166話「飼い犬は首を噛む」
「…はぁ…結構苦労して調整して回ったのに…」
机の引き出しから関係各所向けの書類と取り出しばさりと投げた。
「────…全員、今からこれを再調整する。手分けしろ」
げんなりしながらもガーネは言いようのない安心感が内側にあったが、それは言語化しなかった。恐らく先程ガラにもなく泣きそうになったことも、全員察している。
それが自分でもわからないほど、子供ではないつもりだった。
「夕方までに終わらせるぞ。出来れば明日にでも発ちたい」
「りょーかい」
全員で分担して各所への引き継ぎ案を再調整し、なんとか形になった夕方前。
女王からの『呼び出し』の気配にガーネは小さく舌打ちを漏らした。
「今かよ…」
しかし内容はわかっている。そしてある意味では、『このタイミング』なのも向こうも気を使ったのだろう。ガーネは溜息を漏らしながら立ち上がり、緩めたネクタイを締め直した。
「スメイラ。もうほとんどまとまってるし、最終調整頼む。出てくる」
「わかった、…怒られないといいけどね?」
「『このタイミング』で呼んでる時点で『許可』以外の何物でもねーよ」
「陛下、失礼いたします」
扉をノックして、「入れ」と入室を促す声が聞こえて静かに扉を開いた。
部屋に一人、既にディアマントはいつものソファ席に座しており、静かに目の前を指差して座るように示した。
ガーネは軽く一礼をしてから、今日は素直にソファへ腰を落とした。
わざと距離を取るようにしてから、ここに腰を下ろすのは二回目だった。
「ティエフか。あの女に会うつもりか」
「はい」
「ふ、殺されぬと良いな」
「どうでしょうね。存外『可愛がられた』ような記憶もございますが、なにせあの人は人類など滅べばいいと平気で言ってのけるクチなので否めません」
「妾へも打診も無しに勝手に決めておったようだが」
「はい。ですが陛下、私に『一任する』と仰せでごさいましたよね。必要なことです。私が『盟属性』と知った連中が、次にどういう仕掛け方をしてくるか想定が出来ません。『今の状態』でいることがいかに危ういか、陛下ならご判断出来ましょう。そのためにまずはティエフ大樹海に行く必要がございます」
ディアマントはガーネを見つめて黙り込んだ。
静かに息を吐き出し、ゆっくりと目を伏せた。
「ガーネよ」
「は」
「お前は妾に随分と信を置いておるようじゃな。妾は判断を違えぬ、と?」
「はい」
「……お前が特務で話しておった通り、此度の件が『必要なこと』であることはわかっておる。だがお前、ティエフだけでは終わらぬぞ。承知しているのか」
「勿論です。『禁書庫』を拝見したので、尚更そう思っております」
目を伏せたディアマントが再び目を開くと、ガーネに視線を戻した。
「ヘルソニアに、お前が不在の間の番をさせよう」
「………よろしいのですか、随分とまた」
ヘルソニアの実力は、実際に目の当たりにしたガーネが一番よく知っている。不在の間を託して良いのであれば、これ以上ない最強カードであった。
逆に女王の方も、それだけ本気ということである。
「アレが一番適任じゃ。もちろん、あやつ一人でどうこうは考えておらぬ。衛兵長や巫術官・魔導師の立場もあろう。それに…ヘルソニアもアレでいて多忙じゃ。今一人見張らせておる人間がおる。そも、あやつは妾の側近。…ガーネよ、お前特務で五日から半月と申しておったな」
「はい」
「十日じゃ。十日以内に帰れ」
「…承知いたしました」
ガーネは短く息をつくと、最後の調整に戻ろうと腰を浮かせた。
それを見計らったかのように、ディアマントはガーネの官服の袖を指先で摘んだ。
「……いかがなさいましたか」
「ガーネ」
「はい」
ディアマントが真っ直ぐにガーネを見上げていた。
わかりやすく眉尻が下がっており、先程までの『女王』の顔ではなくどう見ても小娘のようで、ガーネは『こういう顔もするのか』と呑気に考えていた。
「ガーネ、…ガーネ」
「はい、何でしょうか」
「…ちゃんと、帰って来い」
「当たり前です。方々で言われますが、私はみすみす死ににいくつもりは毛頭ございません。死にたくないので、致し方なくティエフへ参ります」
「嫌じゃ、妾は…妾は、もう一人になりたくない。帰って来ると約束せよ、きちんと戻ると証明しろ」
珍しく王らしくなくディアマントとしての本音を零すような物言いに、ガーネは小さく息を飲んだ。
「悪かった。謝る、妾が悪かった。妾にはお前が必要じゃ、…帰って来て、必ず、妾のもとに」
その瞬間、ガーネの中でぷつんと音がした気がした。
間を隔てるように鎮座するローテーブルに無遠慮に片足を掛ける。
ガーネの右手はディアマントの細い首元に伸びていた。
「おい、黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって…お前、こんなに献身的な俺を、更迭だ?誰の首を切り捨てようとしたんだ一体。許して欲しかったらちゃんと乞え、…オネダリの仕方は前に教えてやっただろうが。なんて言うんだ?ほら」
「ガーネ……キス、して…欲しい」
「フン、まあ良いだろう。随分しおらしかったからな、今回はこれで許してやる」
くい、と首元を引き、顎先を捉え直す。
そのまま何度か重ねたことのある唇に自分の唇を重ねた。
しばらくそのまま唇を重ねただけで、それ以上のことはしなかった。
先を求めるようなディアマントの視線を至近距離で受け、ガーネは唇を離して口紅のついた自らの唇をぺろりと舐めて小さく笑った。
「なんだ、キスならしてやっただろ。女王陛下。何が不満なんだ」
「……」
「俺は言わなきゃわかんねぇぞ、それとももう帰っていいんですかね。俺も仕事があるんで」
「だ、だめじゃ、まだ妾のそばにいろ」
「いるだけでいいんですかね」
「も、もっと…もう一回、もっと…」
「あん?聞こえねーよ。お前一国の王なんだろ、しゃんとしろ」
「妾に、キスをしろ!もっとじゃ!」
「はは、良く出来ました」
矜持と欲に揺れた顔に満足した様子のガーネは、テーブルを乗り越えて同じソファの座面に腰を落とすと顎先から後頭部へと手を滑らせ再度唇を重ねた。
「ほら、もっとキスして欲しいんだろ。口開けろ」
一介の部下であるはずの男にこんな扱いをされて、さぞ悔しいだろうとガーネは笑みが止まらなかった。
悔しそうに唇を震わせたディアマントが覚悟を決めたように唇を薄く開いた。
以前にも好き勝手に唇を吸って口の中まで堪能したことはあったが、今日はその征服感が比にならなかった。ガーネはそのままディアマントの口内に舌先を捩じ込み、口付けを深くしていくと背中に震える手が回された。
至近距離で見つめた蜂蜜色の双眸に、薄い涙の膜が張っているのを見つけた瞬間、我慢が利かずにその華奢な身体をソファの座面に押し倒して、再び形の良い、屈辱と恥辱と羞恥に震える唇に貪りついた。
「ん、ッ…!」
わかりやすく小さく身体が震えるのを見ると、ガーネは目の奥をギラつかせてディアマントの細い首筋に顔を埋めた。
甘い香油の香りと柔らかく白い肌。
これを今からどうにかするのかと思うと、色々なものがどうでも良くなりそうな気持ちになる。
しかし、ガーネの中ではまだギリギリ『理性』は存在していた。
首筋に何度も吸い付くと、白く陶器のような肌にいくつもの鬱血痕が残った。
その痕をわざと煽るように舌で舐めてから、おもむろに噛みついてぎり、と歯を食い込ませた。
「い、う、ッ…!!」
「あー、可愛い。最高」
皮膚の破れる痛みに小さくうめき声を漏らしたディアマントを満足そうに見つめながら、ガーネはゆっくりと身体を離してその姿を見下ろした。
「…なあ、ディアマント様」
何日か振りに呼んだ『名前』に、ディアマントはびくりと肩が揺れて薄く濡れた目でガーネを見上げた。
整った顔に凶悪な嗜虐趣味丸出しの目を向け、唇には紅と真っ赤な血が付着していた。
「お前、自分が『誰の飼い犬』を捨てようとしたのか────よーく覚えとけよ。お前が捨てようとした犬は、首を噛む駄犬だからな」
それだけを言うと、再度唇を重ねてからガーネは立ち上がった。
「…ガーネ」
「『続き』はまだだ、お前は少し反省してろ。その首の痕が消える前には帰って来てやる。俺はお前の犬で駒だ。俺以外の犬も駒も認めない。いいな、わかったか」
「……妾は、躾を間違えたのかもしれぬな」
「はは、そうやって期待して待ってな。ディアマント様。…次舐めた真似してみろ、本格的にわからせてやる」
ガーネはそのまま女王の執務室を出ると、名残惜しそうに口元の痕跡を手の甲で拭い満足げに笑いながらわざと遠回りをして時間をかけ、特務室へと戻って行った。
*****
翌朝、特務は謁見の間へと集められた。
整列し、敬礼した一同の前でディアマントは玉座から立ち上がり声を発した。
「楽にせよ」
全員が静かに姿勢を正す中、ディアマントは静かに全員に声を掛けた。
「此度の行動、妾の名において許可する。ガーネ、ならびに特務の者どもよ、よく聞け。先に動くと決めた以上、半端は許さぬ。必ず務めを果たし、必ず生きて還れ。以上じゃ」
「御意に」
ガーネが厳かに返事を返す。
「お約束通り、十日以内に帰還いたします。それまでの間は、せいぜい鏡でもご覧になりながら、大人しく良い子でお待ちください」
「…鏡?」
最近のディアマントへのよそよそし過ぎる敬語であったはずが、妙に引っかかるワードが散りばめられていて一同は無意識にディアマントに視線を投げた。
普段は滅多に着用しないような、首元まで覆うデザインのドレスを纏い、隠しきれない首元のあからさま過ぎる嫉妬と所有欲にまみれたいくつもの赤色が痛々しく散らばっていた。一同はガーネの顔を見ると、当の本人は大層満足そうに笑いながら自分の首元を指差して笑った。
「…首、隠れてねーぞ。ちゃんと隠しとけ、……我が女王陛下」




