過去 8
古い木造アパートの火災現場。
不自然なほど一気に燃え広がったその火事は、避難してきた住人と、騒ぎを聞きつけて集まった野次馬とで騒然としていた。
避難してきた住人の中に真唯佳の姿がないことを確認すると、彬は躊躇わず燃え盛る建物の中へ踏み込む。
万が一、彼女が探している姫で、ここで命を落とすようなことがあれば——。
自分の体の周囲には簡易の結界を張っている。
だが、すでに火が建物全体に回りきった状況では、長くは持たない。
早く見つけなければ、自分の命も危ない。
焦りながら次々と部屋の扉を開けていく。
——数十秒後。
彼の目の前に、信じられない光景が広がっていた。
真唯佳は燃え盛る建物の中で倒れていた。
気を失っているらしい。
しかし、彼女の体は淡い光に包まれており、その周囲だけ火が近づかない。
まるで炎が彼女を避けているかのようだった。
——間違いない。
探していた姫は、彼女だ。
そう確信すると同時に、彬は迷わず真唯佳を抱き上げ、瞬間移動で自宅近くまで離脱した。
叉夜に指示をして、先ほどの男に再び見つからないうちに車を手配させる。
そのまま郊外のキャンプ場方面へ車を走らせた。
そして、さらに遠くへ——。
最終的に、山奥にある一軒家を借りることに成功した。
数日後。
意識を取り戻した真唯佳に、火事のことを伝えた。
彼女の家は全焼したこと。
そして、両親は残念ながら助からなかったことを。
「私の方が死ねばよかったのに、なんで助けたの?あんな生活が続くぐらいなら、死にたかった」
そう言って彼女は激しく取り乱し、暴れ出した。
とても言葉で落ち着かせられる状態ではない。
力づくで押さえようにも手立てがない。
最終的に、彬は祖国から非常時用として持ち込んでいた麻酔銃の麻酔を流用し、彼女を眠らせることになった。
ニーベル国の上級貴族の肉体は、人間より遥かに強靭で、寿命も長い。
まして王家の血筋であれば、その生命力はなおさらだ。
手荒な方法だと分かってはいたが、やむを得なかった。
そして、ようやく彼女を落ち着かせることができた——
そう思ったのも束の間だった。
眠るたびに、火事の光景がそのまま再現されるらしい。
悪夢にうなされ、彼女はすぐに目を覚ましてしまう。
そして両親を救えなかった記憶を思い出しては、自分を傷つけようとする。
「どうせ死ぬのだから」と言って食事を拒む彼女に、半ば無理やり食事を取らせる日々が続いた。
火事の中では、彼女は無意識に自分を守る防御を展開していた。
深層心理では、死にたいどころか、生きようとしていたはずだ。
しかし人間界での悲惨な境遇のせいで、彼女はすっかり生きる意欲を失っていた。
もともと内向的な性格でもあり、この状況では自責の念から逃れられない。
このままでは、延々と彼女を宥め続ける日々が続くのではないか——
そんな錯覚を、彬は覚え始めていた。
“学院”では薬学を主専攻の一つとしていたため、当初は睡眠薬と精神安定剤を自ら調合し、彼女に服用させてその場を凌いでいた。
だが、この方法を続けても状況が改善していく未来がまったく想像できない。
正直、彬も叉夜も精神的に追い詰められていた。
そんな生活が数日続いた頃。
彼はある書物の内容を思い出す。
後天的に人格を生み出し、人為的に多重人格状態を作り出す方法。
それは「禁忌魔術一覧」といった題名の本で、かつて王家の図書館の奥で見つけたものだった。
普段は立ち入り禁止の区画の扉が、偶然施錠されていなかった。
本好きの彬はこっそり中に入り、その場で内容を読んで覚えてしまっていた。
多重人格障害を模倣するような行為は、倫理的にも法的にも明らかな禁忌である。
人為的に人格を生成するなど、他者に深刻な害を及ぼす可能性があるため、国でも明確に禁止されていた。
だが——
症状が持続的に続き、日常生活や対人関係に支障をきたしていること。
そして将来、彼女が直面するであろう"試練"を考えると、試す価値はあるのではないか。
そう考えてしまった。
数時間おきに彼女を宥め続ける生活に、正直、彬自身も疲弊していた。
判断力が鈍っていたのかもしれない。
それに加え、予言された戦術家として、自分の中にある異様なまでの好奇心——。
他人には理解されないであろうその衝動が、「こういう状況でこそ試すべきだ」と囁いていた。
若気の至りと言えば、それまでだった。
その術は、投薬と催眠術を組み合わせたものだった。
薬の材料は幸い、祖国から持ち込んだ薬品と、人間界で調達できた。
あとは書物の通り、真唯佳を催眠状態に導き、瞑想を行う。
それを数ヶ月以上、繰り返すだけでよい。
新しい薬を飲み始めてから、彼女は日中ぼんやりしていることが多くなった。
副作用の影響だろう。
だが、暴れることはなくなった。
夕食後、「眠りを良くするため」と称して、彬と向かい合い瞑想を行う。
それが、人格を定着させる儀式だった。
おかげで夜中の悪夢も減り、日中に「殺してほしい」と取り乱すこともなくなった。
以前使っていた睡眠薬や精神安定剤も、次第に必要なくなっていった。
ただ一つ、気になる点があるとすれば、禁忌の術を始めてからの彼女の様子だった。
目が合うたびに、異常なほど怯え、「ごめんなさい」と言って頭を抱えてうずくまる。
そのたびに、彬は咄嗟に声をかけていた。
「怒っていないよ。そんなに怖がらなくていい」
あの反応が、何によるものだったのか、今になって振り返っても、はっきりとは分からない。
家庭環境を考えれば、謝罪が条件反射のように出てしまう子供がいることは知識として知っていた。
あるいは、術の影響で情緒が不安定になっていた可能性もある。
それとも——
当時の自分の態度が、彼女にはよほど冷たいものに見えていたのかもしれない。
どれか一つの理由というより、いくつかの要因が重なっていたのだろうが、真相は分からない。
このことを本人に確認するつもりもないし、そもそも確認できる話でもない。
少なくとも一つだけ確かなのは、あの過程が決して順調だったわけではないということだ。
自分は、興味本位で嬉々としてあの術に取り組んでいたわけではない。
むしろ、振り返ればひどく後味の悪い経験だった。
あの頃の彼女も、自分も、どこか正常ではなかった。
ただ、それだけは確かだった。
彼女の生来の内向的な性格や、異常なまでに他人の言動を気にする様子を見るたびに、彬は思っていた。
自分の母のように、もう少し図太くなれば楽なのに、と。
真唯佳の新しい人格には、そうした自分の考えも、多少影響しているのかもしれない。
二週間ほど経つと、彬に対する怯えは次第に消え、日中に催眠術を施さなくても新しい人格が定着しつつある兆しが見えてきた。
そこで催眠用の投薬はやめ、特殊な術を併用した夜の瞑想だけを日課として続けることにした。
今になって振り返ると——
当初は錯乱状態を抑えるという大義名分のもとで始めたことだったが、本当に必要だったのかは分からない。
叉夜には、強い薬だけに頼るのではなく、術を併用して精神の安定を図ると説明していた。
まさか別人格を形成しているとは、思ってもいないだろう。
結果として術は成功し、新しい人格も定着した。
彼女は現在のところ、安定した精神状態で日々を過ごしている。
だが、もし失敗していたら——
王家の姫君に禁忌の術を行使したこと、しかもそれが人体実験と見なされた場合、彬にどのような処罰が下されるのか、想像もつかなかった。
騎士としての任務を果たすためだったと正当化しても、あるいは軍トップである父の権力で弁護してもらったとしても、限界はあるだろう。
このことは、きっと誰にも話さず、墓場まで持っていく。
それが自分の抱える闇の部分だ。
幸いなことに、この世界ではまだ化けの皮は剥がれていない。
「……いい奴、とは程遠いな」
そう呟きながら、彬は図書館の扉をくぐった。




