第八話 生きているということは、死んでないということだ(最奥・四)
ゴモリーは阿頼耶の行動を、少しの間待った。
感情のままに殴られてしまうのかもしれない、それは仕方無いことか――とも思っていたが……。
しかし阿頼耶はこちらの胸倉を掴む以上のことは、してはこなかった。ゴモリーは――これは彼の度量の大きさだ――という理解で、そんな彼の顔を見つめるのである。
「瀬那愛美には、貴方の心の力の行く先を導ける者であって欲しいと望んでいた。だから彼女の動向も気に掛けていたけれど、やがてその心の弱さを知るにつれ、それは叶わないのだと思うようになったわ」
「……お前は悪魔なんだろ。だったらお前が母さんをそんな風に変えたんじゃないのか?」
阿頼耶は、怒る気持ちの弾みでそんなことを言ってしまう。
手は出さないことにはしたが、それでも彼は、彼女が悪魔である事への疑いを拭った訳では無い……。
しかしゴモリーは微かに困った気持ちの表情のまま、彼にこう言い返すのだった。
「貴方が怒っているのは分かる。けど私の話を聞いていない、という態度を取るのは止めて欲しい。――私は貴方の心が強く前へと育つことを望んでいたと、そう言ったわ。それなのに何故貴方の母の心を弱めて、貴方の枷としなければならないの?」
貞淑に、凛とした声で彼女の言葉は紡がれる。
「……すまない」
阿頼耶は、あくまで弾みで浮ついたことを言っただけに過ぎない。
しかしそれを自覚し、彼女の言葉に思いの芯を感じて、そして自分の浅はかさを認めてみせたのだった。
……ゴモリーは阿頼耶に、こうも語った。
「自分の気持ちに駆られて相手の言うことの意味を歪めて認知してしまう――という態度は、悪魔にとっては寧ろ心に付け入る隙となる。どうか憶えていて」
阿頼耶はその言葉に、深いものを感じずには居られなかった。
「……悪魔が、いや、悪魔ってそんな風に自分から人間に、手前の特徴を教えても良いものなのか?」
彼女に対して、なるべく差別に当たらない言い方を、つい、心掛けていた。
ゴモリーは阿頼耶のそんな対応一つで、彼の知性から来る懐の深さを感じ取るのである。
「――古来、悪魔は己と対峙した人間がこちらの思惑に正面から触れる程の知性を発揮した時には、その個としての才覚に賛美して、己が持つ知恵を分け与えていたのよ。現代の人間はその事実を知る由も無いのでしょうけど」
そう告げながら、彼女は本当は阿頼耶に微笑み掛けたい気持ちを生じさせていた。
だが今はまだ、それは許されないことだと自分を律する。
……彼女は、四年と半年もの間彼との対話を待っていたのだ。だからここでは少しの失敗もしたくは無いと、そう強く思っていたのである。
「……母さんを見捨てたのは、どうしてだ?」
阿頼耶は今ゴモリーに、衝動では無く問い掛けとしてのその言葉を発している。
「少しだけ、答え方が難しくなるかもしれない。――悪魔にも、霊威の格というものが存在していてね。私達個の悪魔が座する格になると、人間を相手に、中途半端な形での介入は逆にしなくなるのよ。してもそれはその人間の運命を正しく弄んでしまう事に繋がってしまい……当人や周囲の者には悲劇以外何物にもならない」
阿頼耶は怪訝な顔をしてしまう。
「話が大き過ぎる」
だがゴモリーはその言葉に対し、断固とした思いでこう答えた。
「霊威持つ存在について人間が無知であり過ぎるから、そういう風に思うのよ。けど貴方の精神性なら、直ぐに理解は出来ずとも感じ取ることは可能な筈……。訪ずれた出逢いに対し、瞳を閉じて殻に籠もるような人では無いでしょう、貴方は?」
阿頼耶は逡巡したが、やがて微かにだけ頷いた。
――そういう人間じゃ無いから、俺は独りになった訳だしな。
その事実からも、彼は瞳を閉じる気が無い。
そんな阿頼耶の覚悟を、ゴモリーは感じ取って、受け止める。
「……はっきりとした言い方で言うわ。その霊威の格に座す私にとって瀬那愛美の精神の生死には、世界で数多起こる事象の中での、ほんの小事でしか無かったのよ。――私の心が、彼女の運命の終わりを気に留めるまでも無い出来事だと断じ、そして私はその自分の心に正直で在ったの」
ゴモリーは、この時には彼を見つめる瞳の力を強めていた。
「私は、自分にとっての小事には手を出さないの。……出せないのでは無く、出さない」
最後、敢えてそう言い切ったのは、ニホンに生きる人間は『手を出せない』という言葉に強く縛られ過ぎるきらいがあると、悪魔として知っていたからだ。
「お前……」
阿頼耶は、ゴモリーの本気の言葉に息を飲む。
……彼女にとって愛美の死に繋がるこの話は、彼に向けて、最も真剣に語らねばならないものである。
これは、愛美を見捨てた事を阿頼耶に許して貰うなどという話では決して無い。
「貴方の為だけに彼女を救い、貴方に恩を与えて、それで私の語る善意を都合良く汲む善人で在れという枷を、代償として貴方の運命に掛ける――もしも私がそんな天使のような女だったなら、果たして私は貴方の奥底に在る真なる精神性に、微かにでも触れることが叶ったかしら? ……決して不可能だと私には分かるわ」
ゴモリーは、悪魔としてこの世界に立っている。だから間違っても、そんな存在と化してはならないのだ。
――阿頼耶はゴモリーに相対して、今彼女に、常人には存在し得ない、明滅する心の瞬きを感じつつある。
「瀬那阿頼耶。私は今、私の悪魔としての矜持で以て貴方と対峙している。これはどうしても理解して貰わなければならないこと」
「悪魔の、矜持?」
ゴモリーは深く息を吐いて、そして、一つの真相を伝えてゆく。
「人間の価値観の多様化ばかりが進み、『我の価値観を認めろ』と叫ぶ者ばかりが増え、しかし己が隣人等の価値観の違いを受け入れる精神へと進む事は、拒絶する……信仰さえもかなぐり捨てて、そうまでしても、元々他者と分かち合う形で幸福という感情を得ていた心は変えられずに居る、現代の人間。――かつて人が神と崇めた存在の、その大いなる意思の一端は、そんな遍く精神性のバランスが大きく乱れた世界を整え直すつもりになって……私を始めとする七十二の個の悪魔を、天使へと生まれ変わらせる計画を思い付いた」
ゴモリーの紡ぐ話に、阿頼耶は驚愕した。
ゴモリーは貞淑に、語る。
「天使という名称は、貴方にとっての聞こえは良いものであるかしら? けどその実は神の、その尖兵として私達を利用するという事なのよ。……言葉をどう幾重にすれば貴方に伝え切れるか、正直私にも分からない。まだ分かり易いと思える話をするなら、私達個の悪魔はその昔地上で或る一人の賢王に、悪魔でありながら仕えていた事があったわ。それも発端は神の差し金――その魔力を宿した指輪一つを私達を使役させる魔道具に仕立てて、悪を御する力だと声高らかに告げ王に与え、その効果を広く世に知らしめたの」
「何を言ってるんだよ、お前……」
阿頼耶は戸惑い、ゴモリーもそれは無理からぬ事だと理解出来ていたが……。
しかしそれでも今肝心なことは語り切るという、そんな決意で彼女は話し続ける。
「悪魔だって、何も無から生まれた訳じゃ無いの。創造主とも呼ばれるかの存在を、人間も天使も悪魔も皆共通としている。……役割が有ったのよ、悪魔にも。悪心を知り司る魔霊宿せしものを世界に配して、そして善悪の調律を担う存在の一つとした。私達の意思は私達自身の物として持たせて、その上で神の領分とする運命で、結果だけを自分の思い通りにするように私達を縛った」
「運命……」
「――神が縛る運命に私達が対抗出来る力となるのが、地上で得られる掬火なの。今現在、神が掛けた新たな運命の枷に縛られている私達は、掬火が尽きれば死んで天使に変わる」
……ここまで話を聞いていた阿頼耶が、遂に、口を挟む気となった。
「アガレス一派も、ベリアルも、アスモデウスも、その為に地上に降りたって事なのか? それに、お前も」
ゴモリーは無言で頷きもせずに、こう語る。
「考えはそれぞれよ。ただ皆、黙って弄ばれてやるつもりでは無いわ。――今は私の考えだけ貴方に伝える、それが何よりも大事だから」
「……良いさ。ここまで教えてくれたのはお前なんだからな」
阿頼耶は真っ直ぐな思いでゴモリーにそう伝えた。
そうした理由を細かく説明することは、彼自身にも出来なかった。ただ、敢えて言うなら……阿頼耶は彼女の懸命な話し方が嫌いにはなれなかったのだ。
これは理屈で測れるものとは違う、彼ならではの思いであり――。
そしてそんな彼の言葉に、ゴモリーは――。
『何故かいつの間にか上から目線に立たれてしまっている』と、そんな風に思って、この重大な話の中で思わず、苦笑をした。
「……ふふっ」
……これが阿頼耶との対峙での、彼女の一番の笑顔となったのである。
「え?」
「何でも無いわ。ごめんなさい」
そしてそんな苦笑をしたことに、彼女は――これでこそ彼に賭ける意義が有るというもの――と、自身の心を熱くする。
「私は私としてこの世界に生きる。けどだからといって掬火をどうこうするなんて気には、微塵もならない。それよりも、かの存在の計画を根底から打ち滅ぼせればそれで片が付くと思ってるわ。……その為に私は貴方を現代に於ける、個の悪魔を従える王たる者にしたいのよ。神が仕立てたものでは無く、私という悪魔が私の心で認めた王たる者に」
その言葉に、彼女の眼に――阿頼耶は、畏れの念は抱かなかった。
それは彼女が発する感情が、彼の最も良く知るものであった故に。
そうだ。
それはゴモリーの、貞淑に燃えて昇る戦意だったのである。
――極点へつづく――




