第八話 生きているということは、死んでないということだ(序幕・三)
「アスモデウスが……?」
「そう。この四年悪魔は皆、ヤツが誰を殺しに来るのか常に気にしていたけど。……結局、アガレス一派を最大の敵と定めたみたいね」
ウェパルの言葉に、ゴモリーは思案を巡らせる。その表情は、微かに物憂げであるようにも見えた。
ウェパルはその大体の理由を察していた。
「現状、瀬那阿頼耶と一番因縁深いのはアスモデウスだものね。ヤツが表立って動くとなれば、今は平穏の皮を被ってる彼の心だって、ざわつき出すに違い無い」
ゴモリーは何も言葉を発さない。
そんな彼女に、ウェパルは溜息を吐くのである。
「……最初に彼に接触したのに、きちんと自分の物にしておかないから。だから他の悪魔に取られる事になるのよ」
ゴモリーの脳裏に、かつての、十三歳であった阿頼耶との会話が思い出される。
「……王に近い気位を持つ彼は、その心の強さ故に、大変なまでのへそ曲がりなのよ。一度心に相手への反抗心を抱けば、頑なに拒絶する意思を崩さない」
静かにそう語り出したゴモリー。
「だから一度は身を引いたってんでしょ。それは前にも聞いたわよ。でもって流石のアンタも、その直ぐ後に彼があのアスモデウスと同調するとは思いもしなかった――って所もね」
ウェパルはその話を、地上に降りてまだ間も無かった頃に彼女から聞いたのだ。
二人で共に和食屋のランチを堪能した、その後で。
「さながら振られ話のようだったわよ」
「うるさいわね。私の今の話はまだ途中よ、黙って聞きなさい」
ゴモリーがジトっと目を細め、ウェパルは口を尖らせる。
「とにかくね、私と彼の――阿頼耶君との勝負はまだ終わってはいないのよ。私があれから一度も彼の前に姿を出さないでいるのは、彼に私の事を、最初に逢った時の思い出の存在のままで留めていて貰う為」
――母さんは、お前みたいに気色悪くないからな。
……ゴモリーは最初の出逢いで、阿頼耶からその言葉を放たれている。
思い起こして、彼女はほんの少しだけ浮かない顔になりはした。
しかしゴモリーは永い時を生きてきた悪魔であり、それ故に、オトナの女だ。
だから、この言葉が必ずしも阿頼耶の本心でない事も分かっている。
「彼はあの時、私の事を得体の知れない女だという風に思った。普通の少年ならそこで心を強張らせる所だけれど――」
そして相手の女に弄ばれるか可愛がられるかするのが、男女の営みの一つの定石、という見方も出来るものだが。
「――でも彼ははっきりと私を拒絶した。その得体の知れなさを理由にね」
ゴモリーはここまで話している内に自分でも気付かず、浮かない顔から一点、ふと微笑んでいた。
「まあ、アンタが入れ込む男ならそれ位しそうだとは思うわ」
ウェパルはゴモリーの微笑みの表情を見て、からかいの意味でその返しを入れるのは、やめておいた。
あくまで真面目な話として、ゴモリーの気持ちを重んじてそう返してやったということだ。親友として。
「で、アンタの瀬那阿頼耶を落とす為の戦略は? とっておきのを、残してるって事なんでしょ?」
ウェパルのそのお膳立てのお陰で、ゴモリーは幾分心地良く、次の言葉を話すことが出来た。
これは元々、誰にも語ることを憚られる思いだったからである。
「どうあれこの四年で、彼自身が、あの時の私に対して思ったのと同じ位に……彼にとっての得体の知れない人間になりつつある……。だから……」
ゴモリーは、自嘲と、胸がすく思いとが入り混じった心で、ウェパルに語る。
阿頼耶は自分の心の強さが周囲の人間にとっては異質であるらしいと、知り始めている。
その事で、自分の心の正当性を見失いつつある。
……ゴモリーは、我ながらよくもこんなおかしな理論を思い付くという自嘲と――それでもこの考えはやはり成果を得ることになるのだろうと、確信めいて、そう思う。
「彼がこの世の誰をも、自分自身さえも信じられなくなってしまったその時に――私が彼に手を差し伸べてあげるのよ。何処にも行き場の無くなった彼の心が、最後に自分を見つめ直すことの出来る、写し鏡の役割としてね」
ゴモリーの赤い髪が夜風になびく。冷たくも優しい、見返りなど求める筈の無い、自然の風だ。
……運命は変えられるものだと、人間の中にはそう語る者も居る。しかし悪魔にとってはその言葉は絶えず懐疑的だ。
事実としてこの四年間ゴモリーが願ってきた、阿頼耶の母・愛美が彼の強き心を導くという希望は、成らなかった。
阿頼耶も愛美も互いのことを思い続けてきたと、ゴモリーは知っている。彼らの姿を遠くから見続けてきたからだ。
しかし、二人が心からその手を取り合う日は、遂に来なかった。ここまですれ違ってしまったのなら、もう無理なのだ。
これが運命で無くて何だと言うのか。
――今は介入は出来ない。悪魔や神に連なるものが介入した運命は、その人間にとって、魂にまで課せられる業となるが故に。
ゴモリーが阿頼耶に望む心は、神や天使が用立てる勇者のそれとも、ましてや悪魔の傀儡等とも違う。
「アスモデウスは、切っ掛けよ。ヤツも彼も男で、馬鹿だから……。ちゃんとしっかりした女の私が、付いていてあげないと」
ゴモリーのその言葉を、ウェパルは、軽口であると受け取った。
……ウェパルが、微笑みで返した。
「馬鹿は女もでしょ? この私の言葉なんだから、これはちゃんと受け止めておきなさい。――それとね。瀬那阿頼耶に逢う前に、ちょっと位は見た目に変化付けなさいよ。髪型弄るとかさ」
悪戯っぽくそう言って、そして――後はアンタのやりたいようにしなさいな――と、言外にそう付け足したのである。
「ふふっ。貴女から忠告されるなんてムカつくわね」
ゴモリーは心地の良い感情の波を感じながら、今はそれに逆らわず親友の軽口に笑っていた。
この先は、自分にとっても地上に於ける地獄であろうと――そう覚悟を決めながら。
――前半へつづく――




