第八話 生きているということは、死んでないということだ(最奥・三)
阿頼耶は地面に倒れていた。
意識ははっきりしているが、しかし身体を動かすことは叶わなかった。
――感覚が麻痺してるのか? ……おかしな感じだ。痛みだけは凄いっていうのに、身体を動かす機能だけが壊れてしまってるみたいな、そんな感じがする……。
実際には。
阿頼耶はベランダから墜落した時、その身に魔力のオーラを発現させ、衝撃に対する防護としていたのである。
だから一命は取り留めたが、その残った生命力を無為に消耗させない為に、無意識的な本能の働きで身体の方が動くことを拒否したのだ。
聴覚が、人々のざわめきを捉える。
同じマンションに住む者や周囲の民間人が、阿頼耶の事を見ている。
皆に対し阿頼耶は、もう、こう思うようになっていた。
――……近くまで来られたら、厄介だな。説明したとして、信じるか?
心に矛盾した二つの思考が生じる。
生きてこんな理不尽さを振り払いたいという思いと、しかし民衆に対してはこのまま死んだ扱いにならないだろうか、という思いである。
――今俺を見ている人達の誰にも、母さんの事を話したくない。俺の事もだ。
理解されず怪訝な目で見られるのも、理解されて『辛かったな』と肩に手を置かれるのも、どっちも嫌だ――はっきりとした心で阿頼耶はそう思う。
「……あ……」
阿頼耶の口から驚きの声が小さく漏れる。
彼の見上げる目線の、その間近に。
異空間の門が開いて、その中から――。
彼に覆い被さるように両手を伸ばす、赤いウェーブ掛かったロングヘアの女が現れたのだ。
女が阿頼耶を抱くと、門は彼女ごと阿頼耶を飲み込んで、消えた……。
※
阿頼耶は女の髪の匂いを感じながら、自分が今何処かの宮殿に居るらしいと理解する。
「ごめんなさい。乱暴な連れ出し方をしてしまって」
女が顔を上げてそう語り掛けた。
……乱暴というのは、いきなり抱き寄せてきた事を言ってるのだろうか――と、阿頼耶はぼうっとした頭でそう思った。
乱暴と言えば乱暴なのかもしれない。こっちの意思は無視されていた訳だから。
しかし彼にとっては、その事を思う以上に気に留めることが多過ぎたのだ。
手を差し伸べてきて、阿頼耶を引っ張り上げる形で共に立ち上がる彼女は、間違い無く、彼が初めて出逢う女では無かったからだ。
見知った相手――というものは、それが良く思っている者であれば、相対しているだけで生きる力を循環させ合うのかもしれない。
「あんたは? それにここは――」
阿頼耶の問い掛けを遮るように、女は人差し指を彼の前でぴんと立てて、それから少しの間彼を見つめてきた。
女は無表情だったが、阿頼耶にはそれが何となく、微笑んできているようにも見えた気がした。
「一つずつ、答えさせて。貴方との話に、私の気持ちが慣れるまでは」
『慣れるまで』と言ったその言葉の意味が、阿頼耶には理解出来なかった。
女が男にそんなことを言ってくるなんて、これまでに一度も経験していなかったからである。
『私の気持ちを察しろ』ならば、うんざりする程聞いてきているが。
「私はゴモリーで、ここは地上に近い異空間に在る宮殿。――私という個の悪魔の城よ」
女――ゴモリーの言葉に、阿頼耶は睨むような表情となる。
「……正直、初めて逢った時もあんたの事只者じゃないって思った」
「察していたわ。そんな貴方を、私は流石だと思っていた」
――貴方って呼んでくるのか、この女。
阿頼耶は彼女を睨みながら、ふとそんなことを思う。
「今はまだ、あまり難しい話はしないでおきたい。良いかしら?」
「そうだな。……ただこれは直ぐに聞かせて貰う。あんたは、アガレス一派とは違うのか?」
「違うわ」
ゴモリーの答え方は、簡潔で明瞭だ。
そしてその後に、必要なことを語る。
「ついでに言えば、アスモデウスの仲間でも無い。私は私の思想で行動してるのよ」
ゴモリーはここでふと笑った。それも唇の端が微かに上がる位の、感情が前に出過ぎない笑い方だ。
弱い、という印象よりも……。
彼女は今困っているのだろう、という印象だった。
「私はこの四年、自分の思想を遂げる為にそれが必要と、貴方の事を見てきた。――貴方に気付かせるという負担を掛けさせないように、私から言う。貴方の母瀬那愛美は悪魔の術中に嵌まっていた……それを私は知っていたわ」
ゴモリーが落ち着いた声で、阿頼耶に告げる。
「――っ!」
阿頼耶は、気付いた時には彼女の服の胸倉を掴んでいた。
「お前――!」
本当は頭の中で、何をするにも先ずは彼女の話を聞いてからだ、という思考が浮かんでいた。
それでも感情が先に出てしまった。怒りという名の、自身の心の芯に深く刻まれた感情が。
――しかしそれは、今この場に於いては呑み下さねばならない感情である。
ゴモリーが阿頼耶に相対して、貞淑で在るからだ。
――(四)へつづく――




