2.8
2人がけのダイニング席に座って、キッチンでお茶を入れてる女性から目を逸らすように窓を見る。すっかり真っ赤になった夕焼けにこの街の建物が黒く塗りつぶされる。昔、角砂糖で作った街に液体をかけて溶かす白黒の映像を見た記憶がある。どこで見たかは覚えてない。キッチンの水の音を聞きながら見るその窓の向こうはそれに似ていた。
「こんな物しかないけどごめんなさい」
そう言って女性は暖かい紅茶を持ってくる。
「とんでもないです。ありがとうございます」
軽く頭を下げる。女性が向かいに座った。
「えっと…君が愛理の恋人なの?」
「はい。颯希と言います。同じ高校の同級生です。」
僕がもう一度頭を下げる。女性、愛理ちゃんのお母さんである梨花さんは変わらず険しい顔をしている。
「何故、愛理なの?」
「…何故?」
好きなところを聞かれている訳ではない事は分かっている。何故この体質を持った愛理ちゃんを選んだのか。そう聞かれているのだ。多分今の僕に、梨花さんを納得させられる理由は言えない。
「好きになった子が、そうだった。ではいけませんか?」
梨花さんは応えない。本人も言葉を選んでいるようだ。梨花さんも、この質問に正解が無いことを理解している。
「だってあなたに、なんのメリットも無いじゃない」
母親が言う言葉にしてはあまりにも悲しい。そう思った。感情で否定するのは簡単だ。
「あの子はきっと、いつか貴方にキスを迫るわ」
言われてドキリとする。梨花さんを見る。
「それくらい分かるわ」
梨花さんが紅茶を飲む。つられて自分も口に入れる。緊張なのか味が分からない。
「もう一度聞かせて、何故颯希くんはあの子を選んだの?他の子ではダメなの?」
梨花さんの声が上ずる。娘に辛い道を歩んで欲しくないのだと、そういう気持ちが伝わってくる。
「…多分僕は、きっと他の子でも良かったのでしょう」
梨花さんが口を開く前に次の言葉を続ける。
「でも彼女を選びました。彼女の事は分かっています。キスも…既に一度言われました。正直自分は、どうしたらいいかはまだ分かりません」
視線が痛い。見栄を張って嘘を言える精神状態では無かった。それよりも、この人がどうしたいのかを聞きたかった。分かっているけれど、ちゃんと言葉で。
「…正直に言ってくれてありがとう。でも、それではあの子を任せられない」
僕は、ここで正解を言えるほど賢くはないし、手を引けるほど大人でもない。ただ何も言い返せない自分が悔しかった。
「一時の熱に振り回されてはダメ。あの子の為にも。もし迷ったら、またここに来なさい」
そう言って梨花さんは立ち上がる。愛理ちゃんの部屋に静かに入り、しばらくすると僕の荷物を持って戻ってきた。
「家まで送って行くわ。あの子の話、聞かせて?」
そう言って初めて、梨花さんは微笑んだ。
木島さんなら、よし姉なら、紀章先輩なら、こういう時なんと言うのだろう。なんと言えば良かったんだろう。
日の沈んだ街は暗く、この街の憂鬱を燃やした後のように静かだ。それなのに、僕の苦悩はまだ燃え尽きることなくここにある。
梨花さんの車の後部座席に乗る。家の場所をナビに入れてゆっくり走り出した。
「私があの子をあんな身体に産んでしまったからなのにね」
梨花さんはそう自虐的に呟いた。何か返せる気力は今の僕には無かった。
「あの子が最近、いつもより服を汚してくるものだから、私嬉しかったの。休みの日も外に出掛けて行ったあの子を見て、分かってくれるお友達が出来たのだと知って…でも私が何もせず、あの子が不幸になってしまうを放っては置けないわ」
ルームミラーで目が合う。さっきまでの険しい顔はもうしていない。その代わり目元に浮かぶ涙に、余計に胸が苦しくなる。
「だからね、約束して。颯希くんが辛い時は、周りの大人を頼りなさい。あなた達2人で決めて、後悔はして欲しくないの。その為に私たちが居るわ」
ゆっくりと絞り出されたその言葉に、梨花さんの覚悟と優しさを感じ取る。どれくらい長いこと、一人で彼女を守ってきたのだろう。
「はい…」
「あら?返事が小さいわね。もっと強くいなさいな。あの子を任せるんだから」
「…はい!」
泣きべそをかきながら裏返った声で返事をする。ミラー越しに微笑む梨花さんに、強がって笑って見せた。
自分の部屋に戻りベッドに倒れ込む。色々考えすぎて頭が痛かった。もう何もする気が起きない。
これで良かったのだろうか、これからどうすればいいのか。過去と未来に睨まれて、押し潰されて、薄っぺらになった僕はまるで布団のように、静かにベッドの上にあるだけだった。丸まった掛布団を足でどかして仰向けに寝転がる。
愛理ちゃんの笑顔が、泣き顔が、あの時の言葉が、血の赤が、夕焼けの赤が、頭の中で次々と流れて行く。それでも僕の中に、離れる選択肢は無かった。それだけは確かに言える。「颯希はどうしたい?」の唯一のアンサーだ。ただ静かにここにある小さな部屋に、感情が溢れてうるさい僕の心で埋め尽くされて、迫ってくる過去と未来を押しのける事に精一杯だった。




