第七話 祝福と呪縛は似ている(序幕・二)
「私と一緒に、逃げてはくれないかしら。もうすぐここは地獄になるの」
そう言ってくる女の横を、阿頼耶は素の顔で通り過ぎる。
余りにも意味が分からな過ぎて、逆に怖いだとかは思わなかった。両親や佐山が言ってきた言葉の方が、阿頼耶にとってはよっぽど心に来るものがあった。
「信じて貰えないかしら。キミには見所が有るのよ、だからここで命を落とすような事になって欲しくないの」
女は冷静な口調で話し続けていた。
「……母さん今日俺の好きなおはぎ作るって張り切ってたから、帰らなきゃ」
母の、自分の心を繋ぎ止める為の行動。
それを面倒だという風に感じていたから帰りたくなかったのに、しつこい彼女に対して、ついそんな答えを口から出してしまう。
「そう。母さんの事が、好きなのね?」
女のその言葉には、まるで阿頼耶の事情を知っているかのような、そんな深みが纏わりついている。
得体の知れない女。
でも彼女の声色は落ち着いていて、阿頼耶は不思議と、それを綺麗だと思ってしまっていた。
それでも、彼女の言葉に心を傾ける訳にはいかない。知らないオトナの女なんて、自分にとってはきっと怖いものの筈だから。
……阿頼耶は心強いが、少年だ。だから彼女を拒絶するのに、必要以上にきつい言葉を発してしまうのである。
「母さんは、お前みたいに気色悪くないからな」
悪気は無いなど、そんな事は決して言い訳にはならないが……。
阿頼耶は、適切な女の振り方をするにはまだ経験が足りな過ぎたのだ。
「……そっか」
女が哀しそうな声でそう呟いたのを聞いて、阿頼耶の心に瞬時に罪悪感が走った。
――っ!
逡巡したが、それでも阿頼耶は自分が酷い事を言ったと認めて、彼女の方へと振り返る。
彼女はやはり哀しげな顔をしていたが、それでも淑やかな笑みを絶やしてはいなかった。
さっきの阿頼耶の言葉を、彼の強がり故に出たものだと分かっていたのだろう。
「キミが私の事をちゃんと受け止められる位オトナになったら、その時もう一度だけ逢いに行くわ。それで駄目なら、キミの事は諦める。……じゃあね」
彼女はそう言って、阿頼耶の目の前で姿を……消した。
「あ……」
阿頼耶には何が起こったのか分からなかったが、しかし――それを気にしているだけの余裕を持つ事は出来なかった。
再び家へと歩き出して、少しした後……。
「なんだ!?」
急激に空が暗くなって、阿頼耶の近くに居た人達が胸を押さえ苦しみ始めたのだ。
「あがあああ!!」
身体から赤く鈍い光が昇り、奇声を上げて倒れ込み、そうなった者を暴走した車が跳ね飛ばす。
「おいおい、ふざけんなよ!?」
車を運転していた者も、同じように苦しんでいたのだ。だから人を避ける事が出来ず、最後には塀などに激突していく。
阿頼耶だけが正気を保っていた。それが自身の心の、精神の強さの賜物なのだとさえ、今の阿頼耶には分からない。
空が一層暗くなる。
阿頼耶は、その事で逆に浮き彫りになった、空に浮かぶ大きな紋様を見付ける事が出来た。
「あの光ってる紋様が、この事態を引き起こしてるのか?」
紋様から発せられる得体の知れない波動を感じ取り、そう結び付けて、走る――!
――なんとかしないと!!
半ば無意識にそう思っていた。
行った所で何になる?
そんな事は承知の上で、体が勝手に動いていた。
多くのうずくまる人々とすれ違う。そして暴走する車が、阿頼耶目掛けて突っ込んで来る。
「ハッ!」
阿頼耶は横に大きく跳んで、車を躱していた。
自分自身とは思えない、尋常では無い脚力で。
――これは!?
止まらずそのまま走り続ける。その速度も上がっていた。
阿頼耶の全身に力が湧き上がっていたのだ。
徐々に体から噴き出ていく、黒い影のオーラ。その波長は空の紋様から放たれる波動と、似ているように感じられた。
煙が上がっている家を見付ける。住人が火を使っている最中に、倒れ込んだのだろうか。
そんな考えが頭にちらつきながらも、阿頼耶は空の紋様へと走る事を止めなかった。
紋様から、二つの人影が墜ちてくる。
その事の方が、絶対に放っておけない事だと思えたからだ。
人影はずっと揉み合うようにしていたが、地面に激突する直前になって、互いの意思で離れた。
轟音と共に周囲に走る衝撃波。――それを間近で受けながら、阿頼耶は二人の……血に塗れた悪魔を見る!
――悪魔だ。こんな奴等は、悪魔以外にあり得ない!
見た目は人と変わらない。しかし彼等は互いが互いに向けて、暴風のような殺意を撒き散らしていた。
阿頼耶はこれを悪魔の殺意であるとしか感じ取れなかったし、実際彼の感性は正解を引き当てていた。
額から汗が流れるが、それを拭う気にはなれなかった。
片方の悪魔が、阿頼耶と目を合わせて来る。
黒のズボンに、大きく前を開けた白い上衣。そこから露出する、壮麗で、強靭な肉体。
神をも恐れないかのような鋭く光る金色の瞳。尖った両手の爪は、その身に滴る血と同じ赤。
輝くような銀色の、力強さを想起させるウェーブ掛かったロングヘアの、その男。
……感じ取ったのは、何がなんでも己の思いを貫くという凄まじいまでの意志。
阿頼耶は息を飲み、そしてこう思った。
――なんだ、こいつ。まるで、他人の気がしない……!
理屈抜きに理解出来たのである。男の底無しの戦意と、自分が心に秘めるそれが烈しく似ていると。
男と阿頼耶は、同時に、鋭い笑みを浮かべていた。
その魂が惹かれ合うかのように。
――前半へ続く――




