第八話 生きているということは、死んでないということだ(終局・四)
阿頼耶は暫し黙って玲子を見ていた。
ただの変な奴だ、と思っている訳では無いが……。
しかし今の阿頼耶は近しい世代の者に対し、もうまともに話そうという意識を持たないのである。
……そうとは知らない玲子は瞬発的にこう思う。
――や、やばいっ。このままじゃこのお方との会話が終わっちゃうぅ!
阿頼耶と話せる切っ掛けが無くなる事……それを避けようとする気持ち。
だから、彼女は押しの一手を打つのだった。
「あっ、痛いっ! 実は私、さっきその、突き指しちゃって! すっごく痛いんですぅ!」
そう言って阿頼耶に右手を差し出してみせる。実際、確かにぶつけた薬指だけ妙な方向に曲がっていた。
痛むのも確かである。だが今の玲子は、阿頼耶との出逢いに心舞い踊っている状態……それ故に痛覚もやや鈍り気味というのが真実だった。
だから本当は普通に耐えられたが、阿頼耶の気を引く為に、敢えて弱々しい感じを演出してゆくのである。
「さ、触ってみて貰えませんかぁ?」
あまつさえそんなことを言ってみせる。
手先程度とはいえ肌の接触を目論むのは、この玲子という女が自分の気持ちに対して爆発的に真っ直ぐな性を持つ故。
「――ああ」
阿頼耶はこの時、迫り来るレライエの存在に気が付いていた。
阿頼耶以上の迸る黒のオーラを纏い、奴はこちらへと近付いてきていたのだ。
だから急がなければならなかった。
「――きゃばあああアアァーッ!!」
玲子の絶叫が木霊する。
阿頼耶は彼女の右手薬指をそっと掴み、そして眼前に迫ったレライエの攻撃を防ぐべく構えを取った時に……弾みで彼女の指をくいっと曲げていたのだった。
「ふん、反応自体は悪くねえな」
……レライエが、防御の為に前に出された阿頼耶の左腕を掴み笑い掛ける。
「あばばばっばっ!!」
「――!」
玲子が走る激痛に叫び、阿頼耶が自らの戦意を鋭くさせる。
掴んだレライエの腕を振り払い、握った温かな感触をした玲子の細い指をそっと、離す。
「おっご……」
痛みに悶える玲子に、阿頼耶はほんの少しだけ視線を遣る。
その彼の眼の感じに、玲子はこう思ったのだった。
――うわぁぁぁっ! ま、まるで雑草を見るような眼で、私のこと見てるぅー!?
……レライエの更なる攻撃に押される形で、阿頼耶が後方へと飛び退る。
瞬く間に遠ざかる彼の姿を、玲子は指の痛みに喘ぐなんかより重要だ――とその目で追う。
彼女の阿頼耶の眼への感じ方は正解だ。さっきの阿頼耶には、玲子の事を構っている余裕が微塵も無かった。
だからイラつき等といったネガティブな思いさえも無く、ただただ玲子を、其処に在るありふれた動く物体という認識で見ていたのだ。
至極真っ直ぐな心で。
レライエが繰り出す攻撃を、阿頼耶は的確に受け止める。
躱さないのは、黒い魔力の影のオーラを纏いながらずっと飛び続けているからだ。
足が着けばまた瞬時に角度を変えて飛び退る。レライエの攻撃の手は、一向に収まらない。
……玲子は阿頼耶を見詰めながらこう思う。
――いいい、いきなり馴れ馴れしく行っちゃったのが失敗だったぁ? 速攻で嫌われちゃうとか超ヘタ打ったよぉぉっ!!
玲子は馬鹿程正直な女という訳では無いが、しかし根っこの部分が全力で阿呆だった。
それは決して勉強が出来ないという意味では無いし、クラスでは機転も利く方である。
要するに頭では無く、心が阿呆なのだ。
だから彼女は阿頼耶に対し、女に優しくない男などという見方をするような精神を、根源的に持ち得ないのである。
――あああああ、ごめんなさいぃーっ! 私は名も無い草で、貴方様は吹き荒れる風ですぅーーー!!
だが阿呆であるが故に、何処までも阿頼耶の強さを褒め称えることが出来た。
他の民衆だって、阿頼耶の常人離れした動きはしっかりと目に入っている。
しかし彼等は精々《せいぜい》、その常人とは異なる様について、『悪魔の仲間割れか!? 』というような感じ方しか出来ずにいる。
今の阿頼耶を同じ人間だと瞬時に認識出来ないのは、無理からぬ事ではあるのだろうが。
しかし玲子の場合、 或いは元々……。
人間だとか悪魔だとかというような、そんな漠然とした域を出ない共通認識では、その目で見る相手の事を判断していないのだった。
……阿頼耶は今尚レライエの攻撃を躱しながら、ここで、奴に遊ばれているという事実に思い至る。
レライエが「ふん」と笑ってみせ、そしてこう語り掛けてくる。
「お前俺の攻撃を受ける度その身から出てる魔力が洗練されていってるが、手前でちゃんと気付いてるか?」
阿頼耶ははっとする。確かにこうまで長く動き続け、未だに疲労に負けず魔力の放出を維持出来ているのは、奇妙だと理解出来たのだ。
今のオーラを纏った高速移動を継続して行うのは、単に攻める為の力を繰り出すよりもずっと困難な事の筈なのである。
「やっぱり気付いてなかったか。まあ無意識の内にそれがやれちまうってのは、お前に魔力を扱う天性の素質が有るからに他ならねえぜ」
レライエのその言葉を聞いた後、阿頼耶は奴の動きが見えなくなった。
そして、頭上に飛んでいた奴の、強烈な回し蹴りを側頭部に食らう。
「ぎっ!!」
衝撃に意識が揺れる。その最中にあって阿頼耶は――奴の真意が自分の魔力を引き出すことだったのだと知った。
……玲子は遠目にだが、阿頼耶が危機に晒されているらしいと理解出来た。
「あああーっ!?」
彼の身を案じて右手を握る。痛みは有ったがしっかりと握れていた。
あの時偶然にも、阿頼耶は正しい方向に彼女の薬指を曲げ直していたのである。
――や、やばいよあれー! あのイケメン様、このままじゃやられちゃうっ!
それは嫌だと心に強く思う。しかし自分が行って何になるのかと、駆け出す決意を持つことが出来ない。
……レライエが右手を横に伸ばすと、奴の手元の空間が開いて、中から奴の得物である剣が出現した。
剣を掴み、奴は阿頼耶の胸にその青白き切っ先を突き立てる。
「ぐぅああっ!!」
「俺はお前に興味が湧いてんだよ、どうやらアスモデウスの奴からその魔力を分け与えられてるらしいお前にな。……手前自身の人間としての魔力では無く、悪魔の魔力をその精神力で扱ってみせてるお前は、もしかしたら高みへと昇ることの出来る奴なのかってよ」
阿頼耶は剣に掬火を吸収されながら、レライエを睨むことを止めずにいる。
レライエは、阿頼耶のそんな様子にも笑うのだ。
「へっ、そうだなぁ。一度頭を冷やすのも良いんじゃねえか? 折角覚えたオーラの出し方、忘れないように冷静になって思い返せば良いと思うぜ」
阿頼耶の鋭い眼を涼しげに受け止めて、奴は剣を引き抜く。
阿頼耶は、胸を手で押さえながらも、両の足で立ち続けることが出来ていた。
さっきまでの熱い戦闘意思はレライエの言った通り、一時の落ち着きを得ているが。
「まあ、また直ぐに会うだろうぜ。アスモデウスが動き出した以上、俺達も出張るしか無い訳だから、な」
レライエは、そう予言めいたことを口にして消え去った。その表情は仄かに緊迫感と、そして高揚感とを表しているようだった。
……一人立ち尽くす阿頼耶の前に、フレンチキッス属が飛んで来る。
しかし阿頼耶はそいつへと目線を移し、冷静に「……よお」と、他愛の無い会話をする位の気持ちで声を掛けたのだった。
「ヒ、ヒギャッ!?」
阿頼耶の様子に只ならぬものを察知した奴は、逃げるように離れていってしまう。
「……何だよ。人間も悪魔も、まるで話が通じねえ」
ふとそう呟き、しかし阿頼耶は広い空を見上げて――この敗北《負け》を次に活かしてやる――と、思いを新たにしてみせたのだった。
――最奥へつづく――




