Memory_
黒の世界に、朝はない。
天上人の軍が前線に築いた陣地の上には、いつ見上げても赤黒い空が広がっていた。
遠方では地平そのものが燃えている。大地を走る亀裂から赤い炎が噴き上がり、硫黄を含んだ熱風が、天上人たちの白い陣幕を絶えず揺らしていた。
その暗黒界の只中に、不釣り合いなほど整然とした光の砦が築かれている。
天上人の軍の最前線だった。
幾重にも張り巡らされた防御結界。
その内側には治療所、兵站施設、転移陣、指揮所が置かれ、数え切れないほどの天上人たちが休息している。
だが、誰もが疲弊していた。
戦線は、あまりにも伸びすぎている。
もともと、この戦争は天上人が望んだものではなかった。
ルシフェルと共に金の世界を去った天上人たち。
その多くは悪魔となった。
だが、すべてではない。
暗黒界に馴染めなかった者。
ルシフェルについていけば新しい世界を作れると信じ、現実を知って後悔した者。
天上界へ帰りたいと願う者。
そんなかつての同胞を救済しようという声が、天上界で生まれた。
実際、審査の末に赦され、天上界へ戻った者もいる。
——そこまではよかった。
悪魔たちは、それを利用した。
帰還を望む堕天した者を装い、天上界と暗黒界を隔てる境界へ近づき、その構造を探った。
そしてついに、境界の一角が大きく破られた。
開かれた戦端を押し戻すため、天上人は黒の世界へ進撃した。
最初は防衛だった。
次に境界周辺の安全確保。
その次は再侵攻を防ぐための緩衝地帯の構築。
気がつけば、天上人たちは暗黒界の奥深くまで入り込んでいた。
そして今。
前線総司令官ミカエルは、大きな地図を前に腕を組んでいた。
「ここまでだ」
低い声が指揮所に響いた。
集まっていた将校たちが一斉に彼を見る。
地図には、自軍の支配地域が白く、悪魔軍の勢力圏が黒く示されていた。
白い領域は、細長く暗黒界へ食い込んでいる。
あまりにも細い。
「これ以上進めば、補給線の維持ができなくなる」
ミカエルが指先で地図をなぞる。
「この峡谷を悪魔軍に押さえられれば、先遣隊三万が孤立する。こちらを切られれば治療部隊への物資が止まる。そして——」
指が止まった。
「ここを失えば、全軍が天上界へ帰れなくなる」
誰も反論しなかった。
勝っている。
少なくとも戦況だけを見れば。
だが、勝利と進軍は同じ意味ではない。
「撤退するのか?」
指揮所の隅から声がした。
アテナエルだった。
ミカエルと同じく、創造主によって古くに生み出された天上人。
その姿には戦場に似つかわしくない静謐さがある。
ミカエルは頷いた。
「段階的にな」
「悪魔たちは追ってくる」
「だから今日から攻勢を止める。前線を固定して防御に専念する。その間に後方から順次撤収させる」
「殿は?」
「私が率いる」
当然のことのように答えた。
アテナエルは何も言わなかった。
彼ならそうすると思っていた。
父によって同じ古い時代に生み出された三人。
ミカエル。
アテナエル。
そして——ルシフェル。
三者の力そのものに、大きな差はない。
違うのは、その使い方だった。
ルシフェルは己の意志のために。
ミカエルは軍と秩序のために。
そしてアテナエルは——。
「総司令!」
突然、指揮所の外から叫び声がした。
一人の伝令が飛び込んでくる。
片翼から血を流していた。
「何事だ」
「第三哨戒隊が悪魔と接触!」
ミカエルの表情が変わる。
「攻撃されたのか?」
「違います。投降者です。天上界への帰還を希望する者が現れ、それを保護しようと——」
伝令が言葉に詰まった。
ミカエルはすぐに察した。
「罠か」
「……はい」
指揮所の空気が凍る。
「被害は」
「二名が連れ去られました」
「所属」
「第五遊撃隊。兄弟です」
名前が告げられる。
アテナエルの表情が変わった。
「生きているのか?」
「確認できています。悪魔軍は二人を殺していません。峡谷の向こうへ運んでいます」
「なら救出隊を——」
「出さない」
ミカエルだった。
アテナエルが振り返る。
「ミカエル」
「出さない」
もう一度、明確に言った。
伝令も将校たちも黙り込む。
「二人、生きている」
「知っている」
「場所も分かっている」
「それも聞いた」
「なら——」
「だからこそだ、アテナエル」
ミカエルは地図を指した。
兄弟が連れ去られた峡谷。
その周辺には悪魔軍の部隊が潜伏できる谷がいくつもある。
「奴らは殺さなかった」
「……」
「なぜだと思う」
アテナエルは答えなかった。
「助けに来るからだ」
ミカエルの声には怒りすらなかった。
総司令官として、ただ事実を述べている。
「二人を餌にする。救出部隊が峡谷へ入ったところで包囲する。こちらが増援を出せば、さらに兵を引き込む。目的は救出部隊ではない」
地図上の白い駒を一つ持ち上げる。
「この陣そのものだ」
アテナエルの手がわずかに握られた。
「……見殺しにするのか?」
「そうだ」
あまりにも迷いのない答えだった。
何人かの天上人が息を呑んだ。
それでもミカエルは続ける。
「私は二人の命と、ここにいる数万の命を秤に載せなければならない」
「命を数で決めるのか?」
「総司令官とは、そういう仕事だ」
静かな言葉だった。
だからこそ重かった。
「私が二人のために一個小隊を出せば、次は十人が攫われる。十人のために一個大隊を出せば、次は百人だ」
ミカエルはアテナエルを見る。
「そしていつか、全軍が死ぬ」
アテナエルは唇を結んだ。
正しい。
ミカエルは正しいのだ。
おそらく、これ以上なく。
「撤退計画は変更しない」
ミカエルが将校たちへ告げる。
「全軍、防御態勢を維持。救出は禁止。悪魔側から交渉が来ても応じるな」
命令が下された。
天上人たちが動き始める。
アテナエルだけが、その場に立ち尽くしていた。
やがて小さく尋ねる。
「……二人の場所は?」
ミカエルの眉が動いた。
「アテナエル」
「聞いているだけだ」
「お前がその顔をしている時は、聞いているだけでは終わらない」
長い付き合いだった。
ミカエルには分かる。
アテナエルは微笑んだ。
「ワラワ一人なら?」
「何?」
「軍は動かさない」
ミカエルの顔から表情が消えた。
「兵も借りない。救出部隊もいらない。ワラワ一人でゆく」
「許可しない」
「二人くらいなら、ワラワの力で連れ帰れる」
「力の問題ではない」
「ワラワとルシファーがぶつかっても、そなたたちは撤退できるであろう?」
「そういう問題でもない!」
初めてミカエルが声を荒らげた。
指揮所が静まり返った。
「お前が動けば、奴らは気づく。ルシファーが出てくる可能性もある。戦線全体が動く」
「なら早く済ませる」
「アテナエル!」
だが。
もう遅かった。
白い光が弾ける。
六枚の翼が一斉に開いた。
凄まじい風圧に地図が舞い上がり、将校たちが思わず腕で顔を庇う。
「待て!」
ミカエルが手を伸ばした。
アテナエルは振り返った。
その表情は、驚くほど穏やかだった。
「大丈夫」
「何を根拠に——」
「二人を連れて帰るだけだ」
次の瞬間。
地面が爆ぜた。
白銀の閃光が天幕を飛び出し、赤黒い空を一直線に切り裂いていく。
「アテナエル!」
ミカエルの声は届かない。
彼女はたった一人で、悪魔軍の支配領域へ向かっていた。
指揮所に残された天上人たちは、呆然とその光を見送る。
やがて副官がおそるおそる尋ねた。
「総司令……追わせますか」
ミカエルは答えなかった。
追えば、「二人のために軍を動かす」ことになる。
追わなければ、父によって古くに造られた天上人の一人を、敵地へ単独で送り込むことになる。
そして何より。
敵の向こう側には、彼らと同じ時代に生まれ、彼らと同じほどの力を持つ者がいる。
ルシファー。
ミカエルは目を閉じた。
「……全軍、動くな」
苦渋の命令だった。
「防御態勢を維持しろ。予定通り撤退準備を進める」
「アテナエル様は?」
ミカエルは、暗黒界の空へ消えていく白い光を睨んだ。
「自分で帰ってこさせろ」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で付け加えた。
「……馬鹿者め」
遠く。
悪魔軍の領域へ飛び込んだアテナエルの眼下に、峡谷が見え始めていた。
その最深部。
二人の天上人を囚えた悪魔たちは、すでに彼女が来ることを知っているかのように待ち構えていた。
だがアテナエルは速度を落とさなかった。
罠であることなど、最初から分かっている。
それでも行く。
二人を助けられる力が自分にはある。
ならば、見捨てる理由にはならなかった。
アテナエルが飛び去ったあと。
ミカエルは、しばらく何も言わなかった。
暗黒界の赤黒い空を睨み、遠ざかっていく六枚の翼の光を見送っている。
追撃部隊は出せない。
アテナエルのために軍を動かせば、悪魔側の思う壺だ。
だが、だからといって放置するわけにもいかない。
兄弟を救出できたとしても、三人で悪魔軍の支配領域を抜けなければならないのだ。
ミカエルは考えた。
そして。
「……サタナエルを呼べ」
唐突に告げた。
副官が首を傾げる。
「サタナエル?」
「ああ」
「どちらの部隊の者でしょうか」
「まだ正式な所属はない」
「……は?」
周囲の将校たちも顔を見合わせる。
そんな天上人を、なぜ総司令官が名指しするのか。
だがミカエルは説明しなかった。
「呼べ。すぐにだ」
ほどなくして。
指揮所の入口が騒がしくなった。
「止まれ!」
「何者だ!」
「悪魔だ!」
剣が抜かれる音。
次いで、何人もの天上人が一斉に戦闘態勢へ入る気配。
ミカエルが眉を寄せた。
幕を上げて外へ出る。
そこに。
真っ黒なものが立っていた。
黒い髪。
黒い瞳。
そして何より異様なのは、その身に纏う光だった。




