480話「ふらびりの骨格のイオン」
辺境伯邸宅に到着し、馬車を降りる際にガーネはディアマントへと手を差し出した。
ディアマントはシロクマを腕に抱きながらガーネの手を取ろうとするものの、片腕が塞がっておりドレスの裾を踏むかと考え立ち止まった。
それを見たガーネは先にぬいぐるみを寄越せともう一方の手を差し出して合図をし、ディアマントも大人しくシロクマを手渡してからドレスの裾を軽く持ち上げてガーネの手を取ってようやく馬車を降りた。
馬車寄せでシューツェン辺境伯とその奥方、執事と側近と護衛が出迎えた。
「女王陛下、遠路はるばるようこそオエィセ区、我がシューツェン領へおいでくださいました。新年拝賀の際は、王城へのご招待ありがとうございました。辺境の地で気候も異なる故、王都から来た方々は日中と夜間の寒暖差が大変でしょう。お身体はいかがですかな」
「うむ、食も風土も、王都とは随分と異なるが、充分に楽しませてもらっておる。本日は世話になる」
「では、早速ご案内させていただきます。後ほど、晩餐の席で。お部屋へは執事に案内させます。しばしごゆっくりとお過ごし下さい」
簡単に挨拶を交わしてから侍従に部屋へと案内された。
邸宅内の控え室に案内された随行者含めた一同は、晩餐会を開催する広間へ案内されるまでをその部屋で少しの時間待機していた。
「スメイラ、ラズリ。ちょっと来い」
ガーネがディアマントの傍で声を上げて、特務の2人を呼びつける。自然と周囲の視線が集まるが、そんなことは今に始まったことではないとスメイラは傍に寄って首を傾げた。
「なに?」
「これ、ぬいぐるみ。持ってて」
ガーネがディアマントの手元に抱かれたシロクマを指差すと、スメイラとラズリの視線はそこへと向く。
「ぬいぐるみではない、ゆきちゃんじゃ。タンニンのぽりぷろのあんと、あんと……あれが、固定の反応じゃ!」
「はぁ???」
ディアマントの言っている言葉が何一つ理解出来なかったラズリは意味がわからなそうに声を上げて首を傾げた。
「ふふん、ガーネ。ラズリはおばかさんだからわからぬようじゃ。ふらびりの骨格のイオンをラズリに教えてやるのじゃ」
「何言ってんのアンタ」
「赤ワイン中のアントシアニン色素はフラビリウムカチオン型を主体として存在していて、pH変動に応じてキノイド塩基・カルビノール塩基・カルコン構造へ可逆転移するんだが、繊維上に吸着した後はタンニン類との共重合および酸化縮合が進行する。さらに鉄や銅みたいな遷移金属イオンが触媒になるとフェノール性水酸基のラジカル反応が加速して高分子化する。セルロースの水酸基やタンパク質繊維中のアミド基と多点相互作用を形成して、場合によっては共有結合的な固定まで起こる。だから単純な洗浄じゃ落ちねぇ。厳密には色素そのものより、酸化重合で生成するプロアントシアニジン由来ポリフェノール集合体の方が厄介なんだよ。分子量が増大すると繊維内部への拡散深度も変わるし、非共有結合性吸着から準不可逆的固定化に移行する。特にセルロース系は微細孔内部で水素結合ネットワークを形成するから、時間経過したシミほど除去効率が指数関数的に落ちる。以上」
「フーン、了解」
「あ、なるほどね。そういうことなら預かります」
ガーネの説明で理解したらしいラズリとスメイラがあっさりと手を差し出してディアマントのぬいぐるみを預かると、ディアマントは驚愕した顔で特務の女性陣2人を見た。
「し、し、知ったかぶりはよくないのじゃ。妾はわかるけど、ええと、一応答え合わせをしてやろう。端的に説明してみせよ」
「要は、赤ワインに含まれるタンニンとかアントシアニンの成分が空気に触れて酸化して繊維にしっかりと定着染色してしまうから、時間が経つほど繊維と強く結びついて水だけじゃ落とせなくなる。ワインのシミは取りにくくて大変ねってことよ。わかった?」
ディアマントの知ったかぶりをあしらうようにラズリが端的に説明し、フンと鼻であしらった。ディアマントはようやくあの呪文が『そういうことか』と理解するものの、頭にこびり付いた謎の『ふらびりの骨格のイオンのタンニンの固定』のせいで混乱を極めつつも、最後まで知ったかぶりを貫いた。
「わかっておる!まぁ、及第点じゃ!」
「ガーネくんも、なんでまたわざわざそんな難しく説明したのよ」
「ぬいぐるみ離さねぇから。『わからせてやった』だけだ」
「アンタ、こういう頭の使い方はほんと上手いわよね」
「褒めてくれてありがとよ」
ぬいぐるみをスメイラに預けたディアマントは、先程の話がまるで理解出来ていないことを悟られまいとして今更必死に言い繕うようにガーネの顔を見上げた。
「わ、妾はどちらかというと文系なだけじゃ!ちょっとだけ物理は難しいだけじゃ!」
「物理じゃなくて化学だろ」
「妾わかるもん!」
「はいはい、すごいすごい。理数系得意なやつならあんなの簡単だし。ラズリはほとんど理解してて、スメイラで8割理解って感じかな」
控え室内にいた一同には当然ほとんどの人間がガーネが捲し立てた内容が理解出来ずにいたが、それよりも必死に知ったかぶりをしているディアマントのどこか年相応に見える意外な一面に別の微笑ましさのようななにかを覚えつつも相変わらずのガーネを筆頭にスメイラとラズリの頭の良さには末恐ろしいものを感じた。
時間にしてほんの十分に満たない時間であるが、ある意味ではものすごく長い待機時間を経てようやく晩餐の会場である広間へと案内され、それぞれ席に着席をした。




