風雲
天文二十一年。六月七日。
西暦で言うなら1552年5月くらいか。
俺がこの時代に来てもう半年になる。
最初の頃こそ戸惑ったけど、今ではそんなことも少なくなった。
刀もまともに振れるようになった。
吉兵衛に言わせると、筋がいいらしい。剣道やってたおかげかな。
…が、馬はまだ慣れない。
歩く、走る、曲がる、止まるなどの日常的な事はこなせるようになったけど、馬上で刀や鑓をうまく使えない。
ま、今まで馬に乗って戦う、なんて必要性がなかったからなあ…
…まあ、これから先は馬乗りだけが花、って訳でもないし。
「まだまだ不調法ですな」
吉兵衛が、尻餅ついた俺を笑う。
木刀の切っ先は俺の眉間に向けたままだ。
「…10回のうち5回は死ななくなったさ」
「ハハ…いくさ場ではすべて一度しかないぞ」
いつの間にウチに来たのか、若旦那も縁側に腰掛けて笑っていた。
ふん。吉兵衛が打ちかかってきた。横に逃げながら足を払う。
吉兵衛は俺の足払いを避けたが、その隙に立ち上がって体勢を立て直すことが出来た。
吉兵衛と立合うときは、お互い具足を着けることにしていた。
”普段から具(よろ)って練習しておけば、戦(いくさ)ばたらきで後れを取る事も少なくなるだろう“
と吉兵衛はいうのである。
木刀での立合いとはいえ、当たれば大怪我だ。
具足を着けていれば怪我も減るだろうし、いくさ場だと倍疲れるから、普段から具足の重さに慣れておけ、と言うことらしい。
戦が近いのか、と以前に吉兵衛に聞いたことがあった。
「遠い近いで無(の)うて、今も戦しとる最中よ」
「誰と」
「今川よ」
分からなくもない。何しろ今から8年後には、桶狭間の戦いが起きるのだから。
納得がいかない、という体でさらに聞いてみる。
「戦場(いくさば)でどうこうしとる訳では無いがの。鳴海の山口どのが怪しいのよ」
「へえ」
さも驚いた、という顔をしてみせる。
「知らんのか。殿様は大和どのの事をえらく買うておったが、当てが外れる事もあるようじゃの」
「そこはいいから、鳴海の山口がどうしだんだい」
膨れ面をしてみせると、吉兵衛はドヤ顔で続けた。
「今川侍がちらちらと出入りしておる。うつけの下で無うて、こっちに付かんか、とな」
うつけ、とはもちろん三郎信長のことである。
信長の父・信秀は、尾張国下四郡の守護代、織田信友の配下として辣腕(らつわん)を振るっていた。
鳴海城の山口教継もその信秀の威に従っていたのだが、信秀が死に、信長が当主となると、反抗心を露わにしたのだ。
当然その裏には尾張に手を伸ばそうとしている今川の影がある。
山口教継は表立って今川に付いたわけではないが、それはもう時間の問題らしかった。
「ほれ、大和どのが若旦那様に拾われた日よ。ちょうど小戦(こいくさ)しとったろう。今川方の岡崎衆とやりおうたのよ」
「あの日かあ」 …拾われたんじゃない。
懇願されたの!こ・ん・が・ん!
……行く当てもなかったけど…。
「あの日は鳴海の衆が加勢してくれれば、もそっと楽に済んだのにのう。山口さまは急病で、と言うて出てこんかったわ」
「わざと戦わなかったって事?」
「そうよ」
これには本当に呆れた。
「そろそろ止めにせんか。腹が減ったろう」
若旦那は鉄砲で猪を獲ってきたらしい。
若旦那が欠伸をしている。
「これ、五郎どのが獲ったのか?」
「おうよ。中々のもんであろう。せき、支度を頼む」
せきは猪を見るなり、
「い、いいい猪など触れませんっ」
と、慌てて俺の背中に隠れてしまった。
こ、これは………いい。
鼻の下を伸ばして間抜け面の俺。
その後ろで俺にしがみつく、せき。
若旦那と吉兵衛が疑いの眼差しでこっちを見ている。
「…見たか、吉兵衛」
「は。しっかりと」
「か、勘違いするな二人ともっ」
「そ、そうですよ、け、監物さまも吉兵衛どのもおやめくださいっ」
若旦那も吉兵衛もまだこちらをじっと見たままだ。
…二人ともニヤニヤするなっ。
「何だよ二人共。別にくっついただけじゃんか」
…せき、そこで頬を赤くしてるんじゃない。またフラグが立つだろ。
「一寿どの。ぬしは嫁を取る気はないのか」
若旦那が真顔になる。
「え。だって俺嫁さんいるし」
…せき、そこで悲しそうな顔するんじゃない。フラグ確定じゃないか。そんな俺を見て、若旦那は大きく息を吐いた。
「未練は捨てよ」
「未練、かねえ」
「どれだけヌシが嫁を想おうとも、もう逢えぬであろうが。吉兵衛、せきと一緒に俺の屋敷へ行ってまいれ。委細は母屋で聞けば解る」
吉兵衛とせきが屋敷を出て行った。
若旦那は真剣な顔のままだ。
…うーむ、困った。
「ここから先は、せきはまだ知らぬがよいと思うてな」
「ありがとう。でも」
「未来とやらの嫁の事を想うて、せきに手を出さなんだのは知っておったわい。
側女(そばめ)と考えればよいものを」
「嫁の事愛してるからさあ。俺とあいつが逆の立場で、あいつがもし死んだらと思うと側女なんて持てないし、第一、せきに失礼だよ。浮気相手って事だろう」
そこまで言った時、思いっきり拳骨で殴られた。
「何するんだよっ」
…死ぬほど痛い。
「愛してる、という言葉の意味は解らんが、浮気という言葉は解らんでもないのう」
殴ったのはちょとまずったかな、みたいに顔をポリポリ掻いている。
「せきはヌシの事を好いとるのだ。わかってやってくれ」
「俺の気持ちはどうでもいいのかよ」
若旦那は俺の言葉を無視して空を見上げ、言った。
「せきはな、俺の腹違いの妹なのだ。親父どのが侍女に手をつけた。…その侍女は母者に殺されたがの」
「ひどいな」
「ああ。せきはそのことを知らぬ。あれが十の歳になるまで、商人の娘として育ててあったからな。それからは俺が引き取ったわ。侍女としてのう」
「引き取った?」
「せめてもの罪滅ぼし、かのう。引き取ってからは親父どのとは暮らしておらぬ。那古野へ行く時以外は会うてもおらぬ」
…せきを連れて城を出たのか。
若旦那が15の時って事か。
…過酷だな。
自分に妹がいる、それはともかく、自分の母親がせきの母親を殺したと知れば、一緒に暮らすなんて嫌にもなるだろうな。
…そして。
その事態を招いた父親も同罪だ、ということか。
辺りはすっかり暮れていた。
桜が散る時節になったが、夜はまだ充分寒い。
俺と若旦那は猪鍋の支度をしている。
篝火だけが音を立てていた。
「早う二人とも戻らんかのう。何をしておるのか」
「屋敷に行かせたのは自分だろ」
俺は若旦那と二人だけの時は言葉遣いとか遠慮なく話すようにしている。
「五郎どの、さっきの話だけど」
「…すぐにとは言わぬ。胸に留めておいてくれ」
だけど、と俺が答えようとした時、何かの音が遠くからボォー、ボォーと聴こえてきた。
…しばらく間を置いてまた聴こえてくる。
ボォーォ……ボォーォ…
ドラマでよく観た、法螺貝の音だ。
若旦那が鋭く周りを見渡す。
「五郎どの」
「判っておる」
馬のひずめが急に止まる音と共に吉兵衛が勢いよく飛びこんでくる。
「若旦那様。陣触れにござる。急ぎ支度を」
「うむ。して、せきはどうした」
「若旦那様の御屋敷にそのまま留め置いてごさりまする」
「相判った。吉兵衛、そちはこのまま大和に与力せよ。委細任せる」
「はっ」
言われると吉兵衛は馬に乗り駆け出した。
自分の屋敷に支度に行くのだろう。
吉兵衛を見送っていた若旦那がこっちを向いた。
「一寿どの」
「何だい」
「これからしばらくの間、ワシはオヌシに殿様面をせねばならぬ。煩かろうが、我慢なされよ」
「わかってるでござるよ」
俺は笑いながらそう言った。
「ござるよ、か。ぬしがござるなどと言っても全く似合わんの」
若旦那も笑っていた。