第八話 生きているということは、死んでないということだ(最奥・二)
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阿頼耶は自宅で、入浴を済ませていた。
幾分英気も養うことも出来たが。
夕方レライエにやられた傷……特に顔の左頬の蹴られた痕はかなり目立つものであり――。
彼はその痕を鏡で見ながら、あの戦いでの事を改めて記憶に刻み込むのであった。
寝間着としてのジャージ姿でリビングに立った彼は、そこで母の帰宅を迎える。
「母さん?」
もう夜も深い。いつもの帰宅時間よりも大きく遅れて帰ってきた愛美に、阿頼耶は軽い驚きを見せずにはいられなかった。
愛美は済まなさそうに「ただいま」と告げた後、阿頼耶の顔を見て、眉を顰める。
「その傷、どうしたの?」
「……悪魔にやられたのさ。けど大事って訳じゃない、気にしないでくれ」
阿頼耶は数日前、愛美に、既に悪魔と戦う意思を伝えている。
今更何を取り繕う必要がある――阿頼耶はそういう思いであったのだ。
「そうなのね。……ちゃんと家に帰ってきてくれたから、良いわ」
愛美の返答は、これまでの彼女を思えば意外なものであった。
「てっきり怒られるかと思ったよ」
阿頼耶はそう軽口を叩いたが。
しかし内心では……『お前に怒ってももう無駄でしょう』と、そう詰られても文句は言えないという風に思っていたのだ。
……愛美は、優しげに微笑む。
「だって私にはそんな資格なんて無いもの。これまで私が弱い所為で苦労を掛けてしまって、本当にごめんなさいね」
そう言って、阿頼耶に向けて頭を下げていた。
「いや、そんな事をするのは止めてくれ! 俺は母さんに、そんな風に謝って貰う事なんてのは望んで無いんだ」
阿頼耶は慌てて、愛美に顔を上げるように促す。
本心でそうしたのだ。
そんな阿頼耶に、愛美は少しだけ、寂しげな表情を向けるのだった。
「優しい子よね、お前は。……そうよ、こんな優しい子を、私は縛り付けてしまって……」
……自分の体を両手で抱いて、愛美はうつむき、全身を震わせる。
「母さん? ……本当に良いんだ、気にしないで。前にもこれはちゃんと言ったじゃないか、俺はここまで俺を育ててくれた母さんには感謝してるって」
阿頼耶は心からの優しさで、愛美に微笑み掛ける。
……阿頼耶は日常では、大らかな性格であったのだ。
それは、友人と信じていた者達に対してもそうだった。
だから彼はその大らかさ故に、愛美の違和感に、気付けない……。
「阿頼耶……。ありがとう。お前は本当に私と、そしてあの人の――晴人の、大切な息子だわ」
愛美は笑顔となって、阿頼耶にそう告げた。
そして――その右手に、輝きの純度の高い青白い刃の短刀を、出現させるのである。
阿頼耶はここで瞬時に、はっきりとその短刀の危険さを察知した。
「母さん、何でそんな物を――!」
短刀を自身の喉に宛てがう愛美。
悪魔の魔力の一端を、自らの身で以て知る阿頼耶には理解が出来る。
その短刀が、これまでに見た悪魔の得物より強い力を秘めた物だと!
短刀から放たれる力に、愛美の身体が呼応する。
短刀が、彼女の中に眠っている彼女自身の魔力を呼び覚ましているのだ。
「母さん!」
叫びながら、阿頼耶は思い出す。
――四年前に堕天の涙が開き、多くの人間がまともに動けなくなっていた中で、愛美がずっと阿頼耶を探すべく歩き続けていた事を。
「最後にお前と、こうして正面から向き合えて良かったわ。……私は、親子としてお前と過ごせて――幸せだった」
阿頼耶は愛美の手から短刀を取り上げるべく動いたが……。
しかし、それは彼女の魔力に依って阻まれてしまう……。
「くっ」
――こんなに強い力を持っていて、何で……そんな弱った顔をするんだよ……!
分からないことの方が遥かに多い、そんなこの状況の中で。
阿頼耶は、嘆きの心でそう思うのだ。
一筋の涙が、彼女の笑顔の彩りとなる。
……それが、生きた愛美の最後の表情だった。
「――っ!」
「母さ――!!」
死に依って、愛美の溢れる魔力は弾け飛ぶ。
その中に混じっていた彼女の掬火だけは、まるで行き先が決まっているかのように、何処かへと飛び去ったが……。
それは室外まで弾き飛ばされ、ベランダの柵に背中を打ち付けられてしまう阿頼耶には、捉える事が叶わない。
「う、あ――!」
重心が傾き、頭から、真っ逆さまに墜ちる。
――この時の阿頼耶には、愛美の事を思うのとは別に……。
まるで運命が闇の方、闇の方へと、自分を押し込めようとしているみたいだと、強く、強く感じていた……。
諦めかけて、そして次に、怒りが、湧く。
全身を黒き魔力のオーラが包み込んで、阿頼耶は、地面へと激突した。
――(三)へつづく――




