108話
「あら、シリウスおかえりなさい」
いつものようにオフィーリアが側で微笑んでいる。
その表情は変わることはない。
同じ女神でも彼女とはかなり違う。
名前は……レティシアといったか。その表情は覚えている。
貼り付いた仮面のような微笑みではない、どこか小馬鹿にしたような、それでいて温かみを感じる顔を彼女はしていた。
「どうしたの、シリウス?」
「シリウス……?」
「あなたが決めたのではありませんか、名前を覚えるのが億劫だと」
「……」
「それで、どうしたのですか?」
いつもと様子の違う男にオフィーリアは問いかけた。
その目はいつだって彼を見ていない。
シリウスの奥底にある命の根源、魂をじっと見つめているのだった。
「大丈夫そうね。もう行くの?」
何が大丈夫なのかはシリウスにはわからない。
だが、行き先は決まっていた。
「あぁ、行くよ」
だが、シリウスの心には迷いが生まれていた。
強者と戦うのは楽しかったはずだ。
それがどうだろう。
初めて自分を倒せる存在に心躍ったはずなのに、いつの間にか勝つことだけにこだわっていた。
レティシアの言う通りだった。
本来一つしかない命で、一生を懸けて、望むべき戦いが、いつの間にか勝つ為の情報を集める手段になっていた。
「いつの間に……こんなことになっていたんだろうね」
立ち上がるシリウスの行き先は決まっていた。
彼女に会えばわかるのではないか、そんな思いを秘めてシリウスは歩き出した。
オフィーリアはその様子を見つめていた。
その顔は、慈愛に満ちて……歪んでいた。
——
切っ先がレティシアの頬をかすめる。
後方から迫りくる氷弾を躱し、その後に来るであろう風魔法を先読みで一太刀撃ち込んでおく。
レティシアの表情は、これまでとは違う。
いつものように自信満々の笑みを浮かべてはいる。
だが、その中に僅かな焦燥が浮かんでいた。
彼女もまた死線の先にいることを自覚しているのだ。
「むぅ、読まれとるの……なんじゃ、コヤツは!」
必殺の間合いまで接近したシリウスの目の前に土の壁が現れた。
しかし、シリウスはその壁など意に介さず、その後にいるはずのレティシアに斬りかかる。
壁を切り裂き、レティシアを断つ一撃は空を切っていた。
レティシアは刃が届く直前、自分の直感を信じて土魔法を操作して自分自身に当てていた。
その反動でシリウスの攻撃を回避して距離を取っていたのだ。
血を吐きながらもレティシアは体勢を整え、シリウスを迎え撃つ。
シリウスも既に限界を迎えている。
互いに最後の一撃になることを認識していたのだった。
レティシアが渾身の一撃を放つ。
そしてシリウスは……
シリウスの身体を貫いた氷弾は致命のものだ。
杖に寄りかかり肩で息をするレティシア。
だが、その表情は怒りに満ちていた。
「ヌシもか!」
レティシアは倒れているシリウスの襟首を掴み上げ、殴りつけた。
「何なんじゃ、ヌシらは!」
その拳は疲労に震えていて、殴ったと表現するにはあまりに力ないものだった。
ただ怒りを拳に込めた、それだけのもの。
それを死に行くシリウスにぶつけていた。
「何故最後まで戦わぬ! 何じゃ、あの一撃は! まるで勝つ気がないではないか!」
レティシアの言葉にシリウスは目を見開いた。
そうだ……自分は最後まで勝つ為に戦っていたのではなかった。
最後の一瞬、この命を捨て、次の命で勝つことを考えてしまっていた。
こんなものが自分の求める戦いであったか?
違う!
断じて違う……はずだ……
だが、あの極限の場で当然のように選んでしまった、
次の戦いを。
次の命を……
そのことにシリウスは絶望していた。
殴りつける力も尽き、シリウスを突き放してレティシアは背を向けた。
いつの間にか雨が降っていた。
もはや手足すら動かないシリウスには、頬を伝う雨粒一つ拭うこともできない。
水滴で歪んで見えるレティシアの背中が遠ざかっていくのだった。
——
「おかえりなさい、シリウス」
それはいつもと変わらない景色だ。
目を覚ますとオフィーリアがいて、いつものように微笑むのだ。
「オフィーリア、何故私だけに……」
こんな命を……
そう言いかけて喉から出かかった言葉をシリウスは飲み込んだ。
望んだのは私ではなかったか。
強者を求めてずっと戦い続けられる。
そんな夢のような世界を求めたのは自分ではなかったか。
「いや、なんでもないよ」
シリウスは立ち上がり、歩き始めた。
その足はどこに向かうわけでもなく、彷徨うように町中を進んでいくのだった。
その様子をオフィーリアは見つめていた。
恍惚とした表情を浮かべて。
「あぁ、美しい魂に一粒の闇が……なんてことなの……汚れる、汚れていくのね……この時を待ち望んでいたわ」
オフィーリアは確認するように自分の頬を触る。
「あら、いけませんね。こんなに口角が上がってしまって……まだまだこれからですのよ」
シリウスを見送るオフィーリアは、いつものように微笑んだ。
その仮面の下に潜むものを隠して。




