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過去 3

「きったねー、近寄るなっ」


市立小学校の四年生の教室。休み時間。

男子のグループが、席に座っている一人の女子に向かって声を投げた。


「雑巾やるから自分で掃除しな」

机の上に、使用済みの濡れた雑巾が投げられる。

水を含んで重く、机の端から滑り落ちて床に広がった。


「ほら、ちゃんと拭けよ」

靴の先で雑巾を押し付けるように蹴られる。


周りの児童は、また始まったという顔で見ている。

笑う者、興味なさそうに視線だけ向ける者。

止める者はいない。


真唯佳(まゆか)はゆっくり立ち上がる。

雑巾を拾うために屈んだ瞬間、背中の奥がずきりと痛んだ。

昨日の傷がまだ乾ききっていない。

顔には出さず、そのまま雑巾を拾う。

次の授業の邪魔になるので、廊下のシンクで洗って干すことにした。


すれ違いざま、別の男子が鼻をつまんで言う。

「風呂入ってねぇんだろ。くっせぇんだよ」

数人が笑う。

真唯佳は何も言わない。

昨日は、傷が痛くて湯船に入れなかったからだ。


帰宅しても、やることは特にない。

自分の部屋で静かにしている。

家は木造の平屋の連棟住宅——長屋と呼んだ方が近い。

壁は薄く、隣の家のテレビの音や、食器の音まで聞こえてくる。

居間兼食堂では、母親が内職をしている。


夕食の時間、父親が帰ってきた。

ギャンブルで負けたらしく、機嫌が悪い。

酒の匂いを漂わせながら母親に怒鳴りつけ、そのまま手が出る。

物が倒れる音。

母親の短い悲鳴。


真唯佳と目が合った。

「何見てんだ!」

頬に平手打ちが飛ぶ。

体勢が傾き、思わず手を床につく。

間髪入れず、父親は箪笥の側からベルトを持ち出した。

何度か振り下ろされたが、真唯佳は声を上げなかった。


夕食の時間が長引くと機嫌がさらに悪くなることを知っている。

黙って食事をかき込み、終わるとすぐに部屋へ戻った。


しばらくすると、襖の向こうから父親の笑い声が聞こえてきた。

テレビの野球中継らしい。

応援しているチームが勝っているのだろう。

さっきまでの怒鳴り声が嘘のように機嫌が良くなっている。


昨日入れなかった風呂に入るべきか——。

そう思って立ち上がりかけるが、背中がじんと痛む。

服が擦れるだけでも、少しだけ熱を持ったように感じる。

今日もやめておこう。

机に向かい、宿題のノートを開く。


小さい頃の父親は、こんな人ではなかった気がする。

いつの間にか仕事をしなくなり、酒の匂いが消えなくなった。

そして小学校に入ってしばらくしてから、幼稚園ではなかったいじめが始まった。


最初は数人のからかいだった。

それが、気がつけばクラスの空気になった。

担任も見て見ぬふり。

いつからか、それが当たり前の生活になった。


明日、家でも学校でも何も起きずに一日が終わるだろうか。

考えるのは、それだけだ。


透明人間になれたらいいのに、と本気で思うこともある。

四年生のクラス替えのとき、最初の一ヶ月だけは静かな日々だった。

だが以前のクラスの数人が同じクラスにいるので、からかいはまた始まり、気がつけばクラス全体の空気になっていた。


五年生になれば——

六年生になれば——

中学校に進学すれば——変わるのだろうか。

想像がつかない。


ただ、今は——

机に向かって、ノートに鉛筆を走らせるだけだった。


集中していなかったせいか、手が滑り鉛筆が転がっていってしまう。

先ほど、父親にしつけと称して背中をベルトで叩かれたところが痛む。

腕を伸ばすのが嫌で、逆にこっちに転がってくるように念じたところ……

なんと、止まっていたはずの鉛筆が自分のところまで戻ってくる。

我が目を疑う。


え、もう一度!

と思い、再度鉛筆を転がして同じ事を試そうとしたところ……


いきなり、壁の向こう側からズンズンズンと音が鳴り出す。

きっとお隣さんが、急に音量を上げでお気に入りの曲を聞き出したのだ。

そしてうっすらと歌声も聞こえてくる。


——うっせぇなあ!!

その音に気づいたのか、隣室の父親が怒鳴り始めている。


とてもじゃ無いが、集中して宿題をする状況ではなかった。

ましてや、遠くにある鉛筆を、気力だけで動かすなんて……

家だと親や隣の家の音が気になるので、明日学校でやってみようと思った。



――――――――――



翌日の放課後


帰りの会が終了してだれもいなくなったところに、忘れ物を取りに来たという名目で真唯佳は教室に戻る。

誰もいない教室は、妙に落ち着く。

——いつまでもここにいたい。

だけど、いつ何時誰かが来るとも限らないので、早速目的を達成しようとする。

そこで、チョークが粉受けから浮かせられるか試す。


できた!10センチほど浮いている!

ガラガラガラっ


急に扉が開く音がし、パリーンっと、チョークが落ちて割れる音だけが響く。

み、見られた……!!

どうしていいかわからず混乱してしまい、真唯佳は思わず駆け足で教室を飛び出した。

扉を開けたのは同じクラスの、笹薙(ささなぎ)君だった。



――――――――――



翌朝


憂鬱ながらも、遅刻ギリギリで登校する。

笹薙君は確か、いつもからかってくるグループではないので、運がよければいつも通り、クラス全員から空気のように扱われるだけ。

運が悪ければ、昨日の話をネタに、クラス全員から注目の的だ。


だけど……と思う。

笹薙君??

クラスメイトなのは、知っているのだが——

誰と仲がいいとか、頭が良いとか運動神経が良いとかクラスの人気者とか……そういう特徴が、一切、思い出せなかった。


結局クラスの雰囲気は、いつも通りだったので安堵する。


授業中、小さく折り畳まれたメモが、いつの間にか真唯佳の机の上にあることに気づいた。

新手のいじめかと思いながらも、誰にも見られないようそっと紙片を開く。

「昨日のことで話があるから、放課後に家に来て」

そう書いてあった。

宛名はない。


けれど文面から察するに、少し離れて斜め前に座っている笹薙君からだろうと思った。

いつの間に机に置いたのかと不思議に思い、そっと彼の方を見る。

ちょうどそのタイミングで、笹薙君がこちらをちらりと見た。

一瞬だけ目が合い、すぐに何事もなかったように黒板へ視線を戻してしまう。


放課後まで、行くべきかどうかずっと迷っていた。

人に話しかけるのは怖い。

それがクラスメイトなら、なおさらだ。

だけど行かなかったせいで、学校で変な噂を立てられる方が、もっと怖い気もした。

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