409話「リミット・バリュー」
『結婚しなくていい』、ちがう。『子供はいらない』、ちがう。『休むなは言いすぎた』、ちがう。『ガーネと結婚したいけど我慢出来る』、ちがう。ちがうちがうちがう、全部ちがう。
数日自分で止めていた交換日記の白いページが文字で埋め尽くされ、ペンでぐしゃぐしゃと塗り潰した。完全には当然消しきれてはいないが、ページを破るのも憚られ、ディアマントは額を押さえて私室の机の上で小さく唸った。
何を書いても、上辺だけで自分の伝えたい言葉でもガーネが望む言葉でもない。
なんと伝えたらいいのかがわからない、どう素直になっていいのかもわからない。
『やきもちを妬いた』、ちがう。
『傍にいてほしかった』、そうだけど、ちがう。
新しく文字を書けばまたそれを塗り潰され、半端な書き損じが遂にページの大半を埋めてしまった。
ただ、傍にいてほしかった。ずっと自分だけを見ていて欲しかった。自分だけのものでいてほしかった。自分だけを愛して欲しかった。結果として、関係に名前をつけたり、その先の未来を望んだことは否定しない。なぜなら、『前世からずっと望んでいた』ことだったからである。
今のあの男は、ミナトではない。自分も、同じではない。ただ、魂は同じである。
ずっとずっと望んだ、何千年も愛して望んだ男が『やっと手に入った』。
いやだ、大好き、愛してる、愛して、見て、触って、求めて欲しい。
ぽたぽたと雫が紙に滴り、ぐしゃぐしゃに塗り潰したインクがじわりと滲んで紙が僅かに歪んだ。
ディアマントは寝着の袖で溢れてしまった涙を雑に擦って拭い、ノートを開いたままシロクマを抱いてベッドに転がった。
いつものように、抱き締めて隣にいて欲しい。
「……ガーネ…」
こんな状態であっさり眠れる程さすがに図太くなく、眠れずに何度も寝返りを打っては溢れる涙で枕やシーツを濡らし、その度に袖で雑に目元を擦った。
部屋の中で啜り泣く小さな声が僅かに響き、明け方近くになってようやく泣き疲れて寝落ちした。
ものの数時間で起きる時間だと起こされ、たった2時間半程度の睡眠でもこんなに眠く頭が重たいのに、ガーネはそれを1週間続けていたのかと思うとなぜ自分がそんな簡単に泣き言を言っているのかと、いかに自分が周囲に甘やかされていたのかと痛感するようで、それが堪らなくいやだった。
「……まぁ、陛下。目を擦りましたわね?腫れておりますわ。冷やすものをお持ちしますので、お目元触れないでください」
侍女長が泣き腫らしたディアマントの瞼を見て少しぎょっとした顔をして部屋を出て行き、再び1人になった部屋はしんと静まり返った。窓の外で硝子を1枚隔てて鳥が囀るのを聞き、ディアマントはベッドから身体を起こして机に向かった。
深夜過ぎまで何度も書いては消してぐしゃぐしゃになったページの下の方の余白に、一言だけ『今言える全て』をしたためて、ノートをそっと閉じて朝の身支度をし始めた。
数時間後、いつもと同じ時間にいつもと同じようにガーネが部屋にやって来た。
いつもと同じく、予定の変更有無の確認をして、それ以上は話すことが無いとばかりに「では」と下がろうとするガーネに書類の束を差し出した。
「……なんですか」
「今度の、外遊の書類じゃ」
「かしこまりました、後ほど確認します。失礼いたします」
一礼して部屋を出るガーネの背中を見送り、ディアマントは小さく溜息を漏らして額を押さえた。
特務室に戻ったガーネは自席に腰を下ろし、今しがた預かったばかりのやや分厚い紙の束を捲って中身を眺めた。
書類の間に一冊のハードカバーのノートが挟まっており、少しだけ呆れたような目をしてノートを抜き取り引き出しにしまうと、そのまま書類の中を再度確認し始めた。
目的地、行程、予算などの大雑把なものが多量の数字と共に並んでおり、ざっと目を通してから書類を机に雑に放り背もたれに寄りかかって目頭を指先で押さえた。
いい加減自分自身も限界が近く、抜けない疲労と思考の低下、目の霞みと頭痛や胃もたれ吐き気など様々な弊害が起きていた。
「……カルセ」
「はい、ガーネ様」
「コーヒー淹れて。ブラックでいい」
「まぁ、お珍しい。というか初めてでは無いですの?お飲みになれますか?」
「飲めはする、苦いから飲みたくないだけだ。もう色々ヤバい限界だ、眠いとか通り越して頭おかしくなりそう」
「コーヒーなんかではダメかと思いますが……わかりました、お待ちくださいまし」
「その状態でカフェインなんかぶち込んだら色々おかしくするわよ」
「フン、今更」
心配そうなカルセと呆れ顔のラズリを適当にあしらいながら座り直すと改めて書類を机に広げた。腕を組んで回らない頭で書類に書いてある文字を読んでいくものの、まるで頭に入らず苛立ちに任せて小さく舌打ちを漏らして膝を揺らした。
ガーネの舌打ちの多さは今に始まったことではないにしても、普段お子様舌で飲んだことのないコーヒーを要求した挙句貧乏揺すりまでし始め、特務の一同は『そろそろ限界か』と目の下に隈が色濃く刻まれた顔を見つめて本格的に心配そうな顔を向けた。
ラズリも小さく頷き、『そろそろドクターストップ』と目配せをしてはいるもタイミングを図っている様子であった。
カルセの入れたコーヒーを冷ましながらゆっくりとカップを傾けた。
飲み慣れない苦味と僅かな酸味が口の中に嫌に残りはするものの、飲み慣れないが故かその苦味に妙に目が冴えるような錯覚を一時的にもたらした。
ようやく書類を最終頁まで目を通し終わり、3割程度しか頭に入らないため見ることを諦めてファイルに閉じてしまおうと机の引き出しを開いた。
先程無視するようにしまい込んだノートが目に入り、書類と入れ違いにノートを取り出して中身を捲った。
書かれた一文を目にし、ガーネは小さく「ふん」と漏らした。
「スメイラ」
「なーに」
「俺の明日の勤務を変える」
「今度はどうするの」
「I will be off-duty tomorrow. Do not disturb me under any circumstances. This is a direct order.」
「……へぇ、オッケー。了解」
「…ガーネ」
「なんだサイフィル」
「なんで英語なの、最近」
「スメイラしかまともにわかんねぇから」
久方振りに少しだけ機嫌がよくなった様子のガーネは腕を組んで背もたれに寄りかかり直し、目を伏せた。
「10分経ったら声掛けろ」
「はいはい」




