第九十八話 クロクス
Aster Crownのギルドハウスのラウンジには、紙をめくる音とグレイの小さな寝息だけがあった。
ターニャは中央テーブルに資料を広げ、孤児院への支援物資の記録を整理している。
服、薬、本、修理したおもちゃ。
どれをどこへ送ったか、次に何が必要か。
細かい文字が並んだ紙を、ターニャは慣れた手つきで分類していた。
その向かいのソファで、ロッキーはグレイを膝に乗せていた。
グレイの首元を撫でると、ふわふわの毛の奥から小さな鳴き声が漏れる。
「…フランキーさんたちが孤児院出身だなんて知らなかったな」
ロッキーがぽつりと言った。
「そういう場所があるっていうのは知ってたけど」
ターニャは資料から顔を上げる。
「私と兄も、実は孤児院出身なのよ」
「え」
ロッキーの手が止まった。
グレイが不満そうに鼻を鳴らす。
ロッキーは慌ててまた撫で始めた。
「ターニャさんもですか?」
「そうよ」
ターニャは穏やかに頷いた。
「だから私と兄も支援してるわ。兄はああ見えてそういうところは案外まじめなの」
「Mr.Zさんが…」
「意外でしょう?」
「…ちょっと」
「正直ね」
ターニャは小さく笑ってから資料の端を揃えた。
「両親は20年前の流行病で亡くなったの。致死性の高いウイルスでね」
ロッキーの表情が少し変わる。
「今では特効薬もできているし、3歳の時に予防接種を受けるはずよ。それで一生罹らないと言われている。でも、当時はまだ何もなかった」
「…それ、知ってます」
ロッキーはグレイの背中を撫でながら、静かに言った。
「祖父に教わりました。酷かったって」
ターニャの手が、少しだけ止まる。
「クロクスという街で見つかったから、Cウイルスって呼ばれてたやつですよね」
「えぇ」
ターニャは少しだけ視線を落とした。
「実は、そのクロクスが私の故郷なの」
「えっ」
ロッキーは思わず顔を上げた。
ターニャは資料の一枚を指で押さえながら、ゆっくりと話し始める。
「ウィステリア王国の北西にあったクロクスは元は何もない街だったの。山に囲まれた小さな田舎町。特別な産業もなくて、ただ静かな場所だったわ」
「でもある日、魔導石の大きな鉱脈が見つかった」
ロッキーは黙って聞いていた。
「そこから街は一気に変わったわ。採掘者、商人、研究者、運搬業者。仕事を求めてたくさんの人が来た。宿屋が増えて、店が増えて大きくなった」
ターニャの声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの奥に、もう戻らない場所を思い出す響きがあった。
「でも、鉱山の奥にーー」
ターニャはそこで少しだけ言葉を切った。
「長い間外に出ていなかったものがあった」
グレイが小さく耳を動かす。
「最初は鉱夫たちが倒れたの。高熱、咳、出血、意識の混濁。でも鉱山では体調を崩す人も多かったから、最初は粉塵や過労、鉱山病だと思われていた」
「…それが、ウイルスだった」
「えぇー
ターニャは頷いた。
「家族へ、医術者へ、商人へ。魔導石を運ぶ人たちもいたから、外の街へも広がっていった。止めようとした時にはもう遅かった」
ロッキーは何も言えなかった。
「当時は魔導石を利用した物がたくさん作られて需要が高まってた時だから、国内外問わず取引が行われたし、人の出入りもすごかった。あっという間に広がって追跡も隔離もできない。あの頃は、たくさん人が死んだわ」
ターニャは淡々と言った。
その言い方が、逆に当時のひどさを感じさせた。
「クロクスはもう誰も住まない。というか住めなくなってしまったの。街自体がなくなってしまったわ。地図からも消えた」
「…ターニャさんのご両親は」
「父と母は鉱山では働いていなかったの」
ターニャは少しだけ微笑む。
「医術者だった。だから逃げなかった。患者を診て、薬を探して、できることをした。でも、間に合わなかった」
ロッキーの胸が、きゅっと痛んだ。
「親戚もみんな亡くなってしまって、兄と2人で孤児院に行ったわ。私が8歳の時ね」
「8歳…」
「兄は11歳」
ターニャはほんの少し懐かしそうな顔をした。
「兄は昔からあの調子だったわ。人懐っこくて調子がよくて、誰とでもすぐ仲良くなる。孤児院でもすぐ中心にいた」
「想像できます」
「でしょう?」
ターニャは小さく笑った。
「それから、兄が遊びで実況みたいなことを始めたの。xTubeに上げていたのだけどそれが少しずつ人気になってね」
「Mr.Zさんの始まりって、そこなんですね」
「えぇ、最初は本当にただのおしゃべり好きの子どもだったのよ」
ターニャの声が、少し柔らかくなる。
「私は両親のように医術に興味を持って勉強してた。写真を撮るのも好きだったから兄の投稿に使う写真を撮ったり、自分でも景色を投稿したりしていたわ。それで兄が孤児院を出る18歳の時に合わせて私も一緒に出たの」
「一緒に?」
「兄が私を置いていかなかったの」
ターニャは資料の上に視線を落とした。
「本当は兄だけ先に出てもよかったのにね。でもあの人は“妹を置いて行くほど売れてない男じゃない”って言って、仕事を取って、住む場所を見つけて、人脈を作っていった」
ロッキーは静かに聞いていた。
「今では立派なインフルエンサーよ。相変わらず調子はいいけれど」
「優しいんですね」
「そこは認めるわ」
ターニャはそう言って、少しだけ笑った。
ロッキーもつられて笑う。
「だから孤児院の支援を?」
「えぇ」
ターニャは資料を揃えながら言った。
「私たちは助けてもらった側だから。全部の子を救えるわけではないけど、本があるだけで変わる子もいる。服があるだけで外へ出られる子もいる。修理されたおもちゃひとつで、毎日を楽しめる子もいる」
ロッキーは膝の上のグレイを見た。
グレイはすっかり眠そうな顔をしている。
「ポポもそういう気持ちなのかな」
ターニャの手が、ほんの少しだけ止まった。
「…そうね」
慎重な返事だった。
「ポポはいつも笑っているけれど」
「うん」
「たぶん、誰よりも“どうにもならないまま失うこと”を知っている人よ」
ロッキーは顔を上げた。
「ポポも?」
ターニャはすぐには答えなかった。
資料の端を揃え、静かに息を吐く。
「それは、ポポが自分で話すことね」
「…はい」
「でも、フランキーたちにとってポポが恩人なのは本当。私にとって兄がそうだったように、ポポは誰かを置いていけない人なのよ」
ラウンジに、少しだけ沈黙が落ちた。
ロッキーはグレイを抱き直した。
「俺、もっと知りたいです」
「何を?」
「みんなのこと」
ロッキーは少し照れたように笑った。
「Aster Crownのことも、Pegasusのことも、ポポさんのことも、ターニャさんのことも」
ターニャは優しく目を細める。
「焦らなくていいわ。長く一緒にいれば、少しずつ分かるものよ」
「…そうですかね」
「そうよ」
グレイが、ロッキーの膝の上で小さく寝返りを打つ。
ロッキーはその背を撫でながら、もう一度ターニャの資料に目を落とした。
そこに並ぶ孤児院の名前。
届けられた本。
直された服。
子どもたちの人数。
必要な薬。
それはただの支援記録ではなかった。
失われたものを、誰かが別の形で繋ぎ直そうとしている記録だった。




