不協和音 8
臨海学校 2日目。
生徒たちの裏目的は、お目当ての異性との仲良くすることかもしれないが、この行事のメインイベントはおそらく遠泳である。
本州の海岸から、1Kmちょっと離れた無人島まで泳ぐことになっている。
このコースは、干潮時には、背の高い男子だと足がついてしまうくらいの水深らしく、あまり泳ぎが得意ではない真唯佳もちょっと安心している。
ただし、あらかじめ教師から、昨日の荒天の影響で、多少波が高いかもしれないので、気をつけるように言われた。
早速、彬がいる1組の順番で遠泳が始まり、200人中、真ん中より少し遅いくらいで真唯佳は泳いでいた。
しばらくして、ちょっとみんなより離れているが、それでも集団について行っているつもりだった。
——自分だけ、横に流されている気がする。
そのうち、大きな波が迫り、真唯佳の体がじわりと沖へ押し流され始める。
最初は、波に押された程度だと思っていた。
だが気づけば、クラスの列から一段階外れた位置に出ている。
(……ちょっと、遠い?)
泳げないわけではない。むしろ平均以上には泳げるはずだ。
それでも——距離がある。思ったより、戻りにくい。
その違和感に気づいたとき、海の流れが明らかに不自然な方向へ変わり始めた。
水が、押すのではなく“引いている”。
(……これ、おかしい)
数箇所で見守っているはずの教師たちは、誰一人としてこちらを見ていない。
周囲の生徒も、まるで最初からそこにいないかのように、気づく様子がない。
急に、現実感が薄れる。
もう少しで声も届かない距離になる——
そう思った瞬間。
「大丈夫?」
背後の水面から、声がした。
振り向くと、いつの間にか彬がすぐ近くに浮かんでいる。
「どうして?どこから……?」
混乱と安堵が入り混じった声が漏れる。
「1組がほぼ全員ゴールしてる。3組が上がり始めてるのに君が来ないから、別の岸から潜ってきた。——流されてるよ」
その言葉と同時に、二人の周囲の水が、不自然に渦を巻き始めた。
海面が、ねじれる。
「……渦?」
彬は一瞬だけ目を細めると、すぐに真唯佳の腕を引き寄せ、体勢を安定させる。
次の瞬間、水流は明確な意思を持ったかのように激しく回転し始めた。
二人を中心に、海が閉じていき、真唯佳の体が引き込まれそうになる。
恐怖で力が入る。
だが彬は冷静だった。
「しっかり掴まって」
短く、しかし確実に届く声。
渦に逆らいながら、二人は泳ぐ。
流れは明らかに人為的で、どこから操作されているかもわからない。
この状態で防御に回れば、消耗するだけだ。
(——抜ける)
彬は一瞬で判断する。
水流の歪みを観察し、わずかに緩む瞬間を待つ。
そしてその一瞬に合わせ、結界を展開し、進行方向を強引にずらす。
敵はさらに流れを強めようとする。
だが、その制御はわずかに乱れていた。
想定以上に持ちこたえられている。
——限界が近い。
最後の力を振り絞るように、渦が一気に強まる。
その瞬間——
彬は結界を滑らせるように展開し、真唯佳の体を引きながら一気に外側へ抜け出した。
二人は渦の外へと弾き出される。
直後、激しかった水流は嘘のように力を失い、ただの波へと戻っていった。
しばらく呼吸を整えながら、二人は無人島へと向かう。
ゴールからやや離れた砂浜に上陸し、教師のもとへ駆け寄った。
「笹薙、それから八重神……」
体育教師が驚いたように声をかける。
「真唯佳が一人、沖に流されて列から外れていたので、最短の岸に上がれるよう誘導していました」
彬は簡潔に説明する。
無線で情報が共有され、教師たちは互いに状況を確認し合う。
「後方の教師が見落としていたようだ。すまなかったな。無事でよかった。体調に問題なければ、あちらでタオルとランチボックスを受け取って休憩するように」
彬は軽く頷き、真唯佳の様子を一度確認する。
——異常はない。
二人はそれぞれのクラスへ戻り、ランチタイムを迎えた。
島に到着した他の生徒たちは、先ほどの異変など気にも留めていない様子で、砂浜に座り楽しそうに弁当を広げている。
まるで、何も起きていなかったかのように。
真唯佳はその光景を見ながら、わずかに視線を海へ向けた。
(……さっきの、何だったの)
答えは出ない。
ただ、隣に彬がいたという事実だけが、かろうじて現実感を繋ぎ止めていた。
――――――――――
食後の島内自由行動時間。
浜でビーチバレーをしていたり、貝殻拾いをしたり、砂浜に大きな穴を掘って埋まっている生徒達がいる。
真唯佳は、先ほどの遠泳のアクシデントで思ったよりも体力を消耗したので、浜辺が見える木陰で休んでいた。
「八重神さん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは、2組の女子生徒が三人。
「今、時間ある?ちょっと話があるんだけど」
そう言われ、真唯佳は海岸から少し離れた小高い丘の方へ連れていかれる。
(……また、あの話かな)
昨日も似たように呼び出され、彬との仲を取り持ってほしいと頼まれたばかりだ。
正直、自分たちで直接やってほしいと思いながらも、断りきれずにここまで来てしまった。
しばらく歩いたあと。
「この先に、八重神さんと話したい子がいるの。行ってあげて」
そう言われ、一人で先へ進むよう促される。
言われた通りに道を進むと——
そこにいたのは、予想外の人物だった。
「蒼……君?どうしたの、こんなところで」
思わず間の抜けた声が出る。
「ここ、すごく景色いいんだ。ちょっと座ろうよ」
屈託のない笑顔で彼はそう言い、近くのベンチへと促す。
状況がよく飲み込めないまま、真唯佳はとりあえず腰を下ろす。
蒼もその隣に座った。
どうやらここは展望台のような場所で、島全体が見渡せる。
遠くには宿舎も小さく見えていた。
「今日は晴れてよかった。見晴らしもいいし……こうやって二人で見られて、ちょっと嬉しい」
「そうね。いい景色ね。さっきの遠泳の疲れも、少し楽になった気がする」
そう彼に切り出され、最初はこの景色を見せたくて呼ばれたのかと思った。
けれど——
「……実はさ、前から言いたいことがあって」
少しだけ蒼の声のトーンが変わる。
「……何?」
真唯佳は戸惑いながら、彼の方を見る。
「噂、聞いてるかもしれないけど……俺、真唯佳ちゃんのこと好きなんだ。
君が笑ってると、なんか元気になれるし……もっと一緒にいたい。付き合ってほしい」
その言葉に、しばらく何も返せなかった。
——これが目的だったのか。
理解が追いついたと同時に、沈黙が落ちる。
やがて真唯佳は、ゆっくりと口を開いた。
「……そっか。ありがとう。でも、ごめんなさい。誰かと付き合うっていうのが、まだ想像できなくて」
「俺たちが付き合えない、何か特別な理由があるの?」
「そういうわけじゃないけど……」
理由がないわけではない。
けれど、それをここで説明することはできなかった。
「お兄さんに止められてるとか?」
その言葉に、彬から「あいつは危険だ」「僕たちの秘密を話すな」と言われたことが一瞬よぎる。
けれど、今引っかかっているのはそれではない。
真唯佳は静かに首を横に振る。
「……人を好きになるっていうのも、まだよくわからなくて。それよりも、自分のことで精一杯で……」
「俺はそんなの全然気にしないよ!」
そう言いながら、蒼は彼女の両肩を掴む。
その勢いに少しだけ目を伏せながら、真唯佳は言葉を続けた。
「今は、自分が何をしたいのか考えるだけで精一杯で……。
だから、蒼君の気持ちは嬉しいけど、ちゃんとした答えは出せないの」
少し間を置いて、続ける。
「でも、友達として一緒に過ごしていく中で……もし自然に距離が近づいていくなら。
その先にそういう関係になることは、あるかもしれない」
その返答を聞き、蒼は一度目を閉じた。
強引に押しても意味はないと、理解したのだろう。
「……そっか。でも、ちゃんと気持ち伝えられてよかった。これからも、友達でいてくれる?」
「もちろん。これからも仲良くしよう」
真唯佳はほっとしたように微笑んだ。




