503話「平手」
────ばちん!
乾いた音が響き、ディアマントは訳がわからずに目を見開いた。
「……え…?」
何が起きたかわからないうちに、ガーネの広い背中で視界がいっぱいになった。
一瞬瞬きをして開いたときには、ガーネが振り上げたラヴィハの拳を握った腕を掴んでおり、ディアマントの左耳に耳鳴りのような音が響いた。
それに気がついたときにはガーネはラヴィハの右腕を背中側に捻り上げており、左頬がじんじんと痺れるような痛みを感じ始めたころにはラヴィハの姿もガーネの姿も視界から消えて、ガーネが地面に組み伏せて制圧していた。
「────ニグラ!シーグ・アーガティ・スヴィクル!!」
ガーネのメイジーエ語での怒号にびくりと肩を跳ねさせたディアマントは、ガーネがメイジーエ語で叫んだことで何を言ったか皆目検討もつかずに『ブチ切れて皇子を即断するのでは』と懸念して声を上げた。
「ガーネ!妾は平気じゃ!なんともない!!手荒にするな外交問題になる!!」
まさか外交のこの場で、よりにもよって相手国の元首に手を上げるとはとさすがにスリラハも顔を青くさせ、同じく『やりおった』といった様子の護衛たちもガーネの言葉にそのまま従うべきかどうかと二の足を踏んでいた。ガーネの叫んだ言葉に重ねるようにスリラハも声を上げた。
「トヴァラタ!アーリヤム・ニートヴァー・アパサラタ!」
スリラハの『早く!お兄様を連れて下がりなさい!』という命令でようやく護衛がガーネからラヴィハを引き取り、ディアマントの傍にはヘルソニアとエーリック、ジェレイドが駆け寄って来た。
ガーネがラヴィハを引き渡してからスリラハには目もくれずにディアマントの方を向き直ると、白い左頬が真っ赤に打たれた痕跡を目の当たりにして表情が一気に冷えていった。
2発目は明確に『殴る』つもりで拳を握っていた。1発目の平手の方はさすがに防ぎ切ることができずに、ガーネは奥歯を噛み締めてディアマントの頬にそっと手を触れた。
「…他に、お怪我は」
ガーネが自分でも驚くほどに冷ややかで低い声が出て、ディアマントはそれを聞いて慌ててぶんぶんと首を振った。
「な、ない。平気じゃ」
「…スリラハ皇女殿下。本件は我が国元首である女王陛下への暴行です。王室近衛騎士兼特務総監として、正式な外交案件として扱わせていただきます」
「……ディアマント女王陛下。この度は兄が大変失礼いたしました。メイジーエ皇国皇族の一員として、心よりお詫び申し上げます。…帰国次第、皇王陛下にも…事の次第は余さず、報告いたします」
さすがのスリラハもことの重大さに声が僅かに震えており、深々とディアマントに頭を下げて素直に謝罪の言葉を口にした。
「本件は正式に抗議させていただきます」
「当然ですわ、異論はございません。此度はまことに、申し訳ございません」
「陛下、部屋に戻りましょう。お顔を冷やさないと。…ラズリ!医官、看護師!手当の用意と冷やすものを!至急だ!!」
ガーネの声が響き、バタバタと侍女服姿のラズリが室内へと戻って行くのを確認し、ガーネはディアマントの腰を抱いて部屋へと連れて戻ろうとした。
「ガーネ、いえ、グリーチェウト卿。貴殿が兄を止めようとしたところ、見えておりました」
「……1発目を止められなかった時点で、評価されるようなことではございません」
存外冷静なガーネの言葉にディアマントは小さく安心したように息を漏らし、ガーネの服をきゅっと掴んだ。
「…行きましょう。歩けますか」
「妾、歩ける。平気じゃ」
ディアマントを控室である広間に案内し、ソファに座らせた。
痛々しく赤く腫れた頬に、ラズリが切り傷や擦り傷の類が無いか入念に目を凝らして確認し、傷はないことを確認してからガーネが冷やしたタオルをそっとディアマントの頬にあてがった。
「……申し訳、ございません」
「なぜお前が謝るのじゃ」
「間に合いませんでした、怪我を…護衛騎士として、守りきれませんでした」
「待て、ガーネ。誰も其方を責めていない。あの位置まで其方を下げさせたのは私だ。しかし、異変に気がついて誰よりも早く陛下の前に飛び出したのは其方だ。…2発目を、よく防いだ」
ヘルソニアも状況を鑑みてさすがにあの状況では誰も止めることができないと伝えたものの、ガーネはとにかく自分があと0.5秒早く踏み出せば、あと半歩立ち位置が違えばと自責の念が消えずにいた。
「申し訳ございません」
「ガーネ!」
ディアマントがガーネの名前を呼び、悲痛な顔をしたガーネとディアマントの視線が絡んだ。
「お前は、きちんと妾を守った。これは、妾の物言いが悪かったのじゃ。わかっていたはずなのに、皇子の逆鱗に触れた妾の落ち度。お前は悪くない」
「…陛下、『ただのビンタで良かった』わ。傷も無いから、少し冷やして腫れが引けば問題ないわ」
ラズリが敢えて『ビンタで良かった』とディアマントに伝えてガーネをちらりと見た。ディアマントもラズリのその言葉の意図は理解したようで小さく頷いてガーネの顔を見た。
「冷やせば治る。故に妾のこれは怪我ではない。安心せよ、お前の落ち度ではない。そのような顔は許さぬ、命令じゃ」
「……はい」
ディアマントがようやく安心したように小さく笑みを浮かべ、『まさか叩かれるとは』と衝撃が拭えない一同の通夜か葬式のような雰囲気の中で、ディアマントはガーネの服の裾を引いた。
「どうしました」
「ガーネ」
「はい」
「…ガーネ」
「ここにいます」
「ガーネ」
「…もう、半歩すらも離れません」
「こ、…こわかった」
か細く震えたディアマントの声が小さく響き、蜂蜜色の金眼が揺れて滲んだかと思うとぽろりと大粒の雫がこぼれ落ちた。
「こわかった、こわかったぁぁーっ!!ガーネ!!わぁぁあーッ!!」
敵意や脅威に身を晒されても、実際に直接平手打ちとは言え顔を叩かれた経験など無いディアマントは、我慢しきれずに子供のように声を上げて泣きじゃくった。すかさず縋り付くディアマントの身体を抱き締め、一同はディアマントが泣く姿など初めて目の当たりにしたためになんと声を掛けていいかわからずにいた。
ガーネはディアマントの身体を抱き上げ、侍女長に視線を向けると顎でしゃくって目線で指示を出し、そのままディアマントの宿泊する部屋へと連れて行った。




