2.7
廊下の花に水をあげる。新顔のアキメネスもちゃんと様になっていて棚に彩が増えたことが素直に嬉しい。空き教室に入り席に座る。
そういえば、愛理ちゃんはあれから「キスをして欲しい」と言ってこない。別に言って欲しい訳ではないし、聞いてみて「じゃあ今から」なんて言われても困る。相変わらず空き教室で期末試験の勉強をしている愛理ちゃんが、ふとこちらを見る。
「そういえば、颯希くんは勉強しなくて平気なんですか?」
期末試験の事だろう。
「うーん、まぁ別に」
天才とは言えないが、授業を聞いていれば赤点は回避出来る位には勉強は得意だった。とは言え家では多少の勉強はするが、この時間は彼女に集中したい。
「凄いですね、颯希くん」
そう言いながら再び期末勉強に戻る彼女のノートを見て、計算式のミスを教える。彼女がミスを消そうとするので、そういうのは残して置いた方がいいよと言う。
「…あの、折角なんで、勉強会しませんか?」
放課後に二人で歩く。住宅街に入るので首を傾げる。僕の中で勉強会と言うと、ファミレスに座り込んでお喋りをする会だ。彼女が外食に行けないのを失念してそう思い込んでいたら、そこそこ大きなマンションに着いた時に一瞬意味が分からなかった。彼女が鍵を取り出してエントランスのガラスドアを開ける。
「…どうぞ」
「…いいの?」
まさか勉強会と言ってお家デート等とは考えてもいなかった。…早くないか?と、明らかに動揺している僕に小さく手招きする。
「…はい。勉強会、ですから」
緊張しながらガラスドアをくぐり、エントランスに入る。綺麗な造りだかある程度の年月を感じさせる。
エレベーターの呼び出しを押して広い箱の中に二人で入る。彼女が5階のボタンを押して立っているのを後ろから眺める。静かに動き出すエレベーターの重力を感じながら5階に着く。恐らく一瞬なのだが、やけに長い事登ったように感じてしまう。
慣れた足取りで廊下を歩く彼女の背中を追いかけながら、まるで泥棒みたいにキョロキョロして縮こまる僕を見ることなく、ドアの鍵を開けて部屋に入る彼女。
「…お邪魔します」
部屋はシンプルでものが少ない。聞いた事は無かったけれど、靴や家具の配置を見ても部屋の人数は二人。片親なのだろうか。
「…お父さんは居ないんです」
察して彼女が言う。あまり落ち込んではなさそうだが、いちいち説明させる事が忍びない。
ダイニングに入り横の部屋の引き戸を開ける。セミダブルのベッドに枕は一つ。勉強机の上には小さな本棚に小説が幾つか並んでいる。上に物が置いてない床に座るタイプのテーブルに、座布団が2枚積んで置いてある。1人で使っているのだろうか。部屋の隅に荷物を置いて床に座る。緊張で正座になってしまうが、向こうも同じような姿勢になる。
「では…颯希くん、よろしくお願いします」
教科書とノートを広げて愛理ちゃんがお辞儀をする。つられてこちらも頭を下げる。
なんだかぎこちないが、2人の勉強会が始まる。買ってきたジュースを横に置いて、彼女のノートを一緒に見る。
始まると彼女は何も気にせず勉強をするが、僕はあまり気が気でない。触れられない事を初めから理解していても、すぐ近くにある体温や肌のツヤを感じる度にドキドキとしてしまう。なんだか自分が情けない。
「…お母さんは、いつ帰ってくるの?」
気になって尋ねる。
「うーん…いつも遅いのであまり正確な時間は把握していません」
挨拶することに緊張していたが、出来ないは出来ないで少し残念だ。まぁ、まだ機会はあるはずなので気にし過ぎずに彼女の勉強を眺める。
思い出して携帯を開く。音楽アプリを起動して、最近聴いている作業用BGMをかける。クラシック音楽も聴くが、せっかくなら彼女の聴かないジャンルを流したかった。時折入るボーカルも外国語で日本語として耳に入らないので、あまり勉強の邪魔にもならない。彼女は何か言うでもなく勉強に集中している。
窓の外を見て赤くなり始めた空を観察する。少し前に机に突っ伏して寝てしまった彼女を見て、休憩しようと立ち上がる。
「愛里ちゃん」
声をかけても起きない。こういう時触れられたらと、普通ならばそうなのだと、一切思わないほど聖人にはなれない。その度に頭を振って、自分に出来るできることをするのだ。彼女は人と同じようには生きられない。それを何の所以も関係もない僕が理解し、彼女のために行動することが愛なのだ。
机の上の飲み物を倒してしまわない位置に置きながら、彼女の静かに動く背中を見て言葉を思い出す。
「私と、キスして欲しいな」
彼女は死にたいのだろうか。あの言葉に込めた彼女の意志というのはなんだろうか。
「颯希はどうしたい?」最近はずっと自分に問うている。
いつかちゃんと聞きたい。その時ちゃんと、その答えを出せるだろうか?
玄関のドアが開く音がして固まる。「愛理?」そう恐る恐る声を掛ける女性の声。隠れたっていいことはない。寧ろチャンスだと意を決して部屋の戸を開く。そこに立っている女性は、確かに彼女の母だと感じられる面影があった。
「こ、こんにちは…」
女性は明らかに困惑している。こんな彼女の体質でまさか家に人を連れてくるとは思いもよらないだろう。僕もそう思う。




