90話
それは満月が輝く秋のある日だった。
猿帝は望郷の湯と呼ばれる温泉に浸かっていた。
湯船に映る月が、ゆらゆらと揺れている。
「なぁ、親父、俺行くよ」
猿帝の後から声が聞こえた。
若い女の声。
固い決意に押し出されたその声は、強さの中にどこか寂しさを感じさせるものだった。
「そうか、お前もそんな年になったんだなぁ……いいさ、お前の人生だ、好きにするといい」
「今までありがとう、親父。俺は……俺の道を行くよ」
大事な娘の足音が遠ざかっていく。
猿帝は振り返ることなく、湯船の浮かぶ月を見つめていた。
「何となくは、わかってたんだけどよぅ……」
他に誰もいない湯の中で、猿帝は一人、月に話しかけていた。
巫女都の娘、名前は那巫と名付けた。
一瞬の出会いではあったが、猿帝は巫女都に何かを感じ取り、死にゆく彼女の想いを受け止めた。
巫女都の娘はすくすくと育ち、歳の頃は十六。
もはや立派な一人の女性として、そして強い武人として成長していた。
そんな彼女の前に、どこから話を聞きつけたのか、今は亡き天津国の残党の者が現れた。
すぐに追い払ったが、後の祭りだ。
おそらく那巫は出生の秘密をその時に知ったのだろう。
「すまねぇなぁ、巫女都。お前との約束は果たせなくなっちまったよ……」
湯を手ですくい、顔を洗う。
誰の想いを優先すべきか……それは巫女都でもなく、まして自分でもない。
今を生きる那巫だと、猿帝は理解していた。
水面は揺れ、そこに写っていた美しい月は、もう見えなくなっていた。
――
「親父どの、この子を頼むよ……」
「まったく、親子二代に渡ってそんな頼み方をするやつがおるかよ」
床に伏せる那巫は、震える手で那由の頭を撫でた。
那巫はその命数を使い果たそうとしていた。
まだ35歳。まだまだこれからという時に彼女を襲った病魔は容赦なく那巫の命を削っていった。
天津国の使者に招かれ、病床の那巫を訪ねた時には、既に猿帝と那巫との別れはすぐ側まできていたのだった。
「ほら、那由……」
ぽんと背中を押されたが、那巫の娘はすぐさま側にいた男の後ろに隠れてしまった。
「前に話しただろう? この方が猿帝。俺の親父どのだ」
那由は男の影からじっと猿帝を見ている。
興味半分、怖さ半分といったところか。
「おじい……さま?」
「あぁ。強く、聡明な方だ。困った時は頼るといい。嫌そうな顔はするだろうが、それは嘘だから気にしなくていい」
「おまえなぁ……」
「だが、本当のことだろう?」
猿帝はやれやれといった顔を浮かべながらも、那由に微笑みかける。
その顔に安心したのか那由の顔は緩み、男の背中から出て少し近付いてきたのだった。
それを見て那巫は薄く笑う。
だが、その目には若かりし時の、燃え上がるような炎は既に存在していなかった。
「烈火のごとく駆け抜けたな」
「あぁ、親父どの、俺は満足だよ」
那巫は天津国を立て直し、母の仇を討った。
周辺の国々を平定し、西方に大きな国を建国する。
全ての戦いの陣頭に立ち、兵を鼓舞し、その姿は常に戦場と共にあった。
「景継、あなたに会えて俺は幸せだったよ。これから大変だろうが、あなたなら大丈夫だ」
「あぁ、任されたよ。だけどね、私は寂しい、淋しくて仕方がないよ」
那由の隣に立つ景継と呼ばれる男が膝をつき、那巫の手を握る。
景継は包み込むように優しく、祈るように自分の額の前に那巫の手を抱いた。
「俺は逝くが、那由がいる。何も淋しくなんかないよ」
那由も那巫の手を取り、父娘三人で手を取り合っていた。
那巫が微笑み、景継と那由が泣く。
その光景を猿帝はずっと覚えていたのだった。
――
世は戦乱の時代だった。
古く歴史ある国も、新興の国家も等しく、引き寄せられるかのように、大火へとその身を投じていた。
ここ天津国もそんな国々の一つ、いや、その火中の中心にあった。
再興から侵攻へ、天翔ける鳥のように、天津国の軍勢は日出国を駆けた。
そして、日出国統一まであと一歩というところで、国中に凶報が響き渡った。
天津国の侍大将である九条那由の急逝である。
今週は2話アップします。
木曜日の20時です。
時間がある時にでも読んでいただけると嬉しいです。




