第七話 祝福と呪縛は似ている(前半・一)
悪魔とは、悪を識り司る魔霊宿せしものである。
……赤い髪の淑やかな女――悪魔ゴモリーは、多くの人間が苦しみに蹲る中で一人空を見上げていた。
瞳に映っているのは、暗雲の中で光を放つ巨大な紋様。
「……あの堕天の涙に依って、この区域は私達悪魔の世界と繋がりを持った。しかしこの街の人間にとってこれは、余りにも突然の出逢いというもの」
彼等の身体からは赤い光の筋――精神の力である掬火が抜け出て、ゴモリーが堕天の涙と呼んだ紋様へと吸い寄せられている。
「神や悪魔との接触を長らく行わなかった人間達」
そう言ってゴモリーは周囲を見遣る。
「……それが直接の原因とまで言って良いかは分からないけれど。少なくとも人間同士だけに依る生の営みは、彼ら自身の精神性を矮小化させる結果に繋がったと私はそう思う」
世界は決して一つだけ等では無く、次元を超えて数多存在するものである。
そして今あの堕天の涙を通じて、この区域と悪魔の世界は繋がっている。
その事自体が、今ゴモリーの眼前で苦しんでいる者達にとっては災厄だった。
きっと人間は地獄と呼ぶであろうその悪魔の世界には、地上とは比較にならない強く濃い魔力が存在している。
今その魔力は地上の大気へと漏れ出し干渉し、結果的にそれに触れている人間達の希薄な掬火にさえ浸透し、吸い取っていたのだ。
だからこの惨劇は、堕天の涙を開いて地上に来訪してきた悪魔にとっては気に掛けるまでも無い、ついでとして起きた事に過ぎなかったのである。
ゴモリーは、こんな風な事を心に思う。
――もし人間がほんの数年だけでも己が精神の力を磨いていたのであれば、今とは少しは違う状況にも、なっていたかもしれない……。
「……」
ゴモリーはある気配を感じ取って、魔力の影を纏い近くの家屋の上へと移動した。
そして、気配の主であった人間の女の姿を見下ろす。
「ああ、阿頼耶。お願いだから、無事で居て……」
その名を声に出して、人間でありながら掬火を奪われる事無く、それどころかその身に影のオーラを放って彼女は歩く。
ゆっくりと――己から湧き上がる不思議な力に恐れ慄きながらも、それでもゆっくりと歩いてみせる彼女。
……阿頼耶の母の瀬那愛美だ。
ゴモリーは彼女の後ろ姿を目で追いながら、独りごちる。
「貴女が彼を……あの少年をより強く導く事が出来るのであればと、勝手にそう願わせて貰うわ。その母としての精神の強さ、どうか無駄にだけはしないで……」
その言葉には、ゴモリーの祈りというべき感情が籠もっていた。
悪魔の世界の魔力は人間の精神にさえ干渉するが……。
その精神が強い者であれば、そこに秘められた自身の魔力が逆に呼び起こされる事も、可能性として存在し得るのである。
愛美は擦れ違う苦しむ人々のその呻き声を聴きながらも、まるで相手にせず進んでいた。
その意識は半ば朦朧としてしまってさえいる。
それは彼女の精神がただ一つの思いに集約されて高められ、生じた魔力を制御出来るまでには至っていないからだった。
しかしもしその精神に余力が残されていたとしても、恐らく彼女は他人の事を気に掛けてはいなかっただろう。
気に掛けたとてどうにも出来ない状況であったのも確かだが……
「阿頼耶……!」
……それ以上に、今の愛美には阿頼耶の無事を願う事しか頭に無かったからである。
……ゴモリーは、その悪魔としての情で以て愛美を見ている。
そして彼女の事を理解し、真っ直ぐに受け止めていた。
「ただひたすら我が子の安否のみに心の全てを傾ける……それが悪心と見なされるものだとしても、それでも私は貴女を赦してあげる。だって貴女はその想いを支えに、今自分の足で歩いてみせているのだから」
例え神や神に与する種族が罪だと説くような行いであっても、そこに心の脈動が存在するなら、悪魔はしかとその者の意志を見出す。
悪を識り司るとは、こういう事なのである。
※
阿頼耶は二人の悪魔の傷付き血に塗れた姿に圧倒されながらも、その内の一人――銀色の髪の男としっかり目を合わせていた。
そこには決して怖気の感情などは存在していない。
寧ろ鬼気迫る思いが生じて、それが男の戦意に共振する心を更に加速させるのであった。
――この感じ……何かと本気で戦って、心が熱く燃えてく感じ……そうなる一方で、逆に心が澄んでいく感じも有って……。
そんな風な事を意識している内に、自分の身体から影のオーラが出ている事さえ何も気にならなくなっていた。
それ程に自分の精神から生じた力を、阿頼耶は自然なものとして受け入れていたのだ。
……銀色の髪の男は、彼の今の心の有り様を見出していた。
「――」
言葉は何も発しない。しかしその眼の輝きが、阿頼耶を見る程に深みを増すのであった。
――地上に堕ちて直ぐに、こんな人間と出逢えるとはな。
そう思いながら、彼はやがて阿頼耶から目線を外して、再び対峙している男の方へと向き直った。
右手に赤い旗がなびく騎槍を持ち、その穂先を突き付ける。
「なあベリアル、人間を滅ぼすなんてのは、悪魔として最も程度の低い考えなんだよ。そんな思考に凝り固まったお前はもう死ぬべきなんだ」
その口調は尋常ではない圧力を纏いながら、しかし驚く程静かなものであった。
ベリアルと呼ばれた男が見せているのは怒りの形相。その手に握った幅広刃の大剣もまたギラリと光る。
「私の地上侵攻を邪魔するだけに留まらず、そんな口をきくのかアスモデウス! もう禁忌など知った事では無い、この私が貴様を屠ってくれる!!」
叫び声に呼応して彼が放つ殺気も激しくなる。
赤みを帯びたオレンジ色の優美なロングヘア。ルビー色の瞳は熱く煌めく。
上衣は朱色を基調としつつ金糸の飾り刺繍が施されていて、それを纏うこのベリアルは正に王者の風格を漂わせていた。
だが銀色の髪の男――アスモデウスはそんなベリアルに対して、自身の悠然とした態度を微塵も崩さない。
――(二)へつづく――




