邂逅 8
翠陵学園中学 地理資料室
あれぇ、何これ。
真唯佳が、クラスの女子生徒二人と連れ立って足を運んだ資料室。
始業式からおよそ二週間。
新学年の学年集会や健康診断といった行事もあらかた終わり、授業も本格的に動き始めた、そんなある日。
担当教師から、次の時間で使用する地図や地球儀をあらかじめ運んでおくよう頼まれ、三人は休み時間を使って資料室を訪れた。
本来なら、壁際の棚に世界地図や地形模型、地球儀などが整然と収められているはずだった。
しかし——扉を開けた瞬間、三人は思わず足を止める。
机の上に、大小さまざまな模型が無造作に置き散らされていたのだ。地球儀は横倒しになり、山脈模型は端に追いやられ、引き出しは半ば開いたままになっている。
「前に使った人が、片付けないでそのままにしたのかな?」
ひとりが眉をひそめながら呟く。
「そういえば……噂だけど、この前は家庭科室でも似たようなことがあったらしいわ」
もうひとりが声を潜める。
「似たようなことって?」
真唯佳が思わず問い返す。
「調理道具や食器が、作業台やシンクに出しっぱなしだったんですって」
彼女は少しだけ間を置いてから答える。
「ええ、なにそれ……変なの。そんなこと、今まで一度もなかったのに。」
「片付け方を知らない一年生でも入ったのかしら」
どこか落ち着かない空気が、室内に漂う。
(急いでるし、このまま必要なものだけ持って戻りたいけど……さすがに放ってはおけないよね)
そう思い直し、真唯佳は散らばった教材のいくつかを抱え、棚へ戻そうと手を伸ばした。
——だが。
「え?」
棚板が外され、立てかけられている。これでは収納そのものができない。
「何これ、しまえないじゃない。先生がわざと出してたとか?」
首をかしげる声に、もう一人が周囲を見回しながら言う。
「とりあえず、今使う分だけ教室に運ぼう。先生に事情を話さないと。これじゃ片付けようがないもの」
三人は顔を見合わせ、小さくうなずく。
そして地図や地球儀をいくつか抱え、足早に資料室を後にした。
扉が閉まる。
静まり返った室内。
かすかに揺れるカーテンの陰に——
その様子を、じっと見つめている影があった。
――――――――――
「なんか、そんな話……私も聞いたことあるかも」
翌日のランチタイム。
食堂の窓際にある四人掛けの丸テーブルを確保し、真唯佳と鈴乃は向かい合って昼食を広げていた。
移動教室の予定が重ならない日は、こうして食堂で待ち合わせをするのが二人の習慣だ。
ざわめく昼の食堂、差し込むやわらかな光。
その中で、昨日の資料室での出来事を打ち明けたところだった。
「私が聞いたのはね、英語のLL教室の話なんだけど」
鈴乃はスープを一口飲み、声をひそめる。
「コードが全部抜けてたらしいの。机の端末から音が出なくて、授業にならなかったって」
「コードが?……それって、点検の途中だったとかじゃないのかな。そうなら、使用禁止の張り紙くらい欲しいよね」
真唯佳は首を傾げる。
偶然にしては妙だが、悪意があるとも断定できない。
そのとき。
「ヨォ、お二人さん。相席いい?」
背後から軽い調子の声が降ってきた。
振り返ると、トレーを手にした絢祐が立っている。その隣には、彬の姿もあった。
「どうぞどうぞ」
鈴乃がそう言い終わらないうちに、真唯佳の左隣の席に絢祐がトレーを置く。
「二人で話していたところ邪魔して悪いね、混んできたからなかなか席が見つからなくて」
そう言って、真唯佳の右隣の椅子に腰をかける彬。
「大した話じゃないんだけどね。最近、教室の備品が妙に荒れてるっていうか……」
真唯佳がそう言うと、彬はわずかに眉を寄せた。
「荒れている?誰かが授業妨害をしているの?」
声音は落ち着いているが、どこか警戒を含んでいる。
「そういうのじゃなくて。ほら、ケンちゃん。」
真唯佳はクラスメイトに話しかける。
「昨日の地理の授業前、私たちが教材を取りに行ったとき、模型が机の上に散らばってたでしょ?先生に伝えたら、すごく怪訝そうな顔してたじゃない」
「あー、あったあった」
真唯佳の説明にカツ丼を頬張りながら絢祐が同調する。
「俺も似たようなの見たぜ。この前さ、廊下にサブローが寝転がってて」
「サブロー?」
きょとんとした鈴乃に、彼は当たり前のように言い直す。
「生物室の骸骨模型だよ」
「ああ……サブロウさん!」
ようやく合点がいったらしい。
三郎——それはこの学園の開祖、陣内三郎の名である。
そして生物室の人体骨格模型は、畏れ多くもその名を拝借し、「サブロウ」と呼ばれていた。
「サブロウ様が、なんて目に……」
鈴乃は冗談めかしつつも目を丸くする。
「そんな不届き者がいるってこと?」
そう聞く真唯佳。
「俺さ、マジでビビったんだって。夕方に忘れ物取りに行ったら、骸骨が廊下に寝てるんだぜ?」
箸を持ったまま、身振りを交えてまくしたてる。
「床と同じような色してるから、遠目だと分かりにくいし。視界の端に白いのが見えた瞬間、心臓止まるかと思ったわ。」
饒舌に話を続ける絢祐。
「誰かのタチの悪いイタズラだろうってさ、他にも被害者が出たら困るから、生物室に戻そうとしたんだよ」
そこで彼はわざとらしく間を置く。
「——そしたら、スタンドがなくなってて、立てられなかったんだ」
「えぇ……」
思わず一同が声を揃える。
「仕方ないからさ、教卓の上に安置して、生物の先生に報告しといたけどさ」
肩をすくめる彼に、真唯佳がぽつりと続ける。
「なんか、少しずつ備品が消えてる感じだよね。私たちのときは、地理資料室の棚を支える金具が外されてて、棚板が床に置かれてたの。だから模型が戻せなかったの」
偶然にしては、妙に手が込んでいる。
食堂のざわめきの中で、四人の間だけが、わずかに温度を失った。
「そもそも放課後に準備室の鍵が開いてるのなんて、不用心ね」
鈴乃も同調する。
「不思議だね」
話しながら、真唯佳は食堂中央の柱に掛けられた時計へ目をやった。
「みんな食べ終わってるし、そろそろ教室に行こう」
真唯佳の視線に気づいた鈴乃がそう声をかけ、四人はそれぞれトレイを手に立ち上がる。
真唯佳は三番目に続き、机の間の通路を歩き出した。
そのとき、視界の端に見覚えのあるピンクのバレッタが飛び込んでくる。
——1年の望月さん。
ちょうど自分の後ろに彬がいるせいか、彼女は真っ直ぐこちらを向いていた。
大きな、くりっとした黒い瞳。可愛らしい雰囲気の子だ。
だが一瞬目が合った途端、空気が変わる。
自分が彬と一緒にいるのが気に入らないのか、睨まれている。
——ような気がして、思わず足が止まる。
(気にするな)
その声が、はっきりと脳裏に響いた。
驚いて少し振り返る。
だが騒がしい食堂、この距離で声が届くはずがない。周囲の誰も反応していない。
——直接、話しかけてきたのだ。
(早く進んで)
再び声が届き、真唯佳ははっとして前を行く友人に追いつこうと足を速める。
よく考えれば、アリサは自分が立ち聞きしていたことなど知らない。
気にする必要はない。
普段なら、他人の視線など意に介さないはずなのに。
どうして今は、こんなにも引っかかるのだろう。
返却口で彬と並ぶ。
トレイを置きながら、真唯佳は小さく呟いた。
「……鈴ちゃんに誘われたとはいえ、立ち聞きして、ちょっと後悔してる」
ちらりと視線を向ける。
彬は穏やかな表情でこちらを見ていた。
怒っているわけではない。
むしろ、あのときのことを責める気など最初からない、とでも言いたげな静かな目。
あれ以来、なんとなく話しかけづらくなっていた。
責められたわけでもないのに、自分の方が距離を取っていたのだ。
彼は何も言わない。だが、その沈黙から優しさが滲んでいる。
——ほんと、いい人だよね。
ふと、そんなことを思う。
出来すぎている。
良家の御子息で、優秀で、冷静で。
こんな人に想われている女性って、誰なんだろう。
その一方で、自分は——。
食堂の出口へ向かいながら、思考が巡る。
彼は素晴らしい人だ。
でもただの同居人。
好きとか、そういうのとは違う。
——そもそも、愛って何だろう。
実の親にさえ、愛された記憶はない。
育ての親は——
そこまで考えた瞬間、背中にびりっと電流が走るような痛みが走った。




