過去 5
町から数十キロ離れた山里の古い民家。
笹薙君と、世話役の叉夜さんと、三人での暮らしが二ヶ月ほど続いた。
ある日、窓の外から何かの音が聞こえてきていることに気づく。
ミーン、ミーン、ジジジ……
蝉だった。
その声が、やけに大きく聞こえた。
一瞬、何も考えられなくなる。
ただ、夏の音だけが耳に残った。
そういえば、やけに蒸し暑い。
部屋の空気が、少し重たい気がする。
ここへ来てから、どれくらい経ったのだろう。
ふと、そんなことを考える。
それまで一歩も外に出ていなかったのに、その日はなぜか庭に出てみたくなった。
縁側から外へ降りる。
日差しが強い。
庭の木々は、いつの間にか濃い緑になっていた。
ここへ来た頃は、もっと涼しい季節だった気がする。
——いつの間にか、夏になっていた。
その瞬間、急に時間の流れを感じた。
自分は、その間ずっとここにいた。
何もしていないと思っていたのに、それでも毎日が過ぎていた。
そのときだった。
「外に出るのは、初めてじゃない?」
声がして振り向く。
庭の端に、笹薙君がいた。
本を片手に、いつもと同じ落ち着いた様子でこちらを見ている。
驚いた様子はなく、とても自然体だった。
「……うん」
久しぶりに声を出した気がした。
蝉の声が、さっきより大きく聞こえる。
少し沈黙があってから、笹薙君が言った。
「——今日は、特に暑いね」
まるで、いつもの会話みたいに。
その言い方が妙に自然で、自分が今までずっと部屋に閉じこもっていたことが、特別なことではないみたいに思えた。
蝉の声を聞きながら、ふと思う。
自分は——
ずっと、生きていた。
そして、これからも生きていくのかもしれない。
気づかないうちに、日常生活が送れるくらいには、心も体も回復していたのだった。
それからしばらくして、笹薙君たちは改めて事情を説明してくれた。
二人は、この世界の人間ではないこと。
ある理由で、特別な力を持つ少女を探していたこと。
その子が、どうやら私らしいということ。
当時の私には、細かい話はあまり理解できなかった。
ただ、自分が普通の人とは少し違うらしい、ということだけは分かった。
そして——
これからどうするかは、すぐに決めなくていいと言われた。
親戚を探すこともできるし、別の場所で暮らす方法もある。
ただ、それまではこの家にいてもいい、と。
そんなふうに言われた気がする。
どうすればいいのか、自分でもよく分からなかった。少なくとも私には、頼れる親戚の心当たりがなかった。
母は昔、遠くの土地から駆け落ちしてきたと言っていた。
それが本当なら、元の家族とは縁が切れているはずだ。
家も焼けてしまった今、手がかりを探すのは難しい。
だから私は、そのまま二人と暮らすことを選んだ。
その後しばらくして、私たちはこの山里を離れて別の町へ移ることになった。
ここは静かだけれど、生活するには少し不便だから、と笹薙君が言っていた気がする。
この先も生きていくんだと思った時、一つだけ、決めたことがある。
背中の傷は消さないことにした。
笹薙君は、古い傷も綺麗に治せると言ってくれた。
でも、それは断った。
もし全部消してしまったら、育ての親が生きていた証までなくなってしまう気がしたからだ。
この傷がある限り、忘れないと思った。
そうして、4年の2学期から、今の家の通学区の公立小学校に通学することになる。
穏やかな性格で勉強も運動も卒なくこなす笹薙君は、学校生活にすぐに馴染んだ。
だけど私は、以前より明るい性格にはなったものの、自分をうまく表現できずにいた。
当時はまだ、精神の安定を目的に就寝前の瞑想が欠かせず、学校でも浮いた存在になっていた。
その事を気にした笹薙君は、中学は少し離れた私立の学校に進学することに決める。
入学後、たまたま真唯佳と同じクラスとなった女子に話しかけられる。
同じ小学校出身で彼女は1組、笹薙君が2組、真唯佳が3組だったらしいけど、私たちの存在は知っていた。
実は転校後から二人は注目をされていたものの、卒業まで接触する機会もなく、同じ学校に進学して嬉しいと女学生に言われた。
また、初等科から持ち上がりで、女学生の幼稚園時代の幼馴染だった男友達を紹介してもらう。
それ以来、4人は仲良くして今に至る。
――――――――――
見覚えのある見覚えのある地名を目にして、ふと過去を思い出してしまい、真唯佳は少しだけ憂鬱な気分になった。
けれど結局、あの町を離れてよかったのだと思う。
今さら戻りたいとも思わない。
赤の他人のはずなのに、ずっと面倒を見てくれている彬たちには感謝している。
そして、中学で友達になった鈴乃と絢祐の存在にも、何度も救われてきた気がする。
泳ぎはあまり得意ではない。
それでも、あの町に近づくのは気が進まなかった。
真唯佳は海辺の宿泊施設に印をつけ、アンケート用紙を提出することにした。
――――――――――
彬は帰宅すると、自室でニーベル国の衣装を脱ぎ、人間界での服に着替える。
朝は晴れていたはずなのに、いつの間にか雨になっていた。
机の椅子に腰を下ろし、小さく息を吐く。
袖机の上には、母が渡してきた見合い写真が山のように積まれていた。
一枚、手に取る。
“今は乗り気でなくても、付き合っていればきっと好きになりますよ”
母の言葉を思い出す。
好きだから一緒にいるのではなく、一緒にいるうちに好きになっていく。
……そういうものなのだろうか。
もし本当にそうなら、ずいぶんと楽な話だ。
少なくとも、今の自分のように感情の扱いに悩む必要はない。
ふと窓の外を見る。
雨音が静かに続いている。
その音を聞いているうちに、昔の記憶が浮かんだ。
しとしとと雨が降る夜だった。
度重なるアクシデントの末、滅多に怒らない自分が、思わず彼女を叱責してしまった。
その後、勇気を振り絞るようにして声をかけてきた彼女。
怒りを解こうとする、その健気さに心が揺れた。
思わず抱き寄せそうになり——
慌てて頭を撫でる仕草で誤魔化した。
彼女が立ち去ったあと、触れたばかりの右手のひらを見つめながら思った。
これはまずいな……。
そう呟き、手を下ろして目を閉じた。
雨音に耳を澄ませながら、その日のことを思い出す。
あの時点で、分かっていたはずだった。
この感情は、持っていても意味がない。
それでもここまで引きずってしまったのは、自分にしては珍しい判断ミスだったのかもしれない。
学校での周囲の女子生徒の視線を思い出す。
期待、憧れ、興味。
けれど、そのどれもが自分の外側に向けられていた——"仮面”の方だ。
……一人だけ、違う人がいた。
だからこそ、いけないというのは、合理的に考えれば分かることだ。
机の上の見合い写真に視線を戻す。
……もう、こんな想いは終わりにしなければならない。




