から顔を上げ、ただ黙って見つめる。
その視線に、逃げ場はない。
ジュリアンは震える声で話した。
問われた内容と自分の答え。
今日の状況との一致。
沈黙は長くは続かず、土翁は立ち上がる。
「悩んでいる暇はない。今すぐ王宮へ向かう」
声は低く、決断は早い。
「俺は急遽、陛下に面談を申し入れる。ともかく、お前が言及した場所から移動していただく」
普段は不在がちな父親が、幸いにもその日は屋敷にいた。
それだけが救いだった。
——後に知る。
予定されていた動きは、寸前で空振りに終わったと。
――――――――――
後日。
静まり返った部屋で、マクシミリアヌスは息子を見据える。
「お前は生まれつき、戦略を立てる力を持っている」
低く、重い声。
「それは剣だ。だが、諸刃の剣」
ジュリアンは拳を握る。
「僕が……反乱勢力の一員と見做され……?」
「違う」
父はきっぱりと言う。
「お前は利用された。だが、それに気づけた。それが救いだ」
そして続ける。
「覚えておけ。お前は“国王”以外にその知恵を授けてはならない。誰にも、だ」
意味はすぐに理解できた。
王族以外の誰もが、自分を“駒”として扱う可能性がある。
「お前の思考は武器だ」
父は言う。
「そして武器は、陛下のためにのみ振るえ」
その日、ジュリアンは初めて知った。
自分の好奇心が、人を殺すのだと。
父の執務室を出る頃には、夜はすっかり更けていた。
廊下の窓に映る自分の顔を、ジュリアンはふと見つめる。
先ほどまで震えていた少年は、もうそこにはいなかった。
「……甘かった」
小さく、呟く。
未来を読むだけでは足りず、それを支配しなければ、利用される。
――――――――――
それからのジュリアンは変わった。
学院での彼は、必要以上に語らなくなった。
問われれば答えるが、核心は渡さない。
冷めた笑みは浮かべるが、心は見せない。
貴族たちはやがて彼をこう呼ぶ。
——王国一、冷酷な戦術家。
勝つためなら情を切り捨てる。
最適解のためなら迷わない。
そう思われるように、振る舞った。
それが、二度と利用されないための鎧だった。




