第八話 生きているということは、死んでないということだ(終局・三)
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愛美は一人、夕刻の街を歩いていた。
「……」
失意の中に在る彼女。
数日前、息子である阿頼耶から『死の覚悟を付けたから、後は俺の好きにする』と告げられた。
もっと多くのことを話されたという記憶は有る。しかしその内容を一つ一つ思い浮かべるだけの余裕は、彼女には無かった。
ずっと大事にしてきた息子なのに。それなのにあれだけの強い言葉を浴びせられるなどとは――。
思ってもいなかった。親である自分が嫌だという意思を示せば、それで踏み止まってくれると、本気でそう信じていた。
だから愛美は、自身にとって一番心に突き刺さった彼の言葉だけを、強く反芻するのである。
そしてそれさえも心に繰り返す内、愛美自身の認知の限界に引きずられてしまう。
阿頼耶の口から語られた、彼の思いが込められた話の原型から……どうしても歪みが生じていってしまうのだ。
――あれからずっと、私は一体何をどう間違ってしまったのだろうって、そう考え続けたけど……。
憔悴した精神で、そう心に呟く。
――答えが、出ない。ずっとずっと考え続けても……。
……ゴモリーが、ビルの屋上から愛美を見下ろしていた。
「――貴女の精神は彼の事とは無関係の内に、貴女自身の人生を送る内に澱んでいたのよ。貴女自身が前を向かなかったから……だから肉親であることを名目に、彼の精神の躍動にまで歯止めを掛けようとしてしまった」
冷徹に、惰性の感情も無く、ゴモリーは独りごちる。
「人生に正当性を付与したがる……或る程度の年月を生きた人間なら、それは己の精神を律する為に必要なのかもしれない。――けれどその手段として自分の子の心を従えさせるのは、家庭を持てばそれだけで平穏が約束されるという思いを抱く者の、哀れ極まる勘違いというものよ」
ゴモリーは、人間の味方という訳では無い。あくまで彼女は彼女の思惑の為に、この地上で行動をしている。
自身が見出した阿頼耶という男の精神を、彼の母である愛美は抑え込めようとするのみだった。
ゴモリーにとってそんな愛美は、決して救いの手を差し伸べる対象にはなり得ないのである。
ゴモリーには今、愛美の憔悴した暗い精神に狙いを定める悪魔もが見えている。
――フルフルが彼女に目を付ける、か。……分かる話だわ。奴は作り物の安寧に縋ろうとする人間の掬火が好物だもの。
……愛美の意識へと精神感応の魔力で直接語り掛ける、個の悪魔フルフル。
――お前の苦悩、俺が断ち切ってやろう。
「だ、誰……?」
愛美は驚きの表情で周囲を見渡す。しかし抗う心でそうしているのでは無い。
――大丈夫だ、恐れる必要などは微塵も無い。俺にはお前の全てが分かる。
言葉には力が宿るものだが、声というものにも、また力が存在する。
街に潜む悪魔のフルフルはその甘美の声で以て、人間を相手に、平然と嘘を吐くのだ。
「苦悩を、断ち切る?」
自身の心の悦楽の為に、他人に対し嘘を吐く――というのは、嘘を好む者にとってはよくやる行為なのだろうが……。
悪魔フルフルは、そういう者にとってどんな嘘が大きく悦楽を得ることに繋がるかを知っている。
……それは自分の心へと向けて吐く嘘、だ。
――ああそうだ。さあ、答えを示す為に、先ずはお前の心を一度全て曝け出せ。……心配することは無い。お前がどれだけ罪の意識に苛まれていようとも、どれだけ自分の恥に身悶えていようとも、俺にとって人間は、皆等しくクズ虫だ……。
正直で、強い――相手に向けて絶対を示さんとする言葉を、フルフルは紡ぐ。
「く、クズ虫……。そ……」
愛美が息を飲む。しかしその口から否定の言葉が出ることは……。
彼女の主体性の発露が為される言葉が出ることは、無かった……。
「……そうかも、しれな、い……。だって私は、あの子、を……阿頼耶、を、繋ぎ止められなかったんだもの……」
愛美の中には、自らの事を赦せる要素が何一つ存在していなかったのである。
阿頼耶が彼女を拒絶した時、彼女は彼の訣別の言葉を……子供の反抗という認識でしか受け止められなかった。
だから息子の訣別を、自分の親としての力が不足していた所為だ、と思い違いをしてしまった。
……彼女は未だに阿頼耶の、一人の人間として示した決意と、向き合えてすらいないのだ。
だから未だに、今はもう空虚に過ぎない母という概念たけで自身の事を測ろうとする。
自身の心に、精神に、誇れるだけのものを積み重ねていなかった。だから赦し方も赦され方も、分からない。
――俺はお前の苦悩を終わらせてやれる。さあ、こっちに来い。
「あ、ああ……」
悪魔フルフルの囁く声に、惹かれるように……愛美は街の暗がりの方へと入っていく。
……ゴモリーはその様を、ずっと見続けていた。
彼女の目が細められ、冷徹な声が空に触れる。
「貴女の運命、ここで詰んだわね……」
――彼は、これを不幸と捉えるのだろうけど……。
思うことの中心に在るのは阿頼耶だ。阿頼耶の精神が檻に閉じ込められるような事にはならないで欲しいと、それだけを願う。
表情からは読み取れないゴモリーの心は、今ざわめきを上げている。
無意識に、自分の髪を撫でる。
「……髪型、少しは変えなくちゃ」
友であるウェパルの言葉を思い出し、そう呟いた。
ゴモリーは悪魔で、人間よりも己の冷徹さに素直だが。
それでも自分が見出した男に、四年の時を経ても何も変わらぬ化け物だという風に思われてしまうのは……。
「彼なら、そう思われる可能性は零では無いものね」
……哀しいと、本心でそう思うのである。
※
黒毛前髪ぱっつんの女子――玲子は、形の良いその胸を高鳴らせていた。
自分の目の前に居る、力強き瞳の青年に向けて。
――うおっ、目が合ったぁ!
青年――阿頼耶が玲子を視界に入れる。
「大丈夫か?」
「はいっ! 貴方様のお陰で助かりましたぁ!」
玲子はさっき放たれた阿頼耶の飛翔蹴りを、しっかりとその眼で認識していた。
迸った黒いオーラが、自分の目の前で突如彼の姿になった瞬間も含めてである。
何故あんなに強い攻撃が出来たのか?
何故その身体から黒いオーラを放っているのか。
……玲子の詰まり過ぎずとも良い形をした胸は、そんな疑問が先に生じるような仕組みにはなっていなかった。
――凄いっ! こんな強い人が居たなんてぇ、きゃっほーいっ!
自分の危険を助けてくれた存在に、とにかく素直に心躍る……。先ず一番に来たのがその気持ちであったのだ。
「そうか」
この悪魔襲来の真っ最中に、ひたすら綺羅綺羅と輝く目で見てこられる。
阿頼耶にとってそれは、確かに印象に残る仕草ではあった。
――(四)へつづく――




