222話「涙」
朝、ラズリに半ば無理矢理点滴をされ、比較的いつも通り仕事をし、書類の提出がてら城内を歩いていたガーネの目に、大儀礼間が留まる。
準備の出入りのために開いた扉の隙間からは、翌日の準備をしている侍従たちの姿が見える。
時間はすでに夜になっており、準備も最後の大詰めといった様子であった。
昼過ぎにラズリに胃薬を貰って飲んだにも関わらず、それを見た瞬間に胃の奥が再び重く痛むのを感じる。いつだったか、鎮痛剤を無駄に過剰摂取した前科があるためかラズリは一回分ずつしかガーネに薬を寄越さなくなった。
いよいよ、逃げられない。もとより逃げるつもりも予定もないが、言いようのない不安に胃が痛んだ。
────明日、俺は犬じゃなくなるのか。
ガーネは特務室へと足を向け、部屋の扉を開いた。
「…あれ、ラズリは」
部屋にはアメジとサイフィルしかおらず、ガーネは自席に腰を下ろしながら問いかけた。
「ラズリちゃんなら、スメイラさんとカルセちゃんと一緒に明日のドレスに合わせるアクセサリー見に行ったよ。女の子って華やかでいいよねぇ、僕も明日なんかキラキラの派手なやつにしようかな」
「あらいいじゃない、アタシも明日はフリフリのキラキラで決めちゃう予定よ」
「……お前ら『正装』って知ってる?」
呆れたようにガーネが小さく呟き、2人の楽しそうな顔を見る。
「ガーネは?明日何着るの?」
「何って俺はいつもの官服正装だろうが、他に何着るんだよ」
「あーでもアレもなかなか厳つくてかっこいいよね!紐とかいっぱいついててさ」
「紐って」
「普段のラフな髪型も素敵だけど、正装してる時のオールバックも色っぽくてあたし好きよ」
「あっそ、…別に俺がセットしてるわけじゃねぇし、大体エナかカルセがしてるから…やりたいならカルセに頼めばいいだろ」
翌日の式典のくだらない雑談に興じてはみるものの、話せば話すほどに『いよいよ明日なのか』と重く胃にのしかかって来る。
ガーネは小さく息を漏らし、胃薬を諦めて席を立った。
「お前らも、明日遅刻しないように程々で上がれよ」
「部屋いなくていいの?」
「緊急あったら俺の部屋来るだろ。上がれる時はさっさと上がれ」
それだけ言うとガーネは特務室を後にし、自室に戻った。
ソファに腰を下ろし、一層震える手を眺めた。
騎士になることの名誉は、自分でも理解している。何度も思うが、せっかく与えられた『隣にいて許される権利』は誰かに譲るつもりもないし、自ら手放すつもりもない。
しかし、そこで自分の『価値』を途端に見失う。
「…あ、そうか」
ガーネは小さく呟きを漏らした。
────自分に代わる、『犬』が用意されたら、どうしよう。
ずっと心に燻っていた『不安』の正体に気が付いてしまった。
もし、そんな存在が現れたら、自分は『ちゃんとやれる』んだろうか。
時間は22時をとっくに過ぎていたが、ガーネは構わずに立ち上がり部屋を出た。
真っ直ぐに女王の執務室に向かい、扉を小さく叩いた。
「入れ」
ディアマントの声が聞こえ、ガーネは執務室の扉を開く。
翌日の式典の最終調整の最中だった様子で、ヘルソニアと並んで下賜品や目録を机に並べ確認していたディアマントは、あまり顔色の良くないガーネを見て首を傾げた。
「ガーネ?どうした」
ディアマントの声を聞き、ガーネは言葉に詰まった。立ち尽くしたまま彼女の姿を見つめ、震える手をぎゅっと握り締めた。
その様子を見たディアマントは、隣のヘルソニアの顔を見上げた。
「ヘルソニア、外せ。ガーネと2人で話す」
「かしこまりました」
ヘルソニアが静かに一礼をして、執務室を出た。
2人きりになった室内が静寂に包まれる。
「ガーネ」
静かに名前を呼ばれ、ガーネの肩が小さく揺れた。
「……できません」
絞り出したガーネの声は、やや詰まり気味に震えていた。
ディアマントは机から一つの小さな箱を手に取り、何も言わずにガーネの傍に近寄って顔を見上げた。
「できません、すみません。…俺には、できない」
ディアマントは何も言わず、ガーネの頬に手を伸ばす。
その指先に、滲んで溢れた雫が伝った。
細い指先でその涙を拭ってやり、ディアマントはガーネの言葉の続きを待った。
「俺、が…役に立てないから、だから…俺はお前の犬じゃなくなる、役立たずだから…また間違えたら、捨てられる」
ここ数日、ガーネの体調のことは『聞こえて』はいた。
ディアマントはそういうことかと納得し、同時に数ヶ月前に自分がこの男にどういう仕打ちをし、その結果こんなに思い悩んでいるのか点と点が線になった。
この男にとって『犬じゃなくなる』ことが、このプライドの高い傲慢な男が涙を流すほどの『存在価値』の在り方であると思い知る。
何故、『騎士を辞退する』と言っていたのかを、前夜になってようやく理解した。
「…ガーネ」
「……はい」
「前にも言ったが、妾はお前に守って欲しい」
「…はい」
「お前以外は考えておらぬ」
「…はい」
「そして、お前はきちんと『周囲に認めさせる』働きをした」
「………はい」
「妾は、お前という『犬』を手放すつもりなどない。妾はお前のことを、4000年以上待っておったと伝えたはずじゃ」
「……」
「妾の犬は、お前だけじゃ。妾の犬に、『騎士』という犬種名を付けるだけのこと。それでは不満か」
それだけ言うと、ディアマントは手にした箱からダイヤのピアスを取り出した。キャッチ部分を外し、ガーネの右耳に触れる。元々、柘榴石の小さな一粒ピアスがされているが、ディアマントはその存在を無視するようにその隣に躊躇いもなく無理矢理にピアスを突き刺した。
「え、い、痛…」
さすがに痛みに戸惑ったガーネが小さく声を漏らし顔を上げると、にんまりと笑みを浮かべたディアマントと目が合う。
「これで、お前は正式に『妾の犬』じゃ。逃さぬぞ」
ガーネの耳朶から流れる血を指先で拭い、ディアマントは血のついた指先を舐めた。
新たな『楔』のようなピアスが突き刺さった箇所がじんじんと痛み、首筋に血が伝い、シャツの襟に僅かに染みを作る。
「…逃げねーよ」
ようやく、少しだけ腹落ち出来た顔のガーネを見てディアマントは柔らかく微笑み直した。
「お前は、存外面倒な子供だったようじゃ。妾はお前がまだ、19の小僧ということを失念しておったわ」
腕を伸ばし、ガーネの頭を子供というよりはまるで大型犬を撫でるようにディアマントの指先が髪に触れる。
外遊から戻った日、ディアマントからガーネの身体に抱きついたのとは真逆に、ガーネの腕が彼女の身体に伸びて縋るように抱きついた。
ディアマントの首元に顔を埋めるように身体を抱きすくめ、普段とは打って変わってどこか甘えるようなガーネの仕草にディアマントは満足そうに笑みを零してその身体を抱き返した。




