第百一話 訓練
訓練はその翌日から始まった。
ガレージの裏手にある少し開けた場所。
普段は荷物の積み下ろしや簡単な調整に使うそこを、Jr.が訓練用に片づけていた。
グレイは朝からやけに機嫌がいい。
ロッキーとJr.が一緒にいるし、広い場所に連れてこられたし、何か面白いことが始まるとでも思っているらしい。
「わふっ」
尻尾をぶんぶん振ってロッキーの足元を回る。
ロッキーはそんなグレイを見て少しだけ緊張していた。
昨日Jr.に言われたことをずっと考えていたからだ。
グレイはただ可愛いだけの子じゃない。
シルバーウルフで、これからもっと大きくなってもっと強くなる。
だからロッキーがちゃんと“主”にならなきゃいけない。
守るために、この先も一緒にいるために。
「ロッキー」
Jr.が短く呼ぶ。
「うん」
「まずは主従関係だ」
ロッキーは小さく頷いた。
「甘やかすな、可愛がるのは後だ。今は“誰の言うことを聞くべきか”を分からせる」
「…分かった」
Jr.はグレイの前にしゃがんだ。
グレイはきょとんとしながらも、嬉しそうに前足を揃える。
「グレイ」
「わふ」
「待て」
そう言って手を前に出す。
Jr.の声は低く、はっきりしていた。
グレイは最初遊びだと思ったのか首を傾げた。
けれどJr.の目を見て、少しだけ動きを止める。
「そうだ、そのまま」
ロッキーが息をのむ。
グレイは尻尾を振りたそうにしながらもじっとしていた。
しかし、やがて我慢できなくなったのかぴょんと前へ出た。
「わふっ」
「戻れ」
Jr.がすぐに声を飛ばす。
グレイは一瞬止まり、それからまたロッキーの方へ行こうとする。
「グレイ」
今度はロッキーが呼んだ。
少しだけ声が揺れる。
グレイはロッキーを見上げた。
「待て」
短く言う。
グレイはきょとんとした顔で、その場に止まった。
Jr.が横で小さく頷く。
「いい、声を迷わせるな」
「うん」
ロッキーは深呼吸した。
グレイは命令を聞かないわけじゃない。
ただ、今まではロッキーが曖昧だっただけだ。
待て。
来い。
離れろ。
止まれ。
ひとつずつ、声と意味を結びつけていく。
グレイは最初こそ不思議そうにしていたが、何度か繰り返すうちにちゃんとロッキーの声を待つようになっていった。
「賢いね、グレイ」
ロッキーがそう言って頭を撫でると、グレイは嬉しそうに目を細める。
「わふ」
「次」
Jr.が言う。
「噛んでいいものと、ダメなものを覚えさせる」
Jr.は訓練用の厚い革布を持ち上げた。
「これには噛んでいい。手や服や人間の体はダメだ」
グレイはそれを見て遊びが始まったと思ったらしい。
耳を立て、前足を少し浮かせる。
「わふっ」
Jr.が革布を少し動かすと、グレイは勢いよく飛びついた。
がぶ、と噛む。
「そう、それはいい」
Jr.の声が少しだけ緩む。
グレイは得意げに尻尾を振った。
ロッキーも思わず笑う。
「すごい」
「でも、こっからだ」
Jr.が革布を離すと、グレイはまだ遊び足りないのかそのままJr.の手へじゃれつこうとした。
鋭くなった牙が、手首へ向かう。
ぱしっ。
Jr.がグレイの鼻先を軽く叩いた。
強くはない。
でも、はっきりと「だめだ」と伝わる一撃だった。
「だめだ」
低い声。
グレイはびくっと止まった。
「…くぅん」
なんで? という顔だった。
さっきまで楽しそうだったのに急に怒られた。
意味が分からない。
戸惑ったまま、今度はロッキーの方へ行く。
いつものように甘えるつもりで。
そして同じようにその手にじゃれついてきた。
ロッキーの心臓がきゅっとなる。
かわいい。
怒りたくない。
でも、ここで曖昧にしたらだめだ。
Jr.が低く言う。
「ちゃんとしろ」
ロッキーは一瞬だけ目を閉じた。
そして、グレイの鼻先を軽く叩く。
ぱしっ。
「だめ」
声は震えていた。
でも、グレイはちゃんと止まった。
「わふ…」
耳がぺたんと下がる。
尻尾も止まる。
グレイはしょんぼりした顔で、その場に座り込んだ。
ロッキーの胸が痛む。
しばらくしてロッキーはしゃがみ込み、しょんぼりしているグレイをそっと抱きしめた。
Jr.が眉をひそめ、思わず「おい」と言いかけた。
けれどロッキーは、グレイを抱いたまま首を振った。
「グレイのことが嫌いじゃないんだよ」
グレイは腕の中で小さく身じろいだ。
「大切だからね」
ロッキーはグレイの耳元に顔を寄せる。
「大切だからやるからね」
声が少し掠れる。
「グレイとこの先も暮らしたいから、ちゃんとするんだ」
グレイはまだ、完全には意味が分からない顔をしていた。
でもロッキーは大好きだ。
だから大人しく抱かれていた。
「急に厳しくして、冷たくして、分かんないかもしれないけど」
ロッキーはぎゅっと抱きしめる。
「今までできなくてごめんね」
その言葉にJr.の目が少しだけ変わる。
「ダメな飼い主でごめんね」
ロッキーはグレイの額に額を寄せた。
「大好きだから、これから一緒に頑張ろう」
グレイはしばらくじっとしていた。
それから、小さく鼻を鳴らしてロッキーの腕の中に頭を押しつけた。
「…わふ」
Jr.は少し黙って、その様子を見ていた。
そして、ふっと息を吐く。
「それでいい」
ロッキーが顔を上げる。
Jr.は腕を組んだまま、グレイを見る。
「グレイは賢いシルバーウルフだ」
その声はさっきまでより少し柔らかかった。
「鍛えれば俺たちなんかより余程強くなる」
ロッキーの腕の中でグレイが耳をぴくりと動かす。
「でも強いだけじゃダメだ。お前の声で止まれるようにならなきゃ意味がねぇ」
「…うん」
「だから、お前も覚えろ」
Jr.はロッキーを見る。
「甘やかすだけが優しさじゃない」
ロッキーは真っ直ぐ頷いた。
「うん」
「こいつを守るのもお前の役目だ」
「うん」
「最後までちゃんとやれ」
「やる」
短い返事だった。
でも今度は、迷いがなかった。
グレイはようやく少し元気を取り戻したのか、ロッキーの腕の中で尻尾を小さく振る。
Jr.が革布を持ち上げる。
「ほら、続きだ」
グレイが顔を上げる。
ロッキーはグレイをそっと離した。
「グレイ」
グレイはロッキーを見る。
「頑張ろう」
今度は、さっきより少しだけ真剣な声だった。




