過去 7
4年ほど前
当時ジュリアンは、宮廷内で任務に就く人材を養成する機関——”学院”で研修を受けていた。
そんなある日、妙な噂が学内に流れる。
国王が、ある極秘任務に相応しい若い上級貴族を探している、というものだった。
そして最終的に、その話は自分のもとに来た。
かつて城に住んでいた国王の娘、マディラが、現在は異世界である「青の世界(通称人間界)」の日本という国で能力を封じられたまま生活している。
彼女の力が再び解放される兆しがあるため、日本で混乱が起きないように姫を覚醒させ、国へ連れ帰る。
それが、自分に与えられた「騎士」の任務だった。
だが、問題が二つあった。
マディラが能力を封じ込められる際、少しでもその効果が発揮されるように、より若くしてから術が施されている上、異世界に行くと彼女の外見はその地に適応する。
つまり、現在何歳でどんな容姿をしているか正確にはわからない。
もう一つは、彼女が「扉」を通って異世界へ行ったわけではないことだった。
時空の裂け目から移動したため、正確な居場所が特定できない。
ただし、ジュリアンも同じ裂け目から人間界へ渡れば、彼女が出現した地点に高い確率で辿り着けるらしい。
姫が遠くへ転居していなければ、いずれ遭遇できるだろうという話だった。
そもそも、なぜ彼女がそのような境遇に置かれているのか——。
それは姫の出生に関わる秘密が原因らしいが、その内容こそ極秘中の極秘で、当時は詳しい説明を受けることはできなかった。
ともかく命令に従い、ジュリアンは同行者として指名された叉夜と共に、日本へ渡ることになった。
初めて真唯佳と話した、あの日。
自分の探している姫が通っている可能性の高い学校とクラスまでは特定できていたが、どの少女が本人なのかまでは分からない。
そんな中、特殊能力を持っていそうなクラスメイトを見つけたため、仮住まいとして使っていた家に招いた。
だがその時点では、まだ彼女が本当に目的の人物なのか疑っていた。
冴えない顔つきで、全体的にもっさりとした印象。
肩まで伸びた髪はまったく梳かしていないのか、明らかにぼさぼさだった。
黒地に小花柄の長袖Tシャツに、野暮ったいデニムパンツ。
よく見ると、Tシャツには染みがついていて、白い花模様のいくつかが薄茶色に変色している。
貧民街の子供よりはましだろうが、正直、ここまで身なりの整っていない少女と接するのは初めてだった。
これが、本当にあの姫なのだろうか……。
そう疑いながら、お茶菓子を出し、彬は彼女の能力について探ろうとしていた。
そのとき。
彼女がお茶を口に運ぶ仕草に、違和感を覚えた。
コップに手を伸ばす動作がやけにゆっくりなうえ、飲み終えたあと、テーブルへ戻す腕が不自然な角度のままだった。
考えるより早く、彬はとっさに手を伸ばし、彼女の腕をそっと掴んだ。
「いっ……!」
少女は苦痛に顔を歪めて声を上げ、次の瞬間、しまったという表情でこちらを見る。
その表情を確認すると同時に、ふと首筋に目が留まった。
よく見ると、そこにも痣のような跡がある。
「ちょっと、腕を見せて」
そう言いながら、袖をそっと肘の上まで捲る。
すると腕の外側に、赤く爛れたような細長い傷が見えた。
肘の下から十センチほど露出しているが、おそらく肘の上まで続いている。
少女は怯えたような顔でこちらを見つめていた。
すでに抵抗することを諦めているようだった。
いや——勘が正しければ、彼女には逃げる力そのものが残っていない。
「クラスメイトにされたの?」
そう問いかけるが、彼女は視線を逸らし、表情を変えない。
それで、ほぼ確信した。
彬は何も言わず、掴んでいる手とは反対の手を、傷の上にそっとかざす。
触れるか触れないかの距離で、十秒ほど。
やがて両手を離すと、真唯佳の表情が驚きに変わった。
恐る恐る腕を動かし、滑らかに動くことを確かめる。
そして傷が消えていることにも気づいた。
初めて話す少女に、そこまでする必要はなかった。
それでも、放っておくことができなかった。
「僕がどうして、君の不思議な力に興味を持ったのかというとね——」
そう言って、彬は穏やかに微笑む。
「僕自身にも、同じような力があるからだよ」
真唯佳は言葉を失ったまま、ただじっとこちらを見つめていた。
「腕の傷を治したついでに、首筋というか……背中にも傷があるんじゃないかと思って。
もし背中を少しだけ見てもいいなら、同じような処置をしようと思うけど、どうかな」
彼の申し出に、彼女は躊躇いながらも小さく縦に首を振った。
背中を向けるように座り直してもらい、腰から上を三分の一ほど、服をめくってもらう。
彬はそっと手を服の中に差し入れ、触れないよう慎重に手をかざした。
そのまま三十秒ほど。
ちらりと見えた隙間から彼女の肌を観察すると、背中全体にみみず腫れのような筋が十本以上走っていた。
しかも、以前にも同じようなことがあったのか、いくつかはすでに傷跡になっている。
——間違いない。
これは学校でできた傷ではない。
家で、日常的に受けているものだ。
「全部は見ていないけど、多分、傷の大部分は消えたと思う。これだけ背中が傷ついていたら、体を動かすのも大変だっただろう」
「ありがとう。その……なんて言えばいいのか……」
彬の気遣いに戸惑いながら、真唯佳は小さな声で礼を言った。
「いや、ほんと偶然だけど、君にも僕にも力があるみたいで……僕自身も驚いている。
本当は、まずお互いのことを少しずつ話そうと思っていたんだけど、いきなり僕の力を見せることになってしまったね。
君も僕も、いろいろ整理してから、改めて話せたらいいと思う。
今日は、この話はここまでにしておこう。みんなには内緒だ」
そう言って、彬はお菓子をつまみながら学校の他愛ない話を少しする。
それから、その日は解散することにした。
とはいえ彼女は終始、首を縦か横に振るだけで、ほとんど声を発しない。
会話と呼べるものではなかったが。
別れ際、彬は一言付け加えた。
「一つだけ、さっきの件で。後ろだから気づいていないかもしれないけど、背中の傷、前にも同じことがあったのか、いくつか跡になっている。
さっきみたいに簡単にはいかないけど、きれいにすることもできるから、もし気が向いたら、声をかけて」
——他人にそこまでする必要はない。
そう思いながらも、あまりに多い傷跡を見て、思わず口にしてしまった。
彬は彼女の帰りを叉夜に尾行させ、住んでいる場所を突き止めた。
人通りが減る夜九時頃。
彬は叉夜とともに、真唯佳の自宅付近まで足を運ぶ。
家庭で日常的に傷をつけられているなど……。
彼女がどんな環境に置かれているのか、確認しておきたかった。
相当古い木造アパートに、親子三人で暮らしているらしい。
彬たちは、家から少し離れた木の枝に腰掛け、周囲を偵察していた。
そのとき。
背後からの視線に気づく。
振り向くと、近くの住宅の屋根の上に、こちらを見下ろす男が立っていた。
「こんな夜に子供が外出とは……悪い子にはお仕置きだ。大体、俺の姿を見て生きていられると思うなよ」
言い終えると同時に、屈強そうな男の掌から火の玉が飛んでくる。
彬は咄嗟に身を翻し、近くの民家の屋根へ飛び移った。
火球は空中で霧散する。
「逃がさねぇぜっ」
男は先ほどより大きな火球を投げつけてきた。
それはわずかに彬の横をかすめ、民家の庭先に落ちて着火する。
「おっと、手が滑った。だが俺が悪いんじゃねぇ。避けたお前らが悪いんだ」
男は悪びれもせず言い放つ。
ここ数日雨が降っていなかったのか、空気は乾燥していた。
火は瞬く間に燃え広がっていく。
そして——
真唯佳たちのアパートにも火が移り始めていた。
「人間を巻き込むなんて!」
彬は叫び、火事に気づいて集まり始めた人々の方へ向かおうとする。
「へっ、人間を助けようとするなんて馬鹿じゃないか?俺の火はそう簡単に消えないぜ。殺す手間が省けたわ。一緒に燃えてしまえ」
男はそう言い残し、さらに二、三発の火球を投げ込むと、その場を去っていった。




