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邂逅 9

学校内の食堂


食事を終えた真唯佳(まゆか)は、出口へ向かいながら、思考が巡っていた。


——愛って何だろう。

実の親にさえ、愛された記憶はない。

育ての親は——

そこまで考えた瞬間、背中にびりっと電流が走るような痛みが走った。

思考が、強制的に断ち切られる。


「真唯佳」

痛みが走った直後、不意に彬に呼ばれる。

顔を上げると、彼は静かに首を横に振っていた。

「泣きそうな顔になっている」

低い声で、淡々と。

その指摘に、はっとする。

自分でも気づかないうちに、過去に引き戻されていたのだ。


慌てて思考を断ち切ろうとする。

だが背中の奥がひりつくように疼き、呼吸が浅くなる。

肺がうまく膨らまない。

その変化を、彬は見逃さなかった。


すっと距離を詰め、真唯佳の背にそっと手を置く。

何も言わないまま、ゆっくりと、何度か優しく撫でる。

その温もりが、張り詰めていた神経を少しずつ緩めていく。

背中の痛みが和らぎ、浅くなっていた呼吸が整い始める。

一度、二度、深く息を吸い、吐く。

……だいぶ楽になった。


彬の方へ向き直り、もう大丈夫、と言おうとする。

けれど——


彼の視線は、真唯佳ではなく、その後方へ向けられていた。

「どうしたの?」

問いかけると、彬は一瞬だけ視線を戻し、いつも通りの顔を作る。


「なんでもない。行こうか」

そう言って、背中をさすっていた手を離した。

まるで、何もなかったかのように。

先に出口に行ってしまった鈴乃たちに追いつこうと足早に歩くので、真唯佳はそれに合わせて早足で食堂を後にする。


そんな二人を、食器返却口付近の柱の向こうから見つめる黒い影があった。



――――――――――



午後4時、学校のグラウンド


真唯佳は、いつも通り部活に参加し、ウォーミングアップを始めたものの、胸の奥が妙にざわついている。


数日前から新入生が見学に来ているせいで、部の空気がいつもと少し違う。そう思えば説明はつく。

陸上部は決して花形ではないが、ここ数年まったく新入部員がいないというわけでもない。

本日も男女それぞれ数名の一年生が、ぎこちない様子でストレッチの輪に加わっている。


けれど——

落ち着かない理由は、それだけではない気がした。

ここ最近、物陰から視線を感じることがある。

思い過ごしだと自分に言い聞かせてきたが、今も確かに、少し離れた校舎の陰からこちらを見ている気配があった。


真唯佳はさりげなく倉庫へ器具を取りに行くふりをして輪を抜ける。

そのまま校舎をぐるりと回り込み、気配の背後へと忍び寄った。

黒い影の人物は、観察していた対象を見失ったらしく、校舎の陰から半歩前に出て、グラウンドの方へ視線を向けている。


「誰か探してるの?」

背後から、わざと親しげに声をかける。

「わぁっ!!」

影は飛び上がるように振り返った。

蒼だ。


「びっくりしたなぁ、もう! 全然気づかなかったよ……」

彼は胸に手を当て、ほっとしたように息をつく。

「ちょっと息を殺してただけなのに、そんなに驚くなんて。よっぽど何かに集中してたのね?」

してやったり、という顔で真唯佳はにっこりと笑った。


「集中していたわけではないけど……」

「陸上部に興味あるの?」

「陸上部だけではなく、なんだかいろんな部活があるので見学したいけど、新入生に混じって話を聞くのが恥ずかしくて……ほら、ボクちゃんシャイだから」

そう、恥ずかしそうにクネクネしながら蒼が答える。

その仕草はかなり白々しいが、今学期は2年の転校生は一人。

確かに部活見学は勇気がいるかもしれない。


「なるほどね。そういうことなら遠くから見ているのも納得だけど、興味があったら声をかけてみたら?陸上部以外でも気になるところを教えてくれたら、私から部員の子を紹介してあげれるかもしれないし。」

そう説明しながら、あまり長時間いなくなるのもいけない。

「そろそろ戻るね、じゃ」と言って、手を振って、見送っている蒼の元を離れる真唯佳。


真唯佳は一人で歩きながら、ぼそりと呟く。

視線を感じたと思ったら、蒼君だった。

でも、別に自分だけを見ていたわけでもなさそうだし。


最近やけに視線が気になる。

狙われているかも、なんて考えすぎなのかもしれない。

そう自分に言い聞かせる。

少し落ち着かない空気を振り払うように、部活に集中することにした。


「真唯佳、最近調子いいな」

全体練習が終わり、新入生向けの見学会も終わったあと、先輩が声をかけてくる。

「前は短距離向きだと思ってたけど、長距離のタイムも伸びてきてるぞ」


そういえば——

最近、長い距離を走ってもほとんど疲れない。

記録表を見せてもらうと、すでに部の最高記録を更新している。

それでも、まだ伸ばせる気がする。

なんでだろう。

今日は体も軽い。大会も近い。

少しだけ居残って、自分の限界を試してみようか。

そんな考えが、自然と浮かんだ。


一時間後。

片付けが終わり、皆が帰ったあと、真唯佳は一人でグラウンドに戻る。

無意識に周囲のペースに合わせて走っていた気がする。

でも、本当の自分の限界は——どこだろう。


スタートラインに立つ。

深く息を吸い、200メートルを一気に駆け抜ける。

ゴール。


ストップウォッチに目を落とし、息が止まった。

21秒台。

自分でボタンを押しているから、多少の誤差はある。

それでも——速すぎる。

中学生の平均とは明らかに違う。

しかも、まだ余力がある。


息は軽く上がる程度。

脚も重くない。

もっと速く走れる。

胸の奥が、ぞくりとする。

じゃあ、長距離は?


そう思い立ち、真唯佳は校舎の間を巡るジョギングコースへと足を向けた。

夕方の風が頬をかすめる。

無意識のうちに、歩幅が広がっていた。



――――――――――



「真唯佳が、帰ってきていない?」

夜の7時。

部活が終わって帰宅した彬を玄関先で迎えた叉夜(さや)から、心配そうに状況を報告され、そう聞き返す。

バスケ部の彬は、放課後はグラウンドから離れた体育館に直行するので、陸上部の終了のタイミングがわからない。

帰宅時に運動場付近まで遠回りをし、人がいそうな時は駅でタイミングを合わせて真唯佳と一緒に帰宅するようにしていた。

彼女が早い場合、絢祐(けんすけ)が自宅の最寄駅の一つ前まで一緒で、可能な限り駅まで叉夜(さや)が迎えに行っていたのだ。


「ちょっと確認する」

そう言って彬は携帯電話を取り出して、絢祐に質問をする。

「まずいな……、今日は自主練をしたいと言ったらしく、絢祐とは帰っていないらしい」

文字を入力しながら呟く彬。

ちょっと探してくる、そう言い残し、荷物を玄関に置いて再び外に出た。



――――――――――



翠陵学園(すいりょうがくえん)の中等部には、長距離専用のランニングコースはない。

代わりに、学内の歩道を活用した一周一キロの周回コースが設定されている。


真唯佳は、かれこれ二十分ほど走り続けていた。


走り始めた頃は、帰宅途中の生徒たちと何人かすれ違った。

だが七周目ともなると、人影はまばらになる。


呼吸はそれなりに弾んでいる。

それでも、足は重くない。

疲労困憊、というほどではない。

——まだいける。


そんな感覚が、どこか他人事のように胸にある。

もう少し走ったら切り上げようか。

さすがにくたくたで帰るのはまずいかもしれない。

街灯は点き始めているが、辺りはゆっくりと夜の色に染まりつつある。


そんなことを考えていると、中庭付近で守衛とすれ違った。

軽く会釈をする。


守衛も見回り中なのだろう。

もしかすると、そろそろ門の施錠が始まるかもしれない。

そう思いながら、コースに沿って角を曲がる。


——その瞬間。

心臓が、ひやりとした。


先ほど、確かにすれ違ったはずの守衛が、進行方向、二十メートルほど先に立っている。

街灯に照らされ、影が長く伸びていた。

立ち位置も、姿勢も、さっきと同じ。


ただ、こちらを見ていた。


あれ、すれ違ったはずの守衛さんが目の前にいる……?

何か嫌な予感がして立ち止まり、後退りをする真唯佳。

そこで周りに誰もいないことに気づき、同時に、彬から「一人になるな」と言われたことを思い出す。


なんで居残りするなんて思いついたんだろう……私のバカ!


守衛と目が合うと、彼は不気味な笑みを浮かべた。

流石に様子がおかしい。


慌てて、来た道を引き返したところ、50センチくらいの黒い円がスーッと自分の足元を通り過ぎる。

真唯佳を5メートルほど追い越したあたりでピタッと止まり、地面のその円から守衛が現れた。

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