邂逅 7
新学期の慣れない緊張がやわらぎ、新しい日常が形になり始めていたある日。
「ぶ、か、つ、だ、ぞ」
そう軽やかに言いながら、授業後、真唯佳は中等部のグラウンドそばにある運動系の部室棟に行こうと、校舎の脇道を歩いているところだった。
脇道のフェンスがあるところの植え込みに、しゃがみこんでいる女子学生がいるのだが……明らかに見覚えのある後ろ姿。
鈴乃である。
「何してるのー?」
と声をかけようとした途端、片方の手で自分の口元に人差し指を立ててしぃっと言いつつ、もう片方の手で真唯佳の口を塞いだ後、強引に引っ張られて二人でしゃがみ込む。
(今いいところなんだから)
そう耳元に小声でしゃべられ、ツツジの生垣よりも小さくしゃがんだまま金網フェンスの向こう側を覗くと、ひと組の男女が見えた。
女子学生の方は、こちらに背を向けて立っているので誰だかわからない。
肩までの髪をハーフアップにして、ピンクの桜のモチーフのバレッタをしている。
制服が多少大きそうで、まだくたびれておらず、一年生かもしれないと想像してみる。
その一方で男子学生の方は、はっきり分かった。
バスケ部の青いジャージに身を包んだ彬である。
(えーーー、ドゆこと、ドゆこと??)
自分の口を両手で塞ぎながら、鈴乃に小声で質問する。
「あの子、一年の望月アリサ、初等部からの持ち上がりよ。
6年の頃から彬くんに目をつけていたらしく、入学して早々、アプローチしてるのよ。
何て図々しい子。彬くんがモテるの知っているから、早速攻めてきたのね」
彬すごーい。そして、鈴ちゃんの情報網もすごーい。
そう思ってすぐに、頭を横にブンブン振る真唯佳。
感心している場合じゃない。彬、どうするんだろう。
「好きなんです!」
やや甲高い声が、校舎裏に響いた。
声の主であるアリサ。胸の前でぎゅっと拳を握っている。緊張で指先が白くなっていた。
「ごめん」
即答だった。
その後数秒の沈黙。
その無音が、かえって残酷だった。
「なんでですか。彼女さんがいるんですか?」
食い下がる声。
だが木陰に潜んでいる真唯佳と鈴乃、そしてこのやり取りを遠巻きに気にしている学年中の生徒は、ある種の“安心”を抱いていた。
——理由はともかく、どうせ断る。
数ヶ月前のバレンタイン。
彼は、靴箱に詰め込まれたチョコレートを一つも受け取らなかった。
その場で全て袋にまとめ、淡々と返し切った男だ。
だから今日も、結果は同じ。
そう思っていた。
「付き合っている人はいないけど」
「じゃあ、私を振る理由はないですよね?」
真っ直ぐな視線。逃げ道はない。
彬は一瞬、黙った。
そのまま前を向いている——ように見えて、ほんの刹那だけ、視線が横へ流れる。
小さく息を吸い込み、彼ははっきりと言った。
「好きな人が、いるから」
空気が止まる。
金網の向こうで、誰かが小さく息を呑んだ。
「だから、ごめん」
声は静かで、揺らぎがない。
アリサの肩が震える。数秒、唇を噛みしめた。
「……でも、私、諦めませんから!」
そう言って彼の横をすり抜け、駆け去っていった。
「——悪趣味だな、二人とも」
足音が遠ざかるのを確認してから、彬は先ほどよりも少し大きめの声で、ゆっくりとそう話し出す。
わざと届くように。
「あらやだ、気づいてたの?」
ひょい、と立ち上がる鈴乃。悪びれた様子はない。
つられて、真唯佳も立ち上がる。
「それにしても、手堅い方法で振ったわね。好きな人がいるなんて言われたら、当分近寄りにくいわ。でもそんな嘘、すぐバレるんじゃない?」
鈴乃のからかう声。
一瞬の間。
「嘘じゃない」
——え?
「実ることはないけど」
それだけ言うと、彬は背中を向けた。
感情を乗せない声音。
「部活があるから」
素っ気なく付け足し、スタスタと歩き出す。
追いかけたい。
“誰なのよ”と問い詰めたい。
だが——
彼は、金網フェンスの向こう側。
物理的な境界線。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
鈴乃が叫んでも、彼は振り返らない。
最初から、逃げ切れる位置に立っているとわかっての行動。
鈴乃は無意識にフェンスへ手を伸ばし、その冷たい金属に触れたまま、遠ざかる背中を見つめる。
「えー、彬くんの好きな人誰なのよ、教えなさいよ」
彬が去った後、横にいた真唯佳にぐいっと詰め寄る鈴乃。
「こっちこそ聞きたいよ、鈴ちゃん知ってるんじゃないの?」
「そんなの、一緒に住んでいる人の方が知っているに決まってるじゃないの」
二人で向かい合いながら両手をガシッと握ってブンブン上下に振りながら、お互い興奮したまま質問し合っていた。
――――――――――
「え?彬の好きな人?」
あの後すぐにジャージに着替えた真唯佳がグラウンドに行くと、先にウォーミングアップをしていた絢祐がいたので、先程の顛末を伝えて質問をする。
「てかあいつ、女に興味あんの?」
背中をぐいっと伸ばしながら、絢祐が呆れたように言う。
「三度の飯より本が好きなのに?」
「でしょ。家でもそうだよ。テレビとかネットで可愛い子が出てきても、ほんと無反応」
真唯佳が肩をすくめる。
「あれじゃねーの、分厚い辞書の巻頭にある肖像画とかにしか興味がないとか。一応“人”だぜ?」
わざとらしく眉を上げる絢祐。
「……それはそれで面白いけど」
真唯佳は一瞬、本当に想像してしまう。
分厚い辞書を開いて、真顔で肖像画を見つめる彬。
——やりかねない。
思わず口元が緩む。
「でもさ、マジで想像つかねーよな。好きな人がいるとか言い出すタイプじゃなくね?」
その言葉に、真唯佳は一瞬だけ視線を逸らした。
「……そうだよね」
答えは軽いが、胸の奥はざわついている。
「まぁそんなことは良くてさ」
パン、と手を打って絢祐が切り替える。
「早く部活始めようぜ。一年生、もうすぐ見学来るだろ。ちゃんとやってるとこ見せないと、いいやつ入ってこねーぞ」
さっきまでの茶化した顔が、すっと真面目になる。
はい、ごもっとも。
「ほら、真唯佳。ぼーっとしてんな」
「してないわよ!」
慌てて立ち上がる。
さっきまでの話題は、そのまま流れていった。
――――――――――
学校、夜の8時。
翠陵学園は大学まで擁しているため、いくつかの門はこの時間になってもなお開かれている。
人影の途絶えた構内を、かすかな擦過音が走った。
——ササササ……。
直径五十センチほどの黒い円が、地面を滑るように移動してくる。影とも染みともつかぬそれは、守衛室の入り口前でぴたりと動きを止めた。
周囲に人はない。
仮に誰かが見ていたとしても、舗装とほとんど見分けのつかぬ色合いをしているそれに、違和感を抱くことはなかっただろう。
やがて、見回りのために守衛室の扉が開く。
五十代ほどの守衛が、いつも通りの足取りで外へ出た。
次の瞬間——。
彼の足が黒い円を踏み抜いた。
それは“踏んだ”のではない。“沈んだ”のだ。
円は即座に口を開け、底の見えない穴へと姿を変える。
男の身体は声を上げる暇もなく、闇へと呑み込まれた。
穴は一瞬で閉じ、そこには何事もなかったかのように、夜の校庭だけが静まり返っている。
――――――――――
「彬様の想いの方、ですか?」
真唯佳は夕食後、キッチンで片付けをしている叉夜にも、カウンター越しに放課後の彬の話をして質問をしてみる。
彬は今、入浴中だ。
「どうでしょう、ちょっと存じ上げないですが、ただ——」
皿を洗いながらそこで言葉を一回切り、一瞬手を止めて思案し、言葉を続ける。
「彬様の実年齢は二十歳くらいでしたか。お家柄からいって、そろそろお一人目とご成婚とまではいかなくても、婚約くらいされているのではないでしょうか」
それは真唯佳の想像の斜め上の回答だった。
「一人目……結婚??」
実は彬は、自分よりも4つほど年上らしい。
真唯佳の警護のために見た目を少し若返らせ、同学年ということになっている。
だが、ここでの問題はそれではない。
「はい。上級貴族の方々は何人か奥様がいらっしゃるのが普通ですし、早く一人目をお決めにならないと、何か問題があるのかと悪い噂になりかねません。
また適齢期にご結婚されないと、年の離れたお相手しか見つからなくなり、あまり良いことではない気がします」
「ニーベルって、そんな世界なの?」
若い頃から結婚して、しかも一夫多妻制なのか……
「上流社会だけですけど。ヴィンランド家といえば王家に次ぐ名門ですし。」
笹薙彬とは日本での名で、本名はジュリアン・ソレイユ・ヴィンランドというらしい。
正確には、もっと長いらしいけど、舌を噛みそうな名前だった事しか真唯佳は覚えていない。
「しかも彬様は、英知の翁子という出世が約束されているポジション。
通常、そういった方は引く手数多です。
末っ子なのでご両親は結婚に焦りはないでしょうけど、かといってずっとお相手がいないとは思えません」
へぇ〜っと話を聞いていたところ、キッチン横の扉が開く。
「真唯佳、次どうぞ」
自分の話がされていたなんて知らない、風呂上がりの彬にそう声をかけられる。
結局答えがわからないどころか、ますます気になる状況となってしまった。




