46話
あの日の朝は、不思議なほど静かだった。
風ひとつない村の空気の中で、母はお昼のパンを焼き、父は新しく作った農具を試していた。
妹は鼻歌を歌いながら窓辺で本を読み、私はその音を聞きながらぼんやりと空を見ていた。
そこに――彼が現れた。
森の奥から、ふらりと歩いてきた青年。
血に濡れた軍服の上から布を巻き、焼け焦げた腕を押さえながら、
それでも笑ってこう言った。
「……悪い、道に迷ったみたいだ」
そう言うと、彼はその場で倒れ込んでしまった。
私たちは慌てて家に運び、母が手当てを施した。
エルフィーは水を運びながら泣いていて、父は黙って包帯を巻いていた。
二、三日もするとロベルトは目を覚まし、普通に話せるようになった。
その時のエルフィーの顔は、今でもはっきり覚えている。
「きっと、私の祈りが届いたのね!」
無邪気に笑う妹を見て、優しい彼女を誇りに思ったものです。
ロベルトは回復すると、すぐにこう言った。
「僕は脱走兵なんです…… 追手がかかっている。だから、すぐにでも出ていきます。」
けれど父は首を横に振って、家の奥の部屋を彼に与えた。
「出て行かなくていい。ここには誰も君を責める者はいない。」
その日から私たちの新しい生活が始まりました。
父と魔導工学について夜更けまで話すロベルトは
「僕はこっちの道に進むべきだったね」
なんて言って笑っていた。
母の料理を手伝い、エルフィーには本を読んであげる姿を今でも覚えています。
特にエルフィーは彼に懐いていました。
「いつか私の秘密を教えてあげるね!」
なんて言って……あの頃の彼女は本当に無邪気で愛らしかった。
そんな暖かい日常は突然終わりを迎えます。
共和国の軍が派兵してきたんです。
それは、どう考えてもロベルト一人を追う規模じゃなかった。
両親はすぐさま自分たちを狙ってきたと理解して、私とロベルトにエルフィーを連れて逃げるように言いました。
「エルフィー、そのクリスタルは誰にも渡してはいけないよ。 カイン、ロベルト、エルフィーを頼む。」
父の声は震えていましたが、その瞳には迷いがありませんでした。
エルフィーを優しく胸に抱き、母は私の頬に手を当て、微笑みました。
「お父さんとお母さんが戻ったら何を食べたい? ウサギ肉のシチューなんていいわね……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが張り裂けそうになりました。
「行け!」
父の叫びと同時に、外の爆音が窓を震わせる。
私は泣きじゃくるエルフィーを抱き上げ、ロベルトと共に裏口へと走った。
振り返ると、母が最後に小さく手を振っていた。
あの笑顔が、焼け落ちる家の中に消えていく光景を――
今でも、夢で見ることがあります。
それからは必死でした。
街からは悲鳴が絶えることなく、森は焼かれどんどん逃げ場がなくなっていく。
「ここはもう駄目だ。 奴ら、村人も皆殺しにしてやがる……そうだ、帝国へ亡命しよう!」
ロベルトの案内で私たちは帝国を目指しました。
数日か数十日か、記憶は定かではありませんが帝国領まであと一歩というところで私たちは軍に追いつかれてしまったのです。
「エルフィー、そのクリスタルを僕に渡すんだ……」
「駄目! これは父様が絶対渡すなって!」
「だけど軍の狙いはおそらくこれだ。 僕はそれをもって囮になる。 その間に君たちは帝国へと逃げるんだ!」
「それじゃあロベルトが殺されてしまう!」
「僕はもう十分すぎるほど幸せな時間を君たち家族からもらったよ。 本来敵前逃亡は許されないからね、あの時に僕の時間は失われていたはずなんだ……」
「嫌! ロベルトも一緒に行くの!」
「聞いてくれ、エルフィー。 君のお父さんはそんなクリスタルなんかより君に生きていて欲しいはずだ。」
「でも……でも!」
「もう時間がない。 カイン、あとは任せたよ。 君なら出来るさ、お兄ちゃんだろ?」
「ロベルト……」
「さぁ、僕が行ってしばらくしたら全力で走るんだ、いいね!」
泣きじゃくる妹を抱え、私は精一杯頷きました。
ロベルトはにっこり笑って私たちを抱きしめてくれたんです。
「ありがとう。 愛しているよ……」
そう言い残し、エルフィーのクリスタルを奪うように握りしめロベルトは走り去っていきました。
「お前たちの欲しいものはこれだろ!」
しばらくすると彼の悲痛な叫びが遠くで聞こえたような気がします。
私はエルフィーを守ることで必死で彼の最後を看取ることすら出来なかったんです。
それからは必死でした。
身寄りのない私たちは泥をすすり、血を吐きながらも共和国への復讐を誓い、生きていました。
あの頃の俺の目は、もう人の目じゃなかったと思います。
仕方なかったんです、共和国を恨むことが明日を生きる力になっていたのは間違いありませんでしたから。
けれど、私は気づいてしまったんです。
エルフィーの目が同じように暗くて淀んだものをたずさえているのを……
あの誰よりも優しかったエルフィーには、もう昔の面影はなかった。
目の奥は冷たく、毎日のように共和国を呪っていた。
その言葉が聞こえるたびに、胸のどこかが痛んだ。
私が教えてしまったんだ――憎むことで、生き延びる方法を……
「両親はエルフィーがそんなふうになってしまうことを決して望んでいなかったはずです。 私が今の彼女を作ってしまったんです!」
吐き捨てるようにカインは涙を流しながら地面に伏せている。
そんなカインをメイは静かに見つめていた。
何を伝えるべきか、メイは悩んだ末に彼女の真っ直ぐな気持ちをカインに話した。
「ウチは復讐は悪くないと思ってる。 それほど大切なものを奪われたんだからその気持は大事。」
「復讐が大事? そんなわけないじゃないか! 復讐は何もうまない! そんなことがあってたまるか!」
「復讐は両親が望まないから?」
「そうだ! あんなのはエルフィーじゃない! 妹は心の優しい人間だ!」
胸をかきむしるようにして叫ぶカインに、それでもメイは冷たく言い放つ。
「それはカインの中の妹さんだよ。 本当の彼女は本人にしかわからない。」
「そんなことはない!」
「両親も本当は復讐を望んでるかもしれないよ?」
「違う! 違う違う違う!」
「そんな本当のことがわからないことより、君の言葉を伝えなよ!」
その言葉にカインは息を呑む。
「昔の妹さんに伝えればいいよ、優しいエルフィーに戻ってって。 それは誰のものでもない、カインの本当の気持でしょ?」
メイは微笑む。
誰のものでもない、メイ自身の気持ちをカインにむけて。
「伝わるでしょうか……?」
「伝わるまで伝えるんだよ! 何度も何度でも! それでも駄目ならウチが一緒に伝えてあげる!」
カインの瞳には陽の光で輝くメイが映る。
自信たっぷりで弾けるような笑顔。
カインの目には涙が浮かぶ。
その涙の奥に、ようやく小さな光が宿っていた。
「……ありがとう、メイさん」
メイは笑って、彼の手をぐっと引いた。
「いいって。 ほら、行こ。 ウチらの行くべき道を探して!」
何もかもを許してくれそうな青空は、二人を包み込んでいた。




