91話
肺が押しつぶされるような感覚。
眼の前が白くなるほどに、猿帝は全力で走っていた。
それでも構わず、重くなっていく足を一歩、また一歩と前へと動かし続けていた。
紅月寺炎上の報は猿の国にも届いた。
猿帝は周囲の反対を押し切って、いや、駆けつけることを反対する意見を出す間もなく、境を越えて人間の領域へと入っていった。
誰が裏切ったのか、そんな裏の事情など猿帝にはどうでも良かった。
とにかく那由のいる紅月寺が襲われ、その消息がわからないと言われて、じっとしていることなど猿帝にはできなかった。
彼にできることは、ただ那由の無事を信じて走ることだけだった。
――
「いたぞーあそこだ!」
覚えのある顔が鬼気迫る表情で那由を指さして叫んでいる。
つい先日まで共に笑い合っていたはずの仲間だ。
それが今では血眼になって那由へ矢を放っている。
「それほどまでに私が憎いのか? 必死過ぎやしないか?」
誰に話しかけるでもなく、那由は独りごちて重い体を引きずっていた。
既に満身創痍、自分が既に助からないことも理解していた。
それでも那由は最後の最後まで諦めようとはしなかった。
かつて、自分の母がそうであったように、今自分にできることをやり続ける。
受け継いだ生き方を、ただ死が迫っているからという理由で放り投げることなど那由にはできなかったのだ。
「だが、それも限界……」
気付けば見上げるほどに大きな滝が見える。
滝口の上には大きな丸い月が見守るように輝いていた。
「猿鳴の滝か……」
偶然か、決められたような巡り合わせなのか、那由が最後の地に選んだ場所は、自分が敬愛するお祖父様の名に関する滝が見える場所だった。
「ふふ、最後にお会いしたかったが、それも叶わないらしい。だが、ここで死ぬのは悪くない」
背には滝壺、眼前に迫る敵。
もはや刀を持ち上げる力すらない。
那由は刀を杖に立ち上がり、そのまま下段に構えた。
敵を討つためだ。
那由を囲む敵軍が中央から割れていき、間から一人の男が現れた。
「まさか貴公が裏切るとはな。私の見る夢だと不服か?」
「あなたの夢もそう悪くはございませんが……野心が勝っただけのことです」
「なるほど、得心がいった」
母の代から仕える忠臣、陸奥政宗が反旗を翻したことに怒りはなかった。
戦国の世、誰もが天上を目指していた。
ただ政宗もその一人であったというだけだ。
「そろそろ良いですか?」
眼の前で白刃が振り下ろされようとしていた。
那由はその刃を睨みつけた時、月明かりを受けて輝く刃がふと陰った。
恐ろしい咆哮が響き渡ったのはその時だった。
――
「来てくださったのですね」
「すまねぇな、遅くなった」
「いえ、間に合って良かった……」
猿帝は那由を胸に抱き、優しく頬を撫でた。
張り詰めた緊張から解放され、那由は微笑む。
「日那をお願いしますね。私を見守ってくださったように」
「おぬしらはいつもそれだ。儂をおいて先に逝く……」
「ふふ、お祖父様も甚だ人が良い……あの子は気性が激しいから、お祖父様も手を焼くかもしれませんが」
「だのぅ。お前の母によく似ているよ」
「母様、私にはお祖父様が語ってくださった母様の記憶しかありませんが……直接会ってお話ししたいと思います」
「そうか。あいつはこの情けない猿に怒るかもしれんなぁ」
「そのあたりはお任せください。最後に間に合ってくれたとお伝えしますので」
「そろそろ逝くか」
「はい」
那由はゆっくりとその瞳を閉じた。
最後に見た光景はまん丸な月と自分を優しく見つめる瞳だった。
その瞳は、幼い頃から変わらず、自分を見守り続けてくれたものだった。
――
「何故助けてくれなかったのですか!」
日那は激しく猿帝の胸を叩いた。他に感情を向ける先がなかった。
「曾祖父様ならできたはずです!」
日那にもわかってはいた。それが不可能であることも。
だが猿帝が人の世に関わり、那由の力になっていれば、このような結果にはならなかったはずだ。
愛する母が殺されたこと、自分も信頼していた忠臣の裏切り、そして猿帝の行い。
その全てが日那の心に暗い影を落とし、怨嗟に覆われていた。
「すまぬ……」
ただただ頭を垂れ、半狂乱で暴れ続ける日那をその胸で受け止め続けた。
猿帝にできることは他になかった。
人の世の戦いには関与しないとしておきながら、那由の最後に駆けつけ、怒りの感情に身を任せて陸奥政宗とその軍を全滅させた。
そんなことをするのであれば、もっと他にやりようはあったのではないか、そんな想いが猿帝を苛んでいた。
「許さない……許さない許さない許さない……」
猿帝を見上げる日那の瞳は、かつて知る優しくも激しく、そして真っ直ぐなものではなかった。
黒く暗い激情が渦巻き、全てを呪うものへと変貌していた。




