36話「コンディション:最悪」
少し先に見える街道は道の鋪装が甘く、馬車はひどくゆっくりとしか進めない。
その様子を見張るように、一人の男が双眼鏡を構えていた。
「あの馬車か」
男は双眼鏡から目を離すと、首元に下げた犬笛を口に咥え息を吹き込んだ。
道が悪く、何度も揺れる客室。車輪が乗り上げて脱輪しないように進行している為、身体に伝わる振動もまたひとしおである。
「…………嫌な予感してきた」
顔を真っ青にしたガーネが小さく呟く。
そんなガーネの顔を見て、スメイラは小さく唾を飲み込んだ。
「私もすごく嫌な予感がする。ここで吐かないで。降りて。可及的速やかに降りて」
「え、え、なになに馬車酔い?」
「そうじゃねーよ………そうだけど」
ガーネは御者との間のガラス窓をゴンゴンと少し力を込めて叩いた。御者が振り返り、ガーネの顔色を見てぎょっとする。同時に、馬の呼吸が不自然に震えているのに気付くと、御者は手綱を引いて馬車を停車させた。怯えたような馬の背を撫でながら、後方の客室のドアが開く音を聞いて振り返った。
「お客さん、大丈夫ですか」
御者の声に返答せず、ガーネはフラフラと馬車を降りて茂みの方に数歩進んだ。
「…なに、アイツほんとに吐きに行った?」
「多分……、いや。違う」
「…スメイラさん?」
「目が、違う」
「……目?」
サイフィルとスメイラの視線は未だふらつくガーネの背中に注がれる。ガーネがゆっくり上着の左肩に右手を差し入れるのを目視したスメイラは、ガーネと同じように窓を叩いて御者を呼びつけた。
「早く!中入って!」
スメイラの声とほぼ同時に、一発の銃声が茂みの中で響いた。
ガーネが放った銃弾は飛び出した魔獣に命中し、直後ドサ、ともぐちゃ、とも取れない物体が自然落下する音が立った。
音が、どこかくぐもって聞こえる。
発砲した直後特有の聴覚の曇りの中で、鼓膜を刺すような種類の甲高い音が微かに耳の中に響いてガーネは眉を寄せた。
「……クソ、だから銃ってあんま使いたくねーんだよ」
先程のガーネとの戦闘で、向こうも多少警戒している様子である程度の距離を取って茂みから襲って来るため、否応なしにガーネは数発発砲する。
銃口が僅かに跳ねる。一発発砲する度、反動と衝撃が肩まで抜ける度に、確実に重さとして腕に疲労感という代償が蓄積する。
「6発か、あとはもう勿体ねーな」
ガーネは茂みの向こうと睨み合いながら上着を脱ぐと、それを左腕に分厚く巻き付けた。
それを『隙』と見たのか、一匹がガーネに飛びかかって来ると、ガーネは遠慮なく左腕を差し出して噛みつかせた。
鋭い牙が衣服を貫き、次の瞬間『噛み砕く』力が骨を軋ませた。
骨が折れそうな激痛に、ガーネは完全に持っていかれる前に至近距離で魔獣の眉間部分に弾丸を撃ち込んだ。
ガーネの腕に喰らいついたまま息絶えた魔獣を盾に、その後襲い来る瘴狼の角や牙を受け流し、粗方の制圧を完了させる。
「…ガーネくん、…魔獣、だけ?」
スメイラが少し不安そうな声で馬車の中からガーネに声を掛ける。他の個体から噛まれ、刺されただの動物の屍肉になった左腕に喰らいついたままの死体を引き剥がし、血と魔獣の唾液で酷く汚れた上着を投げ捨てて先程と同じように折れた角を拾い上げた。
「いや。人の気配はある。大方怖気づいて俺の前に面出せねーんだろ、連中。弱いから」
ガーネの意図的な煽りに反応したらしい盗賊連中が、明らかに盗品と見て取れる似つかわしくない豪華で美しい装飾の施された剣やサーベルを持って茂みから姿を現した。
ガーネの見え透いた挑発に簡単に乗る程度の単純さは見て取れる一方、さすがに腕の方はそれなりに立ちそうであった。
「1、2、3、……5人か。フン、ほら相手してやる。かかってきな」
挑発に簡単に乗った二人がガーネに飛びかかる。剣が振り下ろされるも、やはり動物相手よりは動きの予測が立てやすい。簡単にその剣を拾った角で受けると、容赦なくその鋭利な角を脇腹に突き刺す。男が手から落とした剣を蹴り上げ右手に収め、もう一人の男の右肩に深く切りつけた。倒れたところで遠慮も配慮もなく、膝裏に切っ先を突き立てて戦闘不能へとあっさり制圧した。
いずれも致命傷にはならないが、重傷である。
しかし、ガーネのコンディションは最悪である。
本格的に吐き気が来ていた。もう下手に動き回れない。いっそのこと吐いてすっきりしたい気もあるが、この状況で明らかな隙は作りたくない。
それは残りの三人も同じであったようで、下手に馬車の非戦闘員を襲いに行くよりは確実にガーネを始末したいが、そう簡単にいかないのはわかりきっていた。
牽制するような、様子を伺うような動きでガーネに向かってくるあたり、先走った二人よりはよほど頭を使った戦い方が出来るようだった。
ガーネはふと手を正面に翳し、相手を制止させるポーズを取った。
「待て!…いいかテメェら。よく聞け」
盗賊団の動きが止まる。随分と素直な様子に、ガーネは未だ青い顔でほくそ笑んだ。
「今俺に攻撃してみろ。俺の間合いに入った瞬間…────吐くぞ、多分」
盗賊二人は明らかに怯んだ。恐らく、ガーネの顔色から吐くというのは脅しでは無いことを悟り、間合いに入り吐瀉物を浴びる様を想像したのであろう。
その隙をついて、ガーネは怯んだ二人に斬りかかりあっという間に制圧すると、残った最後のボスらしい男が首に下げた笛を慌てた様子で吹いた。
きん、という耳鳴りよりももっと高い音が再び鼓膜に刺さる。その音はごく微かなものであったが、耳奥に残る異物感のような音の正体を理解した。
「あれか、さっきからうるせーの」
魔獣が音に反応して襲って来る。ガーネは残弾数を気にした銃を再び手にすると、咄嗟に発砲した。
バン、という音と衝撃が肩まで響く。視線を向けると男の指は笛ごと綺麗に吹き飛んでおり、狙いより少し逸れた感触に眉を寄せた。
「あ、やべ。笛だけ狙ったのに」
勝てないと悟ったらしいボスは、仲間を捨てて逃走した。それを追いかけるように、まだかろうじて動ける仲間が瀕死の仲間を抱えて逃げていく背中を見送った。
ガーネはその直後、その場に蹲ってしまう。それを見たスメイラが慌てて駆け寄ると、ガーネは馬車酔いの中で激しく動き回ったせいで耐えきれずにだらしなく嘔吐した。
「うげ、おえぇ…!」
「…せっかくかっこよかったのに。台無しだね」
「う、るせ、…水くれ…」
スメイラは落ち着くまで、魔獣の死体と血溜まりの中で嘔吐するガーネの背中を撫でてやった。




